HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『クールベと海・展』観賞・総集編

『クールベと海・展(at パナソニック汐留美術館)』観賞

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 表記の美術展は、4月10日~6月13日の日程で、汐留パナソニックビル内の美術館で、開催されていたのですが、4/25に発せられた緊急事態宣言の影響で、4/28から当分の間休止されることになったのです。従って、以前から見に行きたかったのですが行けなくて、そのうちタイミングを見計らって行こうと思っていたのが、結局4/27しか残りが無くなってしまいました(恐らく、今日28日の東京のコロナ新規感染者数が、1000人近くに急増しているのを見ると、暫くは休止が続くと予想されます)。 これを見逃したら後で後悔するかも知れない!と思って、昨日(4/27)WEB申込みを見たら夕方の予約が取れたのです。急いで現地に急行して観てきました。

 クールベは、フランス写実主義の画家です。『石割り』は有名で、確か中学の教科書にも掲載されていたと思います。パリ、オルセー美術館にかなりの数の作品が、所蔵されています。今回は、海外から渡来した作品も有りますが非常に少なくて、殆どが日本国内の各地の美術館から集めたものです。日本にこんなに沢山クールベがあったかとびっくりしました。

 再開発された汐留地区に足を運ぶのは初めてです。高層ビルがここ10年程で随分増えて、ビル街に変貌しました。

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汐留パナソニックビル

「パナソニック汐留美術館」は、このビルの4階にあり、入り口の階は松下電器製品の「ショウルーム」になっています。

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チケットは予約時間制で、入場者数を限られた数に絞り、密状態にならない様に配慮していました(昨年6月からの『National gallery of London 展』で上野の国立西洋美術館が先鞭をつけたコロナ対策です)。

中に入ると一展示室数人程の観客がいるだけでした。これまでの経験から、これならコロナは大丈夫と安心して鑑賞出来ました。

展示は大きく以下の五つのテーマに分けられ、各テーマの絵も幾つかに区分できるので、次回から順次描かれた背景、特徴などを交え記していくつもりです。

Ⅰ.クールベと自然、

Ⅱクールベと動物

Ⅲクールベ以前の海

Ⅳ.クールベと同時代の海

Ⅴ.クールベの海

尚、Ⅰの中の冒頭には、クールベ以外の作家の絵画が数枚先に紹介されているので、それらを抜き出し、ここでは     0.クールベ以外の自然、というテーマを設定し第1回に記する予定です。

 4月初めには様々な美術展が行われていたので、連休に入ったら音楽会ともども観ようと思っていました。例えば東京藝大美術館での『渡辺省亭/欧米を魅了した花鳥画 展』、けれども今回の緊急事態宣言で、全滅になってしまい残念ですが仕方ない。今度こそ今までに無い科学的根拠に基づく、強力な感染対策を実施し、「日本では法律が無いからロックダウン等は出来ない」等言い訳じみた後ろ向きの話は止めて「肉を切らせて骨を絶つ」覚悟で対策を推進して貰いたいものです。市民の協力が十分得られないのは、その覚悟が無いからか、有っても伝わらないかなので、自分も含めて反省すること大です。

 それから何と言っても「ワクチン!!」「ワクチン!!」。

 ワクチン接種数の順位(=何人接種したか)が世界の国の数十番とは、嘆かわしい限り。誰の責任でないかも知れませんが、日本の自分たちの実力はその程度に落ちぶれてしまっていることは、自覚して置きたいものです。

「Japan As Number One」の時代がなつかしい。

『クールベと海・展』観賞詳報0―①<クールベ以外の自然①>

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クールベ

 ギュスターヴ・クールベは、1819年フランス国境の村オルナンの裕福な地主の家に生まれ、十歳台から絵画を学び、21歳になると、パリ、ソルボンヌ大学の法学部に入りました。ここは、現在の様な行政法律の指導層(大統領他)を輩出するENA(フランス国立行政学院)がまだ設立されていない時代で、事実上フランスの最高学府でした。しかしクールベは法律家より画家になりたいと思い私立画塾のアカデミー・シュイスに通い詰め、またルーブルでの模写に明け暮れました。このアカデミーは多くの将来名を成す画家たち、即ちセザンヌ、ピサロ、マネ、シスレー、ルノワール、デュラン等を輩出しています。 自然画、風景画のコローもここで学んでいる。

 クールベは故郷の風景画を多く描きました。クールベが生きた19世紀は自然を直接観察することが重視されていたのです。パリ郊外のフォンテーヌブローの森に出掛けて汚れ無き自然を描いた多くの画家達の絵画は、パリの人々に引っ張りだこの人気でしたが、コンクールである「サロン」では必ずしも正当な評価は受けませんでした。

 『フォンテーヌブローの風景』を描いたコローは、最も初期にこの森を訪れた画家の一人です。

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コロー『フォンテーヌブローの風景』

この絵は現地で描かれた戸外習作の一つと考えられ、こうした絵をアトリエに持ち帰りそれに肉付けして完成作品を仕上げたものと見られます。

 『廃墟となった墓を見つめる羊飼い』はコローの師、ミシャロンが1816年に描いた油彩画で、見たまますべてをあるがままに描くことをコローに教えた人物です。

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ミシャロン『廃墟となった墓を見つめる羊飼い』

 ミシャロンはコローの最初の師でしたが、コローと同年生まれの若手風景画家であったにもかかわらず、コローが師事してから数か月後に26歳で死去してしまいました。

師を失ったコローは、運よく次にミシャロンの師であったベルタンに師事することが出来ました。ベルタンは当時大きな画塾を構え、フランス風景画の第一人者であったのです。

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ベルタン『イタリア風景』

『イタリア風景』は1806、7年にイタリア旅行をしたベルタンが、ローマ近郊で描いた習作をもとに完成したものと思われ、白馬、人物、坂道、羊と羊使い、坂を登る干し草車の牛、丘の上の家々と見たものの視線を左から右へ、さらには斜め上に誘う見事な構図となっていて、また草木の写実的描写は博物学的とも言える仔細にわたったものです。

『クールベと海・展』観賞詳報0―②<クールベ以外の自然②>

前回はクールベが自然観照による写実絵画を描く以前から、フランスには自然を有りのままに描く一連の画家達がいて先鞭をつけていたことを、コロー、ミシャロン、ベルタンを例に述べました。中でもベルタンは1806、7年にイタリア旅行に行き、各地での習作をもとに帰国してから完成させた絵画も多くありました。こうしたイタリアに旅行して風景画をフランス出身の画家クロード・ロラン達の絵を介して自然美を鑑賞・絵に昇華させる「ピクチャレスク」の運動は、ベルタンに先んじること17~18世紀からの傾向であり、英国画家ウィリアム・ギルピンに言わせると、「ピクチャレスク」とは❝絵画において快い特別な種類の美である❞とまで論文に書き、そのための「ピクチャレスク・トラヴェル」に出掛けることを推奨していました。

この辺りの事情に関しては、2020.08.09.hukkatsu記事『National Galllery of London 展(at 上野・西洋美術館)』鑑賞(Ⅵ)に詳細纏めているので、以下に再掲(抜粋)します。

 

(再掲)
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『National Gallery of London 展(at上野・西洋美術館)』鑑賞(Ⅵ)

編集

◎テーマゾーンⅥ 風景画とピクチャレスク(9作品)

 

さて、上野の西洋美術館の展覧会は、完全予約制という濃厚接触を避ける手段で、2か月近くもクラスター発生もなく開催されています。音楽会では、少人数の日時指定予約という方法はとても採る訳にはいかないでしょう、採算的にも。

 テーマに分けて展示されているゾーンも順番に見ていき、最終に近づいていますが、Ⅵは風景画とピクチャレスク関係の9作品が展示されています。その中から幾つかを紹介します。

