
〜ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン2025〜(大和ハウス Special)
【日時】2025..11.16.(日)16:00〜
【会場】サントリーホール
【管弦楽】ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
【指揮】クリスティアン・ティーレマン
【曲目】《プログラムC》
今回のプログラムは、ウィーンの申し子と言える作曲家達の曲を揃えています。前半は、ウィーンの誇る大天才シューベルト。彼の曲は個人的には全てが好きです。夭折したのが惜しい限り。
後半は、ウィナーワルツなどのオンパレード。将にニューイアープレコンサートの趣き。こんなに楽しんでばかりいていいのか?と自省の気持ちにもなるのですが、ウィーンフィルは、キチンとその辺りも自覚しているという事が、昨夜のテレビ放送を見て分かりました。それは、NHK第1チャンネル21時からの、サタデーウオッチナインで、「ウィーン音楽と日本」という報道特集を流していました。団長フロシャウワー氏以下複数のメンバーが、東日本大震災の被災地を、毎年訪問して慰問している内容です。今回は、大震災の犠牲者の慰霊塔に団長が献花、震災直後に見たという惨劇のつめ跡を振り返り、陸前高田市での、チャリティ室内楽奏や若者の演奏指導などの活動、震災時に誕生した子供達が、もう14歳(中学生)となった若い人達の音楽に向き合う姿勢を支え励ましていました。派手に見える演奏会のかげで、こうした地道な活動を毎年行なっている姿に感動しました。❛他人の痛みの解る頂上人❜ うらやましい限りです。自分の様な凡人には、自分の痛みで精一杯で、他人の痛みを感じることは、言うは易し行うは難しですね。そう言えば、震災直後には、あの有名ピアニストのブーニンさんも、同じ様な事をされていたのを思い出しました。その後は、残念ながら、自らが病魔によりピアノ活動が出来なくなってしまいましたが。(ついでながら、その病魔を克服し、ようやくピアノが弾ける様になり、数年前から演奏活動も再開、来月サントリーホールで演奏会がまた開かれます)
それはそうと、今回のウィーンフィルの演奏曲目は多岐に渡り、其れ等の曲達については、配布されたプログラムに、オットー・ビーバー氏が、かなり詳細かつコンパクトなノートを記載されているので、以下(曲について)は、それ等を引用・転載させて頂きました。
①シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D.759 「未完成」
Franz Schubert: Symphony No. 7 in B Minor, D. 759, "Unfinished"
(曲について)
フランツ・シューベルト (1797~1828) の「未完成交響曲」は、なぜ、未完成のままなのだろうか? 音楽家も研究者も何世代にもわたって、このことについて考えを巡らせ、とりわけ作曲技法にまつわる動機を論じてきた。私は、このことについてはシューベルトの人生における動機を度外視すべきではないと考える。1822年10月30日にシューベルトは、このロ短調の交響曲の総譜の執筆に着手した。第3楽章の2 頁目まで書いて、未完のまま、そこで書くのを中止した。その年の11月の終わりに、彼が梅毒性の病に罹患し、1823年のはじめには発症してしまったことを考慮しなければならない。1823年の秋は、 入院治療が続いた。彼がその入院で受けた水銀を使用した治療は、脱毛症を生じさせたため、彼はかつらを被らなければならなくなった。1824年3月になってようやく、彼の友人等の間で、シューベルトは新たな治療のおかげで「だいぶ調子が良くなった」ようだという知らせが広まるようになった。ともあれ、シューベルトにとっては大変な時間であった。
この状況で、ロ短調の交響曲を書く明晰さもエネルギーも持ち合わせていなかったことは、容易に理解できる。 当時は、この病を治癒することはできず、 寛解後に、病の発症時に交響曲の作曲を中止してしまった箇所から、作曲を続けることができなかったことも理解できる。この作品には、この個人的な運命の打撃によって、多大な負荷がかけられてしまった。病に倒れたあとでは新たなものであるべきであった、人生の計画ともそぐわなかった。なぜなら、病の進行を止めることもできず、死に至ることを防ぐこともできなかったからである。
