
『天上天下唯我独尊』これは、釈尊が誕生した時発した言葉として、有名です。即ち、摩耶夫人の右脇から生まれた際、右手で天、左手で地を指し、七歩歩いて言ったという伝説に基づきます。その心は?
この世の上から下までで、自分だけが偉い、というぬぼれが強い発言ではなく、人間は、誰もが「命の尊さ」という究極の尊厳を持っている、ということに気付いた釈尊の、人権宣言のような意味合いがあるとも謂われます。
こうしたエピソードが言い伝えられて来たお釈迦様の誕生日が、4月8 日なのです(本来は旧暦)。
古来この日には、仏教寺院では、「花祭り」と呼ばれる祭典が執り行われるところが有ります。そこで昨日の夕刻、横浜の古刹『弘明寺』に立ち寄ってみました。このお寺は、京浜急行、上大岡の隣に同名の駅が有りそこで降車し、急坂を下ってすぐに有ります。その右手のひと山(ずい應山)全体が弘明寺で、坂を下り切る手前には、稲荷神社がありました。

正門の正面に急な石段参道が見えて来ます。大門の両側には鎌倉時代作と云われる大きな仁王像がにらみを利かせています。


石段を登り切ると寺の境内に達し、寺院の正面には、「まつりの花飾り」が設えてありました。

参拝客は、甘茶の池に立つ小さな釈尊象に小さな柄杓でお茶を掬って掛け「花祭り(即ち誕生日)」をお祝いするのです。

その後本殿をお参りしました。
この日の午後半日は、国宝の観音像(鎌倉時代作)の前で、法師が大きな声で、念仏を唱えながら護摩(参拝者に有料で護摩(自分の祈りの言葉を記するもの)を用意したものを火で焚き上げて「護摩供養」をしていました。

また境内の鐘楼の横のスペースには、テントが張られ、「甘茶」接待がなされていました。何年振りかで、甘茶を頂いたてみたら、砂糖とは違う自然の甘さがかおるお茶が美味しく感じました。これは、「甘茶蔓」を煎じているのですね。「甘茶蔓」の葉は、健康茶として最近注目され、販売もされています。

テントの奥は「甘茶接待」、手前は護摩供養を待つ参拝者たち。

本来この行事は、釈尊の生誕の地インドの王国で始められたものなのでしょうが、中世、仏教の中国伝来により、更には日本にまで伝わったものなのでしょう。
紀元五百年初頭の中国・北魏が首都とした、洛陽に関する記録《楊衒之 撰『洛陽伽藍記 』には、仏教が非常に盛んで、この王朝は国を挙げて仏教を保護したので、首都洛陽には多くの仏教大伽藍が、軒を連ねていたことが記されています。
その記録の 「卷第三 城南」には以下の様な一説があります。
❝(1) 景明寺は宣武皇帝の建てたものである。景明年間(五〇〇~五〇四)に建てたので、それを名としたわけである。宜陽門の外一里、御道の東にあった。 寺は東西南北それぞれ一辺が五百歩、前に嵩山の少室を望み、うしろに洛陽城を控え、青々とした林が影をおとし、緑の水が美しい模様を描いていた。形勝の地であり、からりと乾いた絶景の場所であった。堂観は山にかかって壮麗を極め、それが一千間余りも連なっていた。仏殿と僧坊が層をなして重なりあい、飾り窓は交錯し、雨樋は向かいあっていた。青い台や葉の楼閣は、宙にかかった廻廊で結ばれていた。外には四季の移り変わりはあっても、 この境内では寒暑を知らなかった。建物のそとはすべて林苑で、松や竹、蘭やよろい草が、
〜 中略 〜
そのころ世間では仏事の営みが盛んで、(花祭りの前日)四月七日には都じゅうの仏像がみなこの寺にお練りをしたが、尚書祠部曹に登録された仏像の数は全部で一千体余りもあった。八日になると、 各仏像は順番に宣陽門を入り、間闔宮の前で、皇帝の散華を受けた。その時、金色の花は日に照り映え、宝玉をちりばめた天蓋は雲に浮かび、旗さしものは林のように立ち並び、香の煙は霧のように立ちこめ、讃仏の楽の音は天地をどよめかせた。さまざまな軽業がめまぐるしく演ぜられ、どこも黒山の人だかりであった。高僧たちは錫杖を手にして一団となり、信者たちは花を捧げて群がった。車と騎馬は道にあふれてひしめきあった。その頃、西域から来た胡僧がこのさまを見て、まさに仏国土であると讃えたものだった。❞