 その前に「ピクチャレスク」とは何か?百科事典の一つの記述を引用しますと  “17世紀ベネチア派の絵画に特有な視点が 18世紀のイギリスに入り,同国の自然風景を再認識しようとする芸術上の流行のなかから形成された美的概念。自然界の荒々しく粗野な形態と構成をよしとする美学理論は W.ギルピンが 1770年頃まとめ上げた”  とあります。誤解を恐れず単純化して述べますと、要するに「グランドツアー(テーマゾーンⅣ参照)」によりイタリア他の目新しい風景を見た画家たちが、フランス出身の画家クロード・ロラン達の絵を介して自然の美を鑑賞する「ピクチャレスク」への関心を高め、国教会牧師で画家であるウィリアム・ギルピンは、ピクチャレスクに関する論文の中で「それは絵画にあって快い特別な種類の美」であり、「粗さやごつごつした感じを特徴としている」と言っています。

 ギルピンは自然の風景の中にそれを検証するための「ピクチャレスク・トラベル』に出掛けることを推奨し、またギルピンは「眺望を記憶に留めるため、またそれを他に伝えるため」風景をスケッチすることを推奨したのです。見た風景をそのままに描くのではなく、ロランの制作方法に酷似した「絵画の法則に則って意図的に構成していく」やり方に賛同して「ピクチャレスク・トラベル」に出掛ける画家たちは、前もって暗い色を付けた凸面鏡を持ち歩き、そこに風景を写して、楽しんだり絵にかき落としたりさえしていたのです。その一例、ギルピン作『風景』(非展示)を次に示します。

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まさに凸面鏡に移った風景をそのまま描いたと思われます。

 今回の展示作品の中に、前述したロランの作品『海港』がありました。ロラン(1600年代~1682年)は仏ロレーヌ地方の出身で、ローマを中心として滞在、教皇ウルバヌス8世の庇護のもと、主に森や港の風景を描いた画家です。

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クロード・ロラン作『海港』(1644年)

 この絵はイタリアの都市の船着き場をテーマに描いた作品で、いかにも立派なローマ風の建築物、大きな帆船その間に遠く太陽を望む港湾の景色を配した構成は、ロランが好んで使ったもので、彼はそっくりの絵を幾つか作成しています。

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メディチ邸の海港(1637年)

これを基に左右反転して、若干手を加えて『海港』を書いたという感じもしますね。

 ロランの絵は英国のピクチャレスクの画風に大きな影響を与え、その金色に輝く光と海と船と古代を連想させる建築物の構図は、英国の風景画家ターナー(1775年~1851年)にも受け継がれることになります。 

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ターナー作『ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス』

 この絵はホメロスのトロヤ戦役に題材を求め、巨人ポリュフェモォス達の手からまんまと逃げ押せることが出来て、船上左側で、両手を高々と挙げて巨人を嘲ているのがオデュッセウスです。ちょっと見づらいですが。ポリュフェモスは左手上の雲の様な白い箇処にシルエットで現れている。右手の海上からは太陽光線が金色となって上り始めていますが、これは古代神話の金色の戦神、アポロンが馬車で太陽を引き上げている構図です。

 こうした傾向隆盛の時期を経て、暫く経つと英国の風景を自然に描く「ナチュラリズムの風景画」の機運が盛り上がりました。その転機となったのは、ナポレオン戦争などにより、英国が大陸から隔絶される時期が結構長かったことが影響していると言われます。でもよく考えてみると、イタリアやスイスなどの欧州大陸諸国のダイナミックな風景と比べ、イングランドの風景はなだらかな地形が多くて、起伏に富んだ渓谷や海岸、山岳地帯が少ないことも、影響しているのではなかろうかと個人的には思うのです。イングランド以外のスコットランド、ウエールズなどの奥地に足を運べば絵になる風景があったかも知れません。

ターナー(1775~1851)は英国の画家で、1800年初頭にヨーロッパ大陸を初めて旅行しその風景に感動し、その後もたびたび欧州各地の風景をスケッチしました。特に海洋関係の作品が有名となりました。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅰ―①<クールベの自然①>

 クールベはフランス南西部のスイス国境近くにある「ジュラ山脈(hukkats注)」のふもとの谷合の町、オルナンで生まれ育ちました。

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フランス全図

 険しい断崖や小高い草原、洞窟の多い水源地、木陰の川などが特徴的なこの地方の景色を彼はこよなく愛しました。

(hukkats注)

ジュラ山脈は、現在から約1億9,960万年前から1億4550万年前まで続いたジュラ紀の地層から成る。アルプス造山運動に依りスイス以北地帯が褶曲構造を伴って変形されて形成されたと見なされている。ジュラ紀の代表的生物としては恐竜が有名。

 若い頃から山に分け入りよく散策していたクールベは、故郷の大自然の風景を、後の彼の作品の主要なモティーフの一つとしました。10代の頃から地元の神父のデッサン指導を受け、その影響で、モティーフを直接スケッチして、風景画を描きました。

20歳の時にパリに出てからも、都市中心の人工的な景観は描かずに、頻繁にオルナンに帰郷しては、この土地の大自然の風景を巨大なスケールで描き、例えば、この『岩山の風景』は生まれ故郷を代表する大きな岩を描いたもので、たびたびスケッチし風景画として完成させています。

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『岩山の風景 ジュラ』

 またクールベはジュラ山脈の有名な滝の一つ『ブー・デュ・モンドの滝』を描いており、滝は彼のお気に入りのモティーフの一つでした。

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『ブー・デュ・モンドの滝』

 垂直に流れ落ちる白い水の勢いと、薄緑色の滝壺面にはね散る水しぶきの動きに対し、その背景及び周りの硬い岩盤を薄黒く描いて静寂を表現、静かな山奥に滝の音のみが聞こえる臨場感溢れる効果を出しています。

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ピュセの農場

 また、穏やかな天気の日に地元の農場や水車小屋の風景を描くことも忘れませんでした。

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セイ=アン=バレの水車小屋

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅰ―②<クールベの自然②>

 クールベは生まれ故郷のオルナン近郊の山河の風景を、好んでスケッチし絵画として完成させたということを前回記しました。少し補足説明しますと、オルナン近郊の地方は、フランス東部のフランシュ=コンテ地域圏のうち、スイスとの国境に沿って流れるドゥー川沿岸と、ドゥー側が北東部でヘアピンカーブ状に大きく蛇行し、オニョン川に平行に流れるそのドゥー川に挟まれた地方であり(オルナン近郊図参照)、ジュラ山脈に属する1400~1600m級の山々に取り囲まれています。

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オルナン近郊図

 クールベの風景画に見られる様に、深い森に囲まれた渓谷や、切り立った岩肌を顕わにした奇岩や滝、それが写実的に力強くキャンバスに表現された自然からは、クールベのエネルギー、故郷の自然からはぐくまれた堅忍不抜の精神、が迸り出ている様に思われます。 

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岩のある風景

「岩のある風景」は、オルナン近郊を流れるルー川の渓谷に存する「ル・モワーヌ・ドラ・ヴァレ」を中心とした構図の絵です。良く見ると前下方に2頭の鹿が目立たない様に描かれており、奇岩の方が一層目立つように描かれています。(動物画はクールベがまた得意とした分野で、多くの動物を自然の中で或いは、単独で描いているので、後日その辺りを鑑賞した記録も書きます。)

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山間の滝

 歴史的にも、このフランシュ=コンテ地域圏は、中世にはブルゴーニュ伯の領地となり、伯爵が神聖ローマ皇帝領内にもかかわらず、皇帝への臣従義務を免除されていたので、「自由伯爵領(Franche-Comté)」と称されたのです。即ち歴史的に他の支配を心良しとせず、自由の気風が伝統的に受け継がれてきた地域とも言えます。険しい山岳地方だったことも、他からの侵略を跳ね返す天然の要塞的要素があったのかも知れません。ブルゴーニュ公国に併合された際にも独立し自治を保っていました。フランス革命時には、貴族領主に対する農民による反乱が起こり、ヴェルサイユ議会にも影響を与えました。クールベの父は代々続いたこの土地の大規模農園の地主であり、フランス革命後30年経って生まれたクールベの時代には、生誕の地フラジュ村一番の地主でありました。それだからこそ、パリに留学も出来、収入が不安定な画家として活動も続けられ、またこのことは後日<クールベの海>の講で詳細記録しますが、反政府の政治活動にも参加出来たのでしょう。クールベのこうした反骨精神は、血肉に滲み込んだその地方独特の雰囲気から生じたのかも知れません。 