シューベルトは、1824年3月31日に書いているように、「交響曲の大作への道に進む」ことを希望した。「未完成」は、 芸術的な価値としては大きさのあるものであったが、スケール的には交響曲の大作にはなりえなかった。シューベルトのこの希望は、1825年に書かれた交響曲第8番 ハ長調 D.944で実現された。
ロ短調の交響曲の完成した第1・第 2楽章は、芸術的な価値が高く、斬新で、比類のない特徴を有するため、未完成でありながらも、シューベルトの7 番目の交響曲として数えられている。第 1楽章は、低音のピアニッシモで始まり、 管弦楽の音の厚み、交響的な言語へと高まるが、総じて内省的で、密やかでさえある。
(フランツ・シューベルト「未完成」自筆の総譜、第3章、 2頁目:シューベルトは、このページの上半分に木管楽器のパートを書いて、下半分に弦楽器のパートを書くことはなかった。続くページは空白。このページで。この交響は「未完成」に終わった(原本は、ウィーン男声合唱協会所蔵)
この特徴は、第2楽章でより顕著となり、シューベルトのロ短調の交響曲の完成した2楽章に共通した特色となっている。
これに対して、私たちが第3楽章で知っていることは、疑問のみ投げかける: シューベルトは、この特徴で第3楽章も書くつもりだったのだろうか、それとも、この特徴を対照的な音楽言語で改めるつもりだったのだろうか。いずれにせよ、第3 楽章は、スケルツォの特徴を持つアレグロとして計画されていたが、第3楽章の総譜の2頁目でシューベルトは書くことを止めた。草稿は、トリオの小節の始まりまでで途切れている。
第1・第2楽章の自筆譜は、1865年に指揮者ヨハン・ヘルベック (1831~77) がシューベルトの友人であったアンゼルム・ヒュッテンプレンナー (1794~ 1868)のところで発見し、まもなく初演され、1867年に出版された。ウィーン・ フィルハーモニー管弦楽団は、1872年1月 7日に、この「未完成」を初めて演奏した。
《休憩》
②ヨハン・シュトラウスⅡ世: オペレッタ 『ジプシー男爵」序曲
Johann Strauss Jr.: Der Zigeunerbaron, Overture
(曲について)
ヨハン・シュトラウスⅡ世 (1825~ 99)は、200年前にウィーンに生まれた。 彼の父親と同じように自身のオーケストラを指揮し、のちには彼の弟のヨーゼ フ (1827~70) やエドゥアルト (1835~ 1916) も彼のオーケストラを代わる代わる指揮した。このオーケストラは、一流であった: 楽団員には宮廷歌劇場管弦楽団に所属つつ、のちにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員となった者もいたが、ウィーン・フィルの楽団員が、シュトラウス管弦楽団で代役として演奏することもあった。1894年にシュトラウスが指揮者および作曲家としての活動の50周年を祝ったとき、ウィーン・ フィルは、彼に敬意を表して、彼の作品だけで構成された記念演奏会で演奏した。
シュトラウスは、45歳のときにオペレッ夕の作曲家としての地位を確立し、聴衆を舞曲のリズムの楽曲で驚かせるということからは離れる道へと成功裏に進み始めた。1892年には、オペラ作品も手掛けた(「騎士バーズマーン」)。
彼は、計15曲のオペレッタを書いたが、その10曲目が1885年に書かれた「ジプシー男爵」であった。この作品は、ハンガリーに暮らしていたジプシーの世界を舞台にしており、ハンガリーおよびジブシーの音楽様式と民謡を舞台上で奏でる。シュトラウスは、それらから、 最も重要で、そのいずれもが、広く知られている旋律を序曲で引用している。この序曲は、このオペレッタが初演されてから、およそ2週間後にヨハン・シュトラウスの弟のエドゥアルトの指揮によって、 楽友協会大ホールで初めて演奏会形式で演奏された。
③ヨハン・シュトラウスⅡ世:「ナイチンゲール・ポルカ」 作品222 Johann Strauss Jr.: Nachtigall-Polka, Op. 222
(曲について)
ヨハン・シュトラウスⅡ世が舞曲として作曲した音楽には、踊れるような舞曲ではない楽曲もある。彼の作品には、 いわゆる「演奏会用ワルツ」と「性格的小品」が存在する。ポルカのリズムで作曲された、そのような一例が、「ナイチンゲール・ポルカ」作品222である。聴衆は、トリルを奏する木管楽器でナイチンゲール 〔サヨナキドリ〕の鳴き声を聴き、 ヴァイオリンでこの鳥の羽ばたきを聞いているように錯覚する。
この作品は、ステレオタイプのイメージを修正する良い機会である: ヨハン・ シュトラウスⅡ世は、彼のオーケストラと舞踏会よりもコンサートの舞台に上がることが多かった。なぜなら、コンサートは1年中行われるが、舞踏会は主に1年の始まりの短い舞踏会の季節にのみ行われるからである。
