HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

明日(7月7日)は七夕の日です

    明日は新暦の七夕の日、七夕祭りは雑節の歴日にも列せられています。暦書によれば、

たなばたまつりは五節句の一つで、七月七日の七夕飾りを祭る日で、別に銀河祭、星祭などともいいます。七夕は、七月七日の夜、天の川(銀河)の東にある牽牛星(けんぎゅうせい)と西にある織女星(しょくじょせい)が銀河をはさんで年に一度の会合をするという古代中国の伝説からきています。織女という名にあやかって、女子の裁縫や習字の上達を願う意味で、五色の短冊に字を書いて笹竹につるしたり、七夕馬や七夕送りなどの行事が行われます

とあります。

 

笹の葉サラサラ 軒端(のきば)に揺れる お星さまきらきら 金銀砂子(すなご)♫ 

                 ↳(注:金箔や銀箔を細かく砕いた粉末)

  私が書いた お星様きらきら 空から見てる♫  (作詞:権藤はなよ・補作詞:林柳波,作曲:下総皖一)

 

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    天の川をへだてた織姫と彦星が、年に一度だけ会うことのできる日、七夕が近づいて来ました。七夕というと短冊に願い事を書いて笹竹に飾るという習慣があります。短冊は青、赤、黄、白、黒の五色です。この五色は、中国の陰陽五行説に由来しています。

陰陽五行説とは古代中国を起源とする、自然界のすべてのものを木、火、土、金、水の5つにあてはめて説明することができるという考え方です。そして、陰陽五行説によればこの5つの色にも意味があり、青(緑)は木、赤は火、黄は土、白は金、黒(紫)は水を表しているといいます。

日本では、好まれない黒の代わりに高貴な色とされる紫へ、または、昔は緑を「あお」と呼んでいたことから緑へと変化したとされています。

    一方この「五行説」は、五色の他にも、人間が真面目に生きて行く上での「五徳【仁・礼・信・義・智】」もあてはめられています。
願い事にあった色に願い事を書くことで、願いが叶いやすくなるともいわれています。

しかし、現代の日本では短冊に願いを込めることは変わってはいませんが、短冊の色はあまり意識されなくなりました。
    逆に、笹竹に飾る短冊や飾り物は次第に派手さを競うようになり、仙台や平塚の七夕などでは大規模な吹流しや紙細工の飾り物を付けるなど、絢爛豪華なお祭りへと変ぼうしました。

    この七夕祭りの風習は、古い中国の歴史にその起源を見ることが出来ます。現存する七夕最古の文献は、中国南北朝時代(439年~581年)に編纂された『文選』にある古詩十九首。
彦星と織姫が銀河を隔てて、語らうことすらできないという意味の一句が残っています。
そして、この神話を元に、「7月7日だけ織姫と彦星が通じ合う」という詩が南北朝時代後期の『荊楚歳時記』に書かれており、この神話が奈良時代に日本にわたって、今の七夕の原形となったと言われています

「中国の七夕節」
    中国では、伝統的な祭日の七夕節(チーシージエ)は旧暦の七月七日(今年は新暦で 8 月 29 日)です。その始まりは約 1800 年前の漢の時代に遡ります。伝承によれば、年に一度七月七日の夜に、天の織姫(おりひめ)と牛郎(ぎゅうろう)はカササギの橋で出会います。織姫は美しくて知恵のある天女(てんにょ)でした。その日の夜、一般の女性たちが織姫に知恵や針仕事の上達を乞(こ)い、また円満な結婚を祈り求めるのです。七夕節を祝う主体は少女であるゆえ、「少女節」あるいは「女児節(じょじせつ)」とも呼ばれます。2006 年 5 月 20 日に、七夕節が中国国務院により国の無形文化財として認定されました。
 中国各地で七夕節を祝う方法は様々ありますが、中には一番古くて広く伝えられているのが、針に糸を通す風習です。それは古代漢の時代から始まり、今でも継承し続けています。昔の中国では、裁縫や刺繍など、針がなければできない仕事なので、女の子は針を使いこなせなければならなかったのです。 ルールは、糸を早く通させる方が勝ち、遅い方が負けるということです。負けた人は勝った人にプレゼントをあげることになります。
また、蜘蛛の巣の形で女子の手先が器用かどうかを判断します。この風習は南北朝時代から始まりました。七月七日の夜に、蜘蛛を宝石箱などの器に入れて、翌朝、箱を開けて見て、もし網が丸くて張っていれば、女性の手先が器用だと判断します。
他には以下のような風習もあります。
 牛を誉めます。七夕の日に、子供は野の花を摘んで牛の角に飾ります。伝説によると、西王母(せいおうぼ)は天の川(あまのがわ)で織姫と牛郎を別れさせました。牛郎の牛は主人が天の川を渡って織女に会えるために、自己犠牲で主人を自分の皮に乗せ、織姫に会いに行かせたのです。牛の犠牲的真心を記念するために、七夕に牛を誉める習慣になりました。

    こうした風習は、中国の歴史を逆か上ること1400年以上前、中国の南朝、梁の時代(6世紀)に書かれた『荊楚歳時記』に書かれています。『荊楚歳時記』は荊楚地方(現在の湖北省・湖南省あたり)の年中行事を記録した書物です。七夕については、7月7日に牽牛(彦星)と織女(織姫)が天の川で会うという話が書かれています。これは、それ以前の文献にも見られる話ですが、『荊楚歳時記』にまとめられた形で紹介されています。 
具体的には、『荊楚歳時記』には以下のような記述があります。


牽牛と織女: 7月7日に、牽牛と織女が天の川で会うという伝説が語られる。 
会引:『荊楚歳時記』の会引には、伝玄(217~278年)の『擬天問』に、7月7日に牽牛と織女が天の川で会うと書かれていると紹介されている。

『荊楚歳時記』は、七夕の起源や伝承を理解する上で重要な文献であり、特に7月7日に牽牛と織女が会うという話が、当時の民間行事として定着していたことを示しています。 

    また唐の時代には、紙製の小さな提灯状(ランタンの形)の中にロウソクを灯し、紙に願い事を書いて空に飛ばす風習があったという説もあります。七夕の日なのかは、明確ではありませんが。現在の台湾では、「天燈」飛ばしの風習にその残影が見られます。

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 以上、七夕について、あれこれ遠い時代や遠き国のことを書きましたが、現生活には、全く関係ないことに時間を割くのは、馬鹿馬鹿しいかも知れません。でもその起源や歴史を知ることを、自分としては大事にしていきたいと思っているのです。

「温故知新」「遠き慮り無きときは、必ずや近き憂い有り」といった言い伝えもありますから。