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木陰の小川

木陰の小川は、オルナンにほど近いピュイ=ノワールの光景で、同じ構図の大画面の絵がオルセー美術館にあります。観たことがある。これはその縮小版との位置づけがされています。

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「オルナンの風景」

「オルナンの風景」は「木陰の小川」の左方風景の拡大された絵画と解釈されている様です。色遣いはやや異なりますが、雰囲気としては確かに同じ場所と推定されます。この場所はクールベにとって、”秘密の花園”ならぬ”秘密の森の水辺”程の大事な位置付けの場所だったのでしょう。何回も同じ場所を描いています。 

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フランシュ=コンテの谷、オルナン付近

この絵は、クールベがモネやシスレー等と接していた1865年 頃の絵で、特徴ある白い石灰岩の山々の描き方も素晴らしいですが、それよりも、村の畔をゆったりと流れる(どう見ても急流には思えません)ルー川の流れに目が釘付けになりました。通常絵画は真正面から、近づいたり離れたりして見ますが、この絵を何とはなしに左から少し斜めに見てみたのです。そしたら絵の雰囲気がかなり違うことに気が付きました。川の流れが、山々の稜線が一層くっきりと見え、また川の流れに躍動感が感じられ、絵全体がかなり異なった印象になりました。自分にとっては小さな発見でした。今後機会があったら、そういう角度からも鑑賞してみようとも思います。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅰ―②<クールベの自然②>

 クールベは生まれ故郷のオルナン近郊の山河の風景を、好んでスケッチし絵画として完成させたということを前回記しました。少し補足説明しますと、オルナン近郊の地方は、フランス東部のフランシュ=コンテ地域圏のうち、スイスとの国境に沿って流れるドゥー川沿岸と、ドゥー側が北東部でヘアピンカーブ状に大きく蛇行し、オニョン川に平行に流れるそのドゥー川に挟まれた地方であり(オルナン近郊図参照)、ジュラ山脈に属する1400~1600m級の山々に取り囲まれています。

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オルナン近郊図

 クールベの風景画に見られる様に、深い森に囲まれた渓谷や、切り立った岩肌を顕わにした奇岩や滝、それが写実的に力強くキャンバスに表現された自然からは、クールベのエネルギー、故郷の自然からはぐくまれた堅忍不抜の精神、が迸り出ている様に思われます。 

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岩のある風景

「岩のある風景」は、オルナン近郊を流れるルー川の渓谷に存する「ル・モワーヌ・ドラ・ヴァレ」を中心とした構図の絵です。良く見ると前下方に2頭の鹿が目立たない様に描かれており、奇岩の方が一層目立つように描かれています。(動物画はクールベがまた得意とした分野で、多くの動物を自然の中で或いは、単独で描いているので、後日その辺りを鑑賞した記録も書きます。)

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山間の滝

 歴史的にも、このフランシュ=コンテ地域圏は、中世にはブルゴーニュ伯の領地となり、伯爵が神聖ローマ皇帝領内にもかかわらず、皇帝への臣従義務を免除されていたので、「自由伯爵領(Franche-Comté)」と称されたのです。即ち歴史的に他の支配を心良しとせず、自由の気風が伝統的に受け継がれてきた地域とも言えます。険しい山岳地方だったことも、他からの侵略を跳ね返す天然の要塞的要素があったのかも知れません。ブルゴーニュ公国に併合された際にも独立し自治を保っていました。フランス革命時には、貴族領主に対する農民による反乱が起こり、ヴェルサイユ議会にも影響を与えました。クールベの父は代々続いたこの土地の大規模農園の地主であり、フランス革命後30年経って生まれたクールベの時代には、生誕の地フラジュ村一番の地主でありました。それだからこそ、パリに留学も出来、収入が不安定な画家として活動も続けられ、またこのことは後日<クールベの海>の講で詳細記録しますが、反政府の政治活動にも参加出来たのでしょう。クールベのこうした反骨精神は、血肉に滲み込んだその地方独特の雰囲気から生じたのかも知れません。 

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木陰の小川

木陰の小川は、オルナンにほど近いピュイ=ノワールの光景で、同じ構図の大画面の絵がオルセー美術館にあります。観たことがある。これはその縮小版との位置づけがされています。

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「オルナンの風景」

「オルナンの風景」は「木陰の小川」の左方風景の拡大された絵画と解釈されている様です。色遣いはやや異なりますが、雰囲気としては確かに同じ場所と推定されます。この場所はクールベにとって、”秘密の花園”ならぬ”秘密の森の水辺”程の大事な位置付けの場所だったのでしょう。何回も同じ場所を描いています。 

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フランシュ=コンテの谷、オルナン付近

この絵は、クールベがモネやシスレー等と接していた1865年 頃の絵で、特徴ある白い石灰岩の山々の描き方も素晴らしいですが、それよりも、村の畔をゆったりと流れる(どう見ても急流には思えません)ルー川の流れに目が釘付けになりました。通常絵画は真正面から、近づいたり離れたりして見ますが、この絵を何とはなしに左から少し斜めに見てみたのです。そしたら絵の雰囲気がかなり違うことに気が付きました。川の流れが、山々の稜線が一層くっきりと見え、また川の流れに躍動感が感じられ、絵全体がかなり異なった印象になりました。自分にとっては小さな発見でした。今後機会があったら、そういう角度からも鑑賞してみようとも思います。

 

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅰ-③<クールベの自然③>

 クールベのスイス国境に近い故郷の町オルナンから、岩山に入ると森や渓谷が多くありました。自然を描く題材としては事欠かず、またそうした風景を愛したクールベは多くの風景画を描いたことを前回まで例を挙げて記して来ました。次の絵は、クールベがオルナンの渓谷の風景と遠くアルプスを観た風景とを重ね合わせて1枚の絵にしたものと思われます。 

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 アルプスはフランス、イタリア両国境に近くしかも4千m級の高峰が連なっているので、太陽の日に照らされると明るく輝いて見えます。以下の写真は以前スイス旅行した時に、遠くに聳える冬の太陽に輝くアルプスの高峰の写真を撮ったものです。 

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  やはりアルプスは森や岩山や普通に高い山とは比較にならない程の輝きと品格を持っていますね。クールベはそのことは十分認識していたものと推定されますが、そのほとんどの風景画が故郷のオルナン関係の絵だったということは、如何に故郷を心の糧にしていたかの証です。次の絵は、以前オルセー美術館を観た時に撮った写真です(その時は‘Photo O.K.’でした)。

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「オルナンの埋葬」

 『オルナンの埋葬』(Un enterrement à Ornans)は、1849年~1850年にかけて制作されたもので、19世紀フランス絵画にとって大きな転換点となった作品の一つです。この作品は、1848年9月に画家の故郷オルナンで、彼の大おじが埋葬されたときの様子を描いたものです。普通の田舎の葬儀の様子を、生々しく写実主義的に扱っており、50人ほどの町の人々等関係者が登場、伝統的には英雄の場面や宗教的場面が描かれる時に使われる巨大な画面(約7m×3m)に描かれています。この中にクールベ自身がいるかもしれない。その大きな絵の前で暫し立ち尽くして見ていた記憶があります。サロン展に出品されたこの作品は、賛否こもごもの爆発的な反響を呼び、クールベはたちまち時の人となったのでした。

 また次の絵は、クールベのお得意とするオルナン近郊の風景画ですが、これも今回の展覧会には来ていません。

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『オルナン近くの岩場の風景』ウィーン美術アカデミー(大学)所蔵

 『オルナン近くの岩場の風景』では典型的な故郷の岩場の地層を絵具によって再構築しています。水たまりのある前景は画面の3/4を占める小高い岩山連なりによって背景から切り離されています。庇の如く張り出した岩の直下には小さな小屋が描かれ、人間の行為の唯一の結果がアクセントとなっています。絵の具の使い方は奔放で、分厚く塗った上をパレットナイフで擦りとって荒々しさを表現、また背景には、空と山と集落を横一線に揃えて前景とのコントラストを明確にし、絵画の構図全体のバランスが絶妙に表現されました。