④ヘルメスベルガーⅡ世: 『妖精の踊り』
Joseph Hellmesberger Jr.: Elfenreigen
(曲について)
ヨーゼフ・ヘルメスベルガーII世 1855~1907)は、ウィーンで代々続くゴァイオリニストの家系の後裔であっ二。彼の父親も祖父もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスコーで、彼本人もそれに続いた。彼は、 宮廷歌劇場のバレエ指揮者を務め、最冬的には宮廷のカベルマイスターにまで昇進した。ウィーン楽友協会音楽院では、高名なヴァイオリンの教授であった。 891年に、彼に師事するため、ウィーン楽友協会音楽院で学ぶ最初の日本人学生として、幸田延(1870~1946) がウィーンに留学した。
ヘルメスベルガーは、「妖精の踊り」をバレエ作品の一部として書いたが、この楽曲は、その特徴から、コンサートホールにその居場所を見つけた。音楽は、自然のどこかに生息して、飛び回り、優雅に踊る、女性の姿をした想像上の生物という、神話や童話で伝承される妖精のイメージをそのままに表している。
⑤ヨハン・シュトラウスⅡ世: ワルツ 『芸術家の生活」 作品316
Johann Strauss Jr.: Künstlerleben Waltz, Op. 316
(曲について)
19世紀のウィーンでは、あらゆる分野の芸術家(造形芸術、文学、音会)が入会でき、芸術家の間での交流を情報を共有することで互助する場としての様々な芸術家協会の存在が。一つの特徴となっていた。ヨハン・シスⅡ世、ヨーゼフ・シュトラウスアルト・シュトラウスの3人兄弟は芸術家協会「ヘスペルス」の会員で、この芸術家協会主催の舞踏会のために、繰り返し舞曲を作曲した。これらの楽曲のうち、最も重要な楽曲が、芸術家協会「ヘスペルス」に献呈 されたワルツ「芸術家の生活」 である。1867年に初演されたこの楽曲は、真摯で誠実であると同時に芸術的な内容で、つまり自由奔放で、愉快な芸術家の生活ではなく、まるで宵の明星(ラテン語の言葉「ヘスペルス」のドイツ語訳) のように、自らの作品で輝き、全ての人々にとって重要な存在として、仕事に勤しむ芸術家の自己像を表現している。
⑥ヨハン・シュトラウスⅡ世: 喜歌劇『騎士パーズマーン』作品441 より〈チャールダーシュ〉
Johann Strauss Jr.: Csárdás from Ritter Pásmán, Op. 441
(曲について)
1892年にウィーン宮廷歌劇場で初演された、ヨハン・シュトラウスⅡ世の唯一のオペラ作品「騎士バーズマーン」については先述した(「ジプシー男爵」参照)。 このオペラは、ルネッサンス期のハンガリーを舞台にしている。このオペラで最も人気のある曲目が「チャールダーシュ」 である。
チャールダーシュは、19世紀半ばに現れた4分の2拍子のハンガリーの舞曲の一種で、1880年に出版された事典によれば、当時はまだ発展途上にあった。 シュトラウスは、オペレッタ「こうもり」 ですでに採用しており、この舞曲の様式の発展に寄与した。
チャールダーシュの特色とは何だろうか? 1880年に出版された先の事典には、「二つの民族性から生まれたもの」 と定義されている。つまり、ハンガリーとジプシーの民族性である。ウィーン・ フィルハーモニー管弦楽団は、1892年にこの曲を初演したことを誇りとしている。
⑦ヨハン・シュトラウスⅡ世:「新ピッツィカート・ポルカ」作品449
(曲について)
1869年にヨハン・シュトラウスⅡ世とヨーゼフ・シュトラウス兄弟の合作で、 弦楽器のみの編成で演奏される楽曲が作曲された。この楽曲では、弦楽器を弓で弾くのでなく、指で弾く。この弦を指で弾く技法は、「ピッツィカート」と呼ばれる。そのため、この曲は「ピッツィカート・ポルカ」と名付けられた。翌年、ヨーゼフ・シュトラウスが亡くなった。
1892年にヨハン・シュトラウスⅡ世は再びこのアイディアに取り組んだ彼は、 「新ビッツィカート・ボルカ」を一人で作曲したが、演奏は、エドゥアルト・シュトラウスを指名した。しかし、ポルカが完成すると、満足したヨハン・シュトラウスⅡ世は、演奏を弟に託すのではなく、自ら初演し、利用することを望むに至った。この計画は、1893年1月に初演されたオペレッタ「ニネッタ侯爵夫人」 で実現された。しかしながら、この曲は、 その特徴から、コンサートで演奏されるようになった。