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『森の小川』クールベ(ボストン美術館蔵)

 この「森の小川」も今回の展示には無い絵です。この絵も157×114mの大きな絵で、1862年に制作されました。これは同時代の風景画の先輩であるバルビゾン派のテオドール・ルソー(1812~1867)の絵に触発されたとも謂われます。

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『森の中の池』テオドール・ルソー(ボストン美術館蔵)

 クールベはルソーが用いたのと同じ色彩を使っており、また両者の類似性は、森の中で池や川として描かれる水と言うテーマにも見られます。しかしあとはクールベ独自の特徴を発揮、パレットナイフに依る荒々しい絵具使い、右下方には鹿を配置して、見る者の視点をその鹿からさらに右後方に僅かに見える二頭の小鹿へと惹きつけ、また高くそびえる木々の比較的細い幹が、下方の小川へと視線を誘い、この大画面の絵を観た時のバランス感覚を抜群のものとしています。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅱ-①<クールベに影響を与えた動物画家>

 表記の美術展は、4月10日~6月13日の日程で、汐留パナソニックビル内の美術館で、開催されていました。ところが4/25に発せられた緊急事態宣言の影響で、4/28から5/31の緊急事態宣言解除予定日まで当分の間休館となってしまい見ることが出来なかったのですが、緊急事態宣言が再び延長されて6月20日までとなったため休館が続くのかな?結局「クールベと海展」は再開されることなく終わってしまうのかな?と思っていました。しかし延長された時に、映画館や美術館等が、一定の制限はありますが、再開していいということになり、「クールベ展」も再開されたのです。でも開催期間は6/13までです。その後延長されるという情報は入っていないので、恐らく6/13までのあと残すところ三日間しか見ることが出来ません。今回は海外の例えばルーブルとかオルセーから一挙貸し付けを受けた絵画展ではなく、主として日本各地の中堅美術館所蔵のものを汐留に集積したものですから、全部見るとなると全国を行脚する必要があって、かなり困難だと思われます。あと三日間、非常に低コストで効率良くクールベなどの絵を観賞出来る少ないチャンスなのです。

 さて次の「リンゴの採入れ」と「近づく嵐」は、トロワイヨンの絵で、彼はテオドール・ルソーの知人で、フォンテーヌブローの森にたびたび足を踏み入れ、制作するようになりました。

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りんごの採り入れ

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近づく嵐

 その後の1年間のオランダやベルギー滞在によりそこの影響を受けて動物画を手がけることとなり、特に牛のいる風景画が人気を博しました。「近づく嵐」では、牛の顔や毛並みは細密に、雲は大きな筆使いで、描くことにより、ダイナミックな動きを絵画に表現しています。

 また「羊の群れ」を描いたシャルル=エミール・ジャックは鶏や羊などの家畜を描くことを得意とし、特に羊の音無小夜臆病様で巧みに表現しました。女性羊飼いはメランコリックに杖に寄りかかり、羊の群れと共にくつろいだ風景を表し、一方空の描写はオレンジ色風で表現、木立の暗い色と相まって不安げな状況を対照的に表現しています。ジャックの絵はパリのブルジョアジーのみならず英米国内でも人気があり、当時ミレーより高値で取引されたといわれます。

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羊の群れ

 ところで、音楽の話題なのですが、今サントリーホールで開催されている音楽祭《チェンバーミュージック・ガーデン》で、「エルサレム弦楽四重奏団」によるベートーヴェンのカルテット演奏が続いて居ます。初日のチケットは、手に入ったのですが、その他は売り切れで、ライヴ配信もやるそうなので、聞き逃しや如何しても聴きたい曲も配信で聴けるとばかり思っていたのですが、配信はどうも初日の演奏のみの様です。今日最終日のⅣサイクルの「弦楽四重奏第14番」を聴きたいと思って、配信のWEB申し込みを見たらやっていませんでした。この曲はベートーヴェンの死の直前と言ってもいい時期の作品なので、是非その曲の様子を、初日に凄い演奏を聴かせてくれた「エルサレム弦楽四重奏団」の演奏で聴きたかったのですが、かないませんでした。他の音源でも探して聴く他ないかな?それとも近かじか他の奏団が演奏するコンサートは無いのかな?

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅱ-②<クールベ以外の動物画家>

 『クールベと海展』は一昨日の6月13日(日)を持って予定通り終了してしまいました。最後にもう一度観に行こうかと思って、電話で訊いたら最終三日間はチケットがすぐに売れ切れてしまったそうです。会期の延長は無いのですか?と訊いたら、各県の美術館でも展示の予定があるので延長は出来ず、契約通り予定の会期で終わりますとのことでした。「予定の会期」と言っても、緊急事態宣言中は臨時休館したりで結局、4月10日~6月13日間の1ヶ月位しか公開されませんでした。

 でも都内のほとんどの美術館が休館中であることを考えれば、美術ファンにとってはパナソニックの主宰者は、コロナとの戦いに良く善戦したと、きっと感謝することでしょう。

 さて前回に引き続き、クールベに影響を与えた他の画家達の動物画を見ますと、

『夕暮れに池で休む牛たち』はレオン=ヴィクトール・デュプレ( 1816~1879)の作品です。

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『夕暮れに池で休む牛たち』

 デュプレは19世紀フランス、バビルゾン派の巨匠で、フランス中西部、リモージュの生まれ、動物や農夫たちのいる落ち着いたのどかな田園風景を好み、暖かな色彩で描きました。夕暮れ時の光が暖かい雰囲気をもたらしています。

 次の『羊飼いと羊の群れの風景』はジュゼッペ・パリッツイが描きました。

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『羊飼いと羊の群れの風景』

 パリで活躍したイタリア南部出身のパリッツイは、トロワイヨン(前回の『クールベと海・展』観賞詳報Ⅱ-①<クールベに影響を与えた動物画家>参照)に師事、動物画を学びました。師匠達と同様、フォンテーヌブローの森に足繫く通い、この絵が示すように、放牧動物の牧歌的雰囲気を嫌い、自然の荒々しさを乗り越えて生きる動物たちの力強さをたびたび描いています。牧童の動きから、山羊たちは険しい岩山を登っていることが分かります。クールベがサロンに出展した動物画を見て影響を受けた可能性がある。

 以前にも触れたカミーユ・コローは、その風景画にたびたび動物たちを登場させて、生き生きとした風景画を作り上げました。

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『ヴィル=ダグレー 牧草地からコローの家へと続く道』

上記のヴィル=ダグレーはパリ郊外の町で、コローの父がこの地に別荘を購入、コローはその一室をアトリエとして使っていました。絵の左手にある建物がそれで、そこに通じる道沿いにそれとなく動物を配し、アクセントを付けています。

コローの詩情溢れる風景画は、即物的な風景を描いたというよりは、サロンには、「歴史的風景画」の様式を踏襲しテーマ性を重視した作品を出品し、アカデミックな表現を受け継ぎながら自然主義的要素を強調しました。その後の印象派の画家達にも大きな影響を与えました。それが良く分かる作品が次の『少年と山羊』です。残念ながら今回の展覧会には出品されませんでしたが、日本国内で保有する絵画です。

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『少年と山羊』

 1847年のサロン展に出品されたこの作品は、木々や樹葉の重なりの間から見える遠景には、白雲が広がり同系の色使いで青空と凪いでいる海が表され、安定したバックの前景には、葉冠に裸体の少年という神話的世界を想起させる人物が山羊と戯れているという「歴史的風景画」の伝統を踏まえた作品です。

 最後にもう一人のバルビゾン派の重要人物、ジャン=フランソア・ミレーの作品を一つ上げます。『垣根に沿って草を食む羊』、この作品も国内所蔵ですが、今回はこの展覧会には来ておりません。

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『垣根に沿って草を食む羊』

画面奥に日の光があるため、画面右側には影が出来て暗い調子なのに対し左半分で草を食む羊たちは明るい表現で光の対照性を効果的に利用しています。ミレーもカラヴァッチョとは異なりますが、光と影をキャンバスに見事な表現で描いた画家の一人なのです。話はそれますが、以前ロンドンにあるNational Gallery of Londonを訪れた時、真っ先に見に行ったのが、ミレーの『唐蓑』でした。これ程光と影を巧みに描いた作品はそうは多くないと思いました。

 それにしても上記のミレーの絵には、右サイドの垣根と高木の後ろに人物らしきものが描かれていますが、これは一体何なのでしょう?帽子を被っている様です。羊飼い?それとも動物たちを見ながら絵を描いているミレー本人?謎です。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅱ-③<クールベの動物画Ⅰ>

 クールベは動物画、特に狩猟画を好んで描きました。これは彼自身が狩人としてたびたび故郷のオルナンの森等に足を踏み入れ、狩猟をしたからです。本来狩猟画は王侯たちが自分の領地に狩場を設定し、その特権として狩場で独占的、排他的に狩りを行っていたもので、その際画家を同行して狩猟の場面をスケッチ、後でそれを通常大画面で描く事が常でした。16世紀以降フランスでは、「狩猟法」が明文化され、狩猟の方法から細部に至るまで儀礼的にすべて決められていました。それに反する者は厳しく罰せられたのです。クールベの狩猟画は、王侯貴族の狩猟画とも、イギリスのスポーティング絵画とも異なるものであったが、前者の影響を受けていて類似性がある場合もあり、また前者をクールベ自身が意識していたことは多くの評者が指摘しています。               『木の下の鹿と小鹿』はノロジカの親子を描いたもので、地面の草を食む多くの大型草食動物とは異なって、この鹿は木の葉を1枚1枚食べる習性があり、木の高い箇所の葉を背伸びして食べている様子を見事に捉えた作品です。

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『木の下の鹿と小鹿』

 クールベは、故郷のオルナン近郊でしばしばこのノロジカに遭遇しており、その習性や身体構造、フォルムを完璧に把握していたと見られます。ノロジカ親子のダイナミックな動きをスナップした様に見事に捉えている絵です。

次の『川辺の鹿』では、鹿が猟犬に追われ、小川に飛び込む瞬間の姿が、絵の中央部に描かれています。しかも静穏な森の風景の中に鹿を押し込め、ふいに自然の静けさを乱す要因としての人間の行いをよりリアルに感じさせる一枚としています。水にはまった鹿は犬たちの襲われ、狩人に仕留められる運命にあるのです。 

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『川辺の鹿』

 次のクールベの『狩の獲物』は1857年に「サロン」に出品した時の作品『獲物の分け前』と、サイズは小さくなっているものの構図は同じで、縮小版の狩猟画としては唯一のものです。

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『狩の獲物』

 「獲物の分け前」とは、獲物を捕らえた後、猟犬にその一部の部位を分け与えることを指し、狩猟現場分ける時は儀式的に角笛(ホルン)で、仕留められた動物を讃える曲が演奏された後で分け与えられたといいます。狩猟の終了とそれを意味するホルンの曲は『アラリ(Hallali)』と呼ばれました。この作品では右の狩人によって、将にファンファーレが吹き鳴らされ、猟犬は待ち遠しい様子で獲物の前に構えている。それを見ながらもう一人の狩人が太い木に背をよりかけて待っています。ひょっとしたら獲物を捌く役なのかも知れません。

 以下に『ドイツ・オーストリアの新聞に見られる狩猟表現(野島利彰著)』から引用しますと、

“アカシカが枝角で猟犬に戦いを挑み始めたら狩猟員は馬から下り、その 背後に回り後ろ脚の腱を猟刀で切り、アカシカがこれ以上逃げられないように する。ここで狩猟員はホルンを吹き、追走猟の主催者 (=狩猟主 Jagdherr) であ る王侯を呼ぶ (Fürstenruf)。王侯が到着し、狩猟動物の心臓を剣で突き、トドメ を与えた。アカシカが倒されると狩猟員がそれを告げるホルンを吹き、それに 応じて他の狩猟員もホルンを吹いた。『ガストン・フェビュスの狩猟書』ですで に「アカシカが倒されたら、狩猟の終了 (Halali 例文 5,6) を知らせるため、 長くひと吹き、それに続けて短く多数吹き、これ全体を二度繰り返す。ホルン を持つ他の狩猟員は互いにそれに応える。(207P) “

と述べています。

 ホルンの狩の曲としてすぐ思いつくのは、ウエーバー作曲『魔弾の射手』です。狩人の合唱にホルンの伴奏が出て来ますし、序曲でもホルンの四重奏があり、超有名な曲となっています。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅱ-③<クールベの動物画Ⅱ>

 クールベは、故郷オルナンに帰省すると、しばしば狩りをしました。特に冬の狩りは、獲物が逃げて走る姿が、他の季節の様に草叢や藪や木々に隠されることなく、雪上に顕わに目で追えるので、クールベが好んだ季節です。

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『雪の中の狩人』

 しかし1844年に狩猟法が改正され、雪中の狩りは禁止されてしまいました。この絵は1886年に描かれているので、『雪の中の狩人』の絵の中の二人は密猟者と推定されます。クールベ自身も1853年頃の冬、狩猟時に憲兵に捕まり、罰金刑を受けたそうです。

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『雪の中の鹿のたたかい』

『雪の中の鹿のたたかい』は、岩の側にたちすくむ雌鹿をめぐる雄鹿二頭の争いを、リアルに描いたもので、角のぶつかりあう音まで聞こえる様です。これは実際クールベが1858年頃、ドイツでの狩りの際に見た光景をもとに描いたもので、動物同士の戦いを描いたものとしては、この絵とオルセー美術館所蔵の大型作品「雌鹿の戦い」の二作品のみです。

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『雪の中の小鹿』

 上記作品は1869年の作で、こうした平和な動物たちの姿を描くのは、1860年以降であり、時には顧客の要望で雪景色の作品に、動物の姿を描き加えられることも有りました。クールベにとってサロン展や個展に出品することは、個人収集家向けの見本市的場の提供、話題作りの場の提供としての意味合いも有りました

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『雪景色』

上記『雪景色』は、1857年のサロン展に『セーヌ河畔のお嬢さんたち<夏>(hukkats注)と、もう一つ別の狩猟画、都合三作品と共に出品されたものです。クールベの雪の白さは、真っ白いものばかりでなく、地面の色の付いた黄ばんだ白、枝の上の赤みがかった白等多彩な雪の鮮やかさを描き、賞賛されました。本作では右下から四方に伸びる木々の枝を前景として大きく描くことにより、鹿たちが奥まった森の中で一時の憩いに身を委ねている様子が良く表現されています。

(hukkats注)この作品は、今回は展示が有りませんが、セーヌ川岸辺に横たわりまどろむ娘たちを描いたものです。

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 『セーヌ河畔のお嬢さんたち<夏>』  プチ・パレ美術館所蔵

 出品当時は ❝娼婦たちを偽装を解いて直截的に表現したみだらな絵』と言う非難が浴びせられ、議論が巻き起こりました。その議論を生ぜさせるのが、クールベの目的だというものまであり、過去にクールベが引き起こした絵画における政治的、社会的立場の議論の再来とも言えるものでした。クールベはあくまで共和派、進歩派的立場の思想に近く、その立場から保守的傾向、既存の常識に果敢に挑む姿勢が強くなっていきます。

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅲ-①<クールベのヌード画>

 クールベは、これまでの風景画、動物画の他にヌード画でも有名であり、多くの物議を醸しました。1853年にサロンに出品した『水欲の女たち(今回の展覧会にはno entry)』は、激しい非難を受けました。

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水浴の女たち

(ファーブル美術館所蔵)

 それは森深い水辺で恐らくメイドとおぼしき女性を従えて水浴びをしている女性(水から出たところか?)が下品極まりない表現だというのです。

その頃のヌード画は、理想化された裸体の人物に、宗教的か神話的な何らかの題材を同時に付加して表現していましたが、クールベはそれらを一切排除し、ヌードを理想化せずあくまで写実的に捉えて、大きなお尻をキャンバス中心にデンと据え、何かそばの若い女性に話していて、女性は身をよじって言われたことを嫌がっている様子、濡れた体を拭いてとでも言ったのでしょうか?何れにせよこの絵を見たサロン側は、猥雑で汚い絵という評価をしたのでした。現代の目から見たら何ら違和感が無い絵なのですが。また20~30年後のルノアール、セザンヌたちも同様な水浴の模様を描いていますが、それ程の批判は浴びていません。やはり伝統的美術に対して反逆的姿勢を有したクールベには、世間の風当りは強かったのでしょう。でもそんなことでへこたれるクールベでは有りませんでした。1860年代になると個人注文家に対して、よりあからさまな官能的ヌード画を描いて供給する様になります。パリ在住のトルコ外交官カリル・ベイの為に、女性の向きだしの下腹部のみを写実的に描いた『世界の起源(オルセー美術館蔵)』は、社会に強烈なインパクトを与えました。確かに、以前オルセー美術館に行った際、この絵を目にした時は、見てはならない物を見た様な恥ずかしい気持ちになり、急いで次の絵に進んだ記憶があります。日本だったら明らかに猥褻扱いされたかも知れません。(パリでは平気なのですね。コロナが生じる何年か前にオルセー美術館の絵の前で全裸の女性が股を大開きにして座りこみ自身を陳列、前衛芸術と主張したらしい。彼女が公然猥褻罪で逮捕されたという報道は聞きませんでした。すごく進んだ国ですね?)

 1866年にクールベが描いた『デズデモーナの殺害』は、シェイクスピアの『オセロー』の場面を描いたものです。

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『デズデモ-ナ』の殺害

 眠っている裸婦の覆い布を、画面上部の暗い箇所に描かれた男が外そうとしている仕草は、同年に描いた『ビーナスとプシュケ(noentry)』でも使われた手法でした。 

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『ヴィーナスとプシュケ』

ベルン美術館所蔵

『クールベと海・展』観賞詳報Ⅲ-②<クールベ以前の海の絵>

 この展覧会のタイトルには“クールベと海”と謳われており、海の絵を大きなセールスポイントとしている訳ですが、これまで述べて来た様にクールベの絵にはその他多くの優れた分野があり、それらを展示の初めからスタートさせたため、海の絵は一番最後の展示ブースに飾るという結果になっていました。ここでやっと主たる展示目的の『海』に到達しました。先ずは、今回の展示法の常套手段として、クールベ以前の海について展示、解説が為されます。 

 18世紀以前においては、海そのものに(画家達の)関心が寄せられることはなく、それ以前の聖書や文学に記述された ‘ノアの洪水’ や ‘世界終末’ ‘船の難破’に対する恐怖を伴う畏怖の念から、絵画の対象とすることは宗教画以外では稀でありました。しかし  18世紀のフランスの画家クロード=ジョセフ・ヴェルネ(1714~1789)は、「畏怖」から生ずる高揚感を「崇高」という概念で前向きに捉え、荒れた海や嵐の海を見事にキャンバスに表現しました。

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《嵐の海》ヴェルネ

 また当時英国ではウィリアム・ギルピンの提唱した「ピクチャレスク」に賛同する画家たちが、国内(後にはグランドツアーと称して大陸の国外)の絵になる風景を求めてツアーをすることが流行しました。英国で最初の本格的風景画家といわれるリチャード・ウィルソン(1714~1782)は、伝統的なイタリア絵画やオランダ絵画を学び、代表的な絵となる風景画として、アヴェルヌス湖(伊)、ドーバー海峡(英)などを書いていますが、今回の展覧会では『キケロの別荘』が展示されています。

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《キケロの別荘》ウィルソン

 一方前述のギルピンは『風景6種』として、ピクチャレスクの代表的風景画(ギルピンのデッサンをサミュエル・アルケンが版画化)を1799年に刊行し、大きな影響を与えました。

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《風景6種の1》ギルピン

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《風景6種の2》

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6種の3、4

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6種の5、6

 

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅲ-③<クールベ以前の海の絵②>

 前回<クールベ以前の海の絵>に関して記しましたが、今回はその続きです。

18世紀の英国において、海を絵画に取り入れる切っ掛けとなった「ピクチャレスク」運動を推奨したギルピンの銅版画『風景6種』は、前回掲載した絵を見れば気が付くことですが、山々に囲まれた水辺の ❛絵になる風景❜を描いたものです。しかし何れも水面は穏やかな静寂さを保っています。これは海を描いたものではなく、川でもなく英国北西部の「湖水地方」の湖を描いたものだからなのです。ギルピンが描いたのは1798年 、今から220年ほど前ですが、今でもその静寂な雰囲気はほとんど変わっていません。10年ほど前の湖水地方で「グラスミア湖」の写真を撮ったものがありましたので、次に掲げます。

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グラスミア湖

 近くには英国の有名な詩人ワーズワースが暮らした家が現存し、「Dove Cottage」として人気スポットの一つとなっています。

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Dove Cottage

    あれは確か10代の頃だったですか、英語の教科書にワーズワースの詩が載っていて、それを読むと水仙の花が風に揺らいでいる風景が目に浮かぶ様で、それ以来湖水地方は行ってみたい憧れの地となっていました。

「水仙」   ウィリアム・ワーズワース

「The Daffodils」
      William Wordsworth

I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing in the breeze.

Continuous as the stars that shine
And twinkle on the milky way,
They stretched in never-ending line
Along the margin of a bay:
Ten thousand saw I at a glance
Tossing their heads in sprightly dance.

The waves beside them danced, but they
Out-did the sparkling waves in glee:
A poet could not be but gay In such a jocund company!
I gazed - and gazed - but little thought
What wealth the show to me had brought.

For oft, when on my couch I lie
In vacant or in pensive mood,
They flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude;
And then my heart with pleasure fills
And dances with the daffodils.

 

 本題に戻りますと、ワーズワースは20世紀始めには、湖水地方に戻っていたので、丁度ギルピンが書いた銅板画の風景を実際に見ていたことでしょう。

 一方、ターナーは、19世紀前半頃英国南海岸を旅し、描いた水彩画を元にエッチング集を出版しました。そこには静穏な水辺もあれば荒々しい海の景色も含まれており、ピクチャレスクを求めて各地を訪れる画家達のガイドブック的役割も果たしました。

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ターナー『ピクチャレスク-イングランド南海岸』集より

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ターナー『ピクチャレスク-イングランド南海岸』集より

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ターナー『ピクチャレスク-イングランド南海岸』集より

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ターナー『ピクチャレスク-イングランド南海岸』集より

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ターナー『ピクチャレスク-イングランド南海岸』集より

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ターナー『イングランドの港』

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ターナー『ドーヴァー海峡』

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅳ-①<クールベと同時代の海>

 19世紀フランスにおいては、海は急速に一般の人々にとっても身近な存在となります。それ以前は漁業の港の住民や限られた港湾都市及びそこから出帆・入帆する船の乗客たちにとっての海だったものが、植民地拡大による影響、鉄道網の発達による距離間隔の接近、社会構造の変化による海のレジャー化等様々な要因が重なって、海が人々の身近な存在になって来たのです。

例えば、何年か前に、ココ・シャネル(1883~1971)の映画を見ましたが、シャネルが若かりし日に、ノルマンデー海岸にあるドーヴィルにブティックを出店(hukkats注)したのです。そこには戦争を避けた多くの人達が各地から集まり、賑やかな街の風景が映っていました。

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ドーヴィル(仏)

 ドーヴィルは第一次大戦以前、19世紀からリゾート地として整備が始まり、1860年代には皇帝ナポレオン3世が訪問した影響もあって、パリ・ブルジョワ階級がこぞって休暇を過ごす地となっていました。

 先にピクチャレスクに魅力を感じて多くの風景画を描いていた画家達が、こうした保養地へ集散する富裕層の求めに応じて、海辺の風景画を描くようになるのです。

ブーダンは常にノルマンデーを中心とした絵を描き、特に浜辺に遊ぶ人々の絵により人気を博しました。

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    ブーダン『浜辺にて』

 ブーダンの海辺の情景では、その空の描写がキャンバスの多くの部分を占め、生き生きとしたタッチで空を描いています。コローは彼の事を「空の王」と呼び、詩人のボードレールは「水と大気の魔術師」と表現しました。クールベも「あなたの他に空の事を知っている者はいないでしょう」とまで言って讃えています・

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    ブーダン『海岸の帆船』

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    ブーダン『ブレスト、停泊地』

 

(hukkats注)

・お針子から身を立てたシャネルは、その魅力に取り付かれた富裕な英国人の援助で1913年にドーヴィルに出店、三年で援助を受けた資金を返せるほどの繁盛ぶりだった。さらに1915年には、仏ビアリッツから西ビルバオまでのビスケー湾沿いの海岸線コスタ・バスカにあるビアリッツにも開店し、1910年に第1号店として開店していたパリ・バンドーム広場に近いカンボン通り店を合わせて3店舗を構えるが、パリに戦争のきな臭さが漂い始め冴えない状況になるのとは逆に、海沿いの街の営業は活発化した。

・シャネルは音楽家のストラビンスキーとの接点もあったことは有名。1920年に有名なバレエ団リュスの団長からストラビンスキーを紹介され、彼の一家がソ連から亡命して住居を探していると聞くと、パリ郊外の自分の新居に、新たな住居が見つかるまでの約8か月住まわせた。さらにシャネルは、ストラビンスキーの新作バレエ音楽『春の祭典』をバレエ団リュスが公演して赤字を出すと、それを資金援助し損失を補填するなど音楽事業にも大きな貢献をしている。

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅳ-②<クールベと同時代の海Ⅱ>

 クールベと同時代の画家クロード・モネも1864年にル・アーヴルからほど近いサン=タドレスの海を描いています。

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サン=タドレスの海岸

 これは、この年の秋にブーダン等と共にオンフルールやル・アーヴルに赴きノルマンディー地方の海岸を描いたものの一枚で、モネが後に印象的画風を強めていく以前の初期の作品です。 前回、記したブーダンの『ブレスト・停泊地』の絵と非常に共通点がある画風です。

 次の作品『グレヴィルの断崖』は、1870年にバルビゾン派のミレーが、自分の生まれ故郷の海岸を描いたものです。

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クレヴィルの断崖

 この年の7月に勃発した「晋仏戦争」の戦禍から逃れる様にバルビゾンを離れ、故郷に近いノルマンディー地方の港町シェルブール(そう、あの映画「シェルブールの雨傘」で有名な処)に一家で避難したのです。都市の上流階級や芸術家の中には、戦争の度に影響の少ない海岸のリゾート地等に避難する人々が多く、海とそこでの生活が大いに注目される一因になったことは、前回、映画『ココ・シャネル』を引用して記しました。

 この絵は疎開してから二、三ヶ月後に描かれたもので、ミレーの作品だと言われないと分からない位、暗い色調で書かれています。バルビゾンで比較的明るい色調で景色や農民を描いたミレーにも、暗い色調の絵はあります。 

 

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蓑を振るう人(ミレー)

 例えば『蓑を振るう人(1848年作、National Galary of London)』は全体的に暗い雰囲気ですが、この絵ではカラヴァッチョの絵の如く「光の変化」を良く表現していると評されるものです。

 それに対し、上記の断崖の絵では、遠く空と海の境が白く明るくなっているものの、「光の変化」を表現しているものとは言えず、絵の下方のほとんどを占める暗さは、戦争や疎開が精神に与えた影響が如何に大きかったかを、物語っているのかも知れません。

 一方モネは二十年後の1880年代になると、以下の様な後の印象派の代表的な画風と同じタッチで、海岸の風景を描く様になりました。 

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『アヴェルの門』

 『アヴァルの門』は1886年、ノルマンディーの町エトルタの断崖を描いたものです。この門はドラクロワやクールベによっても繰り返し描かれており、生前のクールベとも交流があったモネは、彼らの影響を受けたと思われます。

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アンティーブ岬

 『アンティーブ岬』は1888年の作品で、これまでの画面の大部分を海と空でうずめる構図に加え、一本の大きな樹木を大胆に前方に配しています。この木の存在で、海および遠くの岬の遠近感、立体感が増していると言える。この作品は、南仏コート・ダジュールの町アンティーブに滞在した時描かれたもので、暖かな海岸の海風まで感じられるような錯覚に捉われます。

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅴ-①<クールベの海Ⅰ>

 『クールベと海・展』もいよいよ、クールベ自身の絵が展示されている最後のブース、《Chapter Ⅴ》に辿り着きました。「汐留パナソニック美術館」で開催されたこの展覧会は、とうに終了しているのですが、鑑賞した絵画を一気に記することは不可能ですので、ブースごとに記して来ました。他の記録しなければならない様々なことも多くて、クールベの記録が後回しになってしまったきらいはありますが、自分の記録ですから、誰にもせかされることが無いのは幸いです。《Chapter Ⅴ》が終われば完成なので、その後総集編に纏めたいと思います。

 さてクールベは何回も書きましたが、フランスのアルプスに近い奥地に生まれ育ったので、幼い頃海を見ることは無かったのです。22歳の時初めて海を目にしたこの画家は、“私たちはついに海を、地平線のない海を見ました。これは谷の住人にとって奇妙なものです” と両親に手紙を書いています。それから20数年後の40歳中頃になって、彼は初めて、海を題材に絵を描く気になりました。とくに僅かな時間で天気が変わり、次々と表情が移り変わるノルマンディーの海に引き付けられます。1865年から数か月滞在した、ノルマンディー地方、トゥルーヴィルの海を何枚も数か月で仕上げました。次の『嵐の海』は空を大きくとらえた構図で、暗く激しい空模様と白い逆巻く波の海を捉えています。本作品は1867年の個展に出品されています。

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『嵐の海』

 次の『嵐』も同じ時期に描かれたもので、絵の右方には浜辺に打ち上げられた小舟が描かれ嵐の激しさを物語っている。遠くには竜巻らしきものが昇り上がり、荒れる波と協調して空の広い空間が、一層この絵に迫力と凄みを加えている様に見えます。

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『嵐』

 次の『海岸風景は』20世紀も終わりころになって、クールベの絵だと鑑定された1866年の作品で、以上の二点とは異なり穏やかな海を描いています。そして海の色調が異なったものになっていますが、しかし海の風景を正面に捉え、空を大きな空間とした構図は上記二点と同じで印象派の手法が濃く出ています。

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『海岸風景』

 この作品にはブーダンやモネやホイッスラーの影響が見られます。その後クールベの海の風景画は、印象派的雰囲気を弱めていき、自分独自の画風へと展開していくのです。

 この時期のフランスは、ナポレオン3世の帝政が終盤に差し掛かっていて、隣国プロイセンがメッテルニッヒの軍事強権政治により勢力を拡大、次第にフランスにもその風圧が向かう様になってきた時期です。

 ナポレオン3世の時代は、いろいろ毀誉褒貶がありますが、現在のパリの道路や建物の基本構造が形成されたパリ大改造が行われ、パリオペラ座もクールベが以上の絵を描いていた頃には建設が進められていました(1875年完成)。しかしこの帝政に至る以前はフランスの政情は、ブルジョア派、共和派、王政派の残党による熾烈な勢力争いで、パリの住民は気の休まる日が無かったと言って良い時代でした。この様な時代をパリで生活の大部分を過ごしたクールベは、自らも政治情勢に関心を持たざるを得ず、次第にその渦に巻き込まれていくのです。上記の最初の二作品の激しさを秘めた暗さにはこうした時代背景も影響しているかも知れません。

 またクールベがこれらの絵を描いた2~3年後の1868年にはドイツ・ミュンヘン宮廷歌劇場で、ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』が初演されました。

 

 ところで話題は変わりますが、今日来年2022年の『東京春音楽祭』の概要が発表されました。

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 公演カレンダーは次から見れます。

  東京・春・音楽祭

またまた、ムーティ登場の様です。

 

(パソコンからは反転させて開けます)

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅴ-②<クールベの海Ⅱ>

 クールベは、100点以上の「海の風景画」を描きましたが、そのうち40点ほどは、単に波のみに焦点を絞って描いたものです。しかもそのほとんどは、英仏海峡近くのエトルタに滞在した1869年~1870年にかけての作品で、彼は海峡の波の激しさにこれまで経験したことのない驚きと感動を抱いたに違いありません。

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1867年『秋の海』大原美術館所蔵

『秋の海』では、少し高い目線から連続して押し寄せる波を描き、その上の空の空間を大きく取って雲を夕焼け色に描くことにより、秋の様子を表現しています。

 一方『波(ふくやま美術館所蔵)』では視線はやはり少し高い位置から遠くまで見える波を切り取っていますが、こちらの波は少しうねり模様で、その上の空の色からも天候が余り良くないことを示唆しています。右方遠方には小さな船を描き波の荒らあらしさを表現している。

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1869年『波(ふくやま美術館所蔵)』

これらに対し『波(愛媛県美術館所蔵)』は。低い目線から大波を見上げる構図で、画面の上半分は空の雲と雲間の青空をサラッと描き、波の克明な表現を浮き立たせています。特に黒い大波に弾けるしぶきの白さのコントラストが波のダイナミックな動きを、見事に表現しています。

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1869年『波(愛媛県美術館所蔵)』

『波、夕暮れにうねる海(ヤマザキマザック美術館所蔵)』も同じ低い位置から大波を捕らえたもので、遠景はほとんど見えないか見えても帆船の帆なのかどうかわからない位の描き方をしています。特筆すべきは、この波の構図のみならず、水平線上の空の夕焼け表現に、日本の北斎他の浮世絵の影響を感じられることです。

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1869年『波、夕暮れにうねる波
(ヤマザキマザック美術館所蔵)』

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅴ-③<クールベの海Ⅲ>

 前回、低い目線から大波を見上げる構図で、画面の上半分は空の雲と雲間の青空をサラッと描き、波の克明な表現を浮き立たせている作品『波(愛媛県美術館所蔵)』について記しました。

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『波』愛媛県立美術館所蔵

 その連作と言える作品が、幾つか今回の展覧会には出品されています。

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『波』島根県立美術館所蔵

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『波』個人所蔵

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『波』姫路市立美術館所蔵

これ等は何れも、クールベが、1869年から1870年にかけて滞在したエトルタのアトリエで製作されたもので、このアトリエは海岸のすぐそばにあり、嵐になると波の塩しぶきが窓ガラスを叩きつける程だったといわれます。何れの絵でも渦巻く波と波しぶきの構図はほとんど同じですが、上半分の空と雲の描写が異なっています。気象条件により異なる空を描き、下半分の波の荒れる程度の違いまで感じ取られる作品群です。

特に最後の姫路市の作品は、横長で空の空間を小さく取り、必然的に下半分の波の部分に鑑賞眼が集中する様な構図となっています。

 以下の二作品は、1870年のサロン展に出品された大作の縮小ヴァリエーションと看做されるものです。

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『エトルタ海岸・夕日』新潟県立美術館

 これは「アヴァルの門」と呼ばれるエトルタの海岸断崖を取り込んで描いた風景す。、ここはそれ以前にもターナーやドラクロアも描いた有名な景勝の地点で、クールベは、アヴェルの門を中央に配置したサロン展出品大作(横160cm)と異なり、それを左方に控えめに描き、中央の海が沈まんとする夕日に赤金色に染まる様子を見事に表現しています。

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『波(オルレアン美術館)』

一方『波(オレルアン美術館)』は、矢張りサロン展出品の『嵐の海<波>』が二艘の打ち上げ船を描いているのに対し一艘にし、代わりに対角線と水平線の交点近くに帆船を小さく描き、構図の安定化を図っています。この絵は今回の展覧会で唯一海外美術館からの出展作品でした。

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅴ-③<クールベの海Ⅲ>

 前回、低い目線から大波を見上げる構図で、画面の上半分は空の雲と雲間の青空をサラッと描き、波の克明な表現を浮き立たせている作品『波(愛媛県美術館所蔵)』について記しました。

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『波』愛媛県立美術館所蔵

 その連作と言える作品が、幾つか今回の展覧会には出品されています。

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『波』島根県立美術館所蔵

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『波』個人所蔵

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『波』姫路市立美術館所蔵

これ等は何れも、クールベが、1869年から1870年にかけて滞在したエトルタのアトリエで製作されたもので、このアトリエは海岸のすぐそばにあり、嵐になると波の塩しぶきが窓ガラスを叩きつける程だったといわれます。何れの絵でも渦巻く波と波しぶきの構図はほとんど同じですが、上半分の空と雲の描写が異なっています。気象条件により異なる空を描き、下半分の波の荒れる程度の違いまで感じ取られる作品群です。

特に最後の姫路市の作品は、横長で空の空間を小さく取り、必然的に下半分の波の部分に鑑賞眼が集中する様な構図となっています。

 以下の二作品は、1870年のサロン展に出品された大作の縮小ヴァリエーションと看做されるものです。

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『エトルタ海岸・夕日』新潟県立美術館

 これは「アヴァルの門」と呼ばれるエトルタの海岸断崖を取り込んで描いた風景す。、ここはそれ以前にもターナーやドラクロアも描いた有名な景勝の地点で、クールベは、アヴェルの門を中央に配置したサロン展出品大作(横160cm)と異なり、それを左方に控えめに描き、中央の海が沈まんとする夕日に赤金色に染まる様子を見事に表現しています。

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『波(オルレアン美術館)』

一方『波(オレルアン美術館)』は、矢張りサロン展出品の『嵐の海<波>』が二艘の打ち上げ船を描いているのに対し一艘にし、代わりに対角線と水平線の交点近くに帆船を小さく描き、構図の安定化を図っています。この絵は今回の展覧会で唯一海外美術館からの出展作品でした。

『クールベと海・展』鑑賞詳報Ⅴ-④<クールベの海Ⅳ>…最 終

 

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    『波』山寺後藤美術館所蔵

『波』は、縦横1mは優に超す大作で、1874年クールベがスイスに亡命中の作品です。以前エトルタ他で見た海の記憶をもとに描いており、1869年の一連の『波』の連作と比べると、かなり穏やかな波であり、空一杯に広がった雲は、夕日を浴びて茜色に染まり、全体としても緊迫感の薄れた海を表現しています。都市生活のストレス、特にパリから亡命せざるを得なかった苦労からやっと解放された、ホッとした気持ちが現れている様です。

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『水平線上のスコール』東京富士美術館所蔵

   上掲の作品は、クールベが一時滞在した故郷オルナンで、過去の記憶をもとに描いたもので、彼は亡命後しばしば海の風景画を再創造しています、これらのテーマは鑑賞者たちに非常に人気が高く、すぐに予約・販売出来るクールベにとっては貴重な収入源だったのでした。何せ1971年のパリコンミューン反乱に参加したクールベは、現在でもパリ・バンドーム広場に立つ円柱を、破損した罪、弁償を言い渡され、破産・亡命を余儀なくされたのでした。

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 この円柱は、ナポレオン1世が自らの戦勝を祈念して建てたもので、その後破壊、再建を繰返されて現在ある姿になっているものです。

 次の作品『海』(美術館ギャルリー・ミレー所蔵)は クールベの最晩年(1875年頃)に描かれたもので、他の亡命中の作品同様、過去の記憶、スケッチを元に描いています。

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『海』美術館ギャルリー・ミレー所蔵

 その海の地味な落ち着いた色合いといい、空の雲のふくよかさといい抽象画に近い表現で描かれており、ここでも彼独特のパレットナイフによる見事な技巧が駆使されています。

 次の二作品はともにスイスレマン湖畔の『シヨン城』を描いたものです。

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『シヨン城』美術館ギャルリ・ミレー所蔵

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『シヨン城』個人所蔵

 この城は、中世に建てられたもので政治犯の牢獄として名を馳せ、英国のバイロンが政治犯ボニヴァールを讃えた「シヨン城の囚人」という詩を詠んだことでも有名です。クールベは反乱に参加した後、反乱が鎮圧されると、莫大な弁償金を抱えてしまい、その返済のためせっせと亡命地のスイスに於いても絵を描き続けざるをえませんでした。ほとんどが人気のある「海」に因んだ作品でしたが、この絵の様に、自らの立場を象徴するかような、しかも絶景で有名なポイントの作品を描いている最中のクールベの心中や如何ばかりと、想像するに難くありません。