⑧ツィーラー:ワルツ「ウィーン市民」作品419
(曲について)
豪壮華麗なウィーン市庁舎の落成を祝い、1890年に舞踏会が開かれた。この舞踏会のために、ヨハン・シュトラウスⅡ世、エドゥアルト・シュトラウス、カール・ミヒャエル・ツィーラー (1843-1922) がそれぞれにワルツの新作を作曲した。この頃には、ヨハン・シュトラウスⅡ世が舞踏会のために作曲することは極めて稀れなこととなっていた。
ツィーラーは、この舞踏会のためにワルツ「ウィーン市民」を作曲した。この曲の序奏部では、軍隊が行進して儀仗兵を作り、その間を通って舞踏会の招待客が市庁舎へ移動し、ダンスに興じる。 ヨハン・シュトラウスⅡ世よりも18歳若いツィーラーは、舞踏会のための音楽の世界で活躍しており、ヨハン・シュトラウスⅡ世にとって、最も重要な同業者の一人であった。
【演奏の模様】
①シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D.759 「未完成」
◯楽器編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 2、トランペット 2、トロンボーン 3、ティンパニ、弦五部
◯全三楽章構成
I. Allegro moderato
II. Andante con moto
冒頭の木管の後に入った弦楽奏のワーゥオンという響きが、これまで聴いた他オケとは違った深さと言うか奥行きというか、何か違った感触を受け、これは今日はかなり期待出来るなと第一声から感じ取れました。期待通り第一楽章ではティーレマンの指揮は、ウィーンフィルの弦楽弱奏と管の掛け合いの微妙な調和を、これまで聴いたことのない位見事に表現、特にHr.の伸びやかな調べやOb.奏者の弱音から笛の切っ先を上げて吹く強奏の変化と1Vn.の微弱なアンサンブルの掛け合いは、繊細極まりなく、又強奏部でのTimp.の力強いリズムを刻む中の全弦楽奏のアンサンブルは、弱奏からの変幻自在といった感じでした。
管がある箇所では、心持ち長がーく音を伸ばして吹いていた様です。
第二楽章に入り、Hrn.⇒Vn.アンサンブルの緩やかな調べが流れ出し、Cl.やOb.など木管とVn.アンサンブルの掛け合いの後のVc.の調べ⇒1Vn.の高音の調べは大変美しく、あたかもシューベルトは、まるで自分の寿命がそう長くない予感していて、天に召される幸福な至福の時を、心から待ち望んでいたかにさえ、思われました。ただこの曲の第一楽章から、第二楽章を俯瞰すると、前記の至福の時は長く続かず、時々こみ上げる不安からなのか、激しいオケの強奏部が、度々訪れるのですが、しかしそれも長く続かず、またして穏やかな演奏の流れに身を委ねるのでした。要するに其れ等の気持ちの底流には、不安に支配されていた事は、間違いないのではなかろうかと思うのです。持病の悪化の影響で第三楽章が完成できなかったこともあるのでしょうが、第二楽章の後書いたとしても、自分が望む天国の憧れの景色は描けそうもないと思って断筆したのかも知れないと、取り留めないことも考えさせる、ティーレマン・ウィーンフィルのシューベルトの見事な表現でした。
<参考>
冒頭から「ロ - 嬰ハ - ニ」の有名な動機が現れる。単に序奏というのではなく楽章の最後まで執拗に支配している。オーボエとクラリネットのユニゾン木管の甲高い第1主題を弦楽が支えながら第2主題に入る。第2主題では、伸びやかなチェロがシンコペーションに乗って歌われる。通常のソナタ形式であれば、短調の第1主題に対して3度上の平行調であるニ長調で書かれる第2主題が、ここでは逆に3度下であり平行調の下属調であるト長調で書かれている。展開部は序奏を発展させる形のもの。半音階ずつ転調を繰り返す。再現部では、第2主題は提示部とは逆の3度上(平行調)のニ長調で再現される。
通常の演奏会ではここまでが演奏される。展開部を欠くソナタ形式。穏やかな第1主題が提示される。コーダでは、シューベルトが好んで用いた三度転調により一時変イ長調に転調する。
②ヨハン・シュトラウスⅡ世: オペレッタ 『ジプシー男爵」序曲
Vn.アンサンブルの力強い強奏で開始、シンバルも打ち鳴らされ、Cl.の音⇒Vn.⇒Cl.が繰り返えされ、Timp.の音に1Vn.が誘われ、Ob.がソロ音をたてています。Cb.のPizzicato奏に合わせOb.のソロ音が響きました。この辺りウィンナーワルツではなく、ティーレマンは、両手を速く左右に振り指揮しています。この前半は、オペレッタの中から主だった曲を選りすぐり使っている様です。ジプシー音楽の旋律の影響めある様です。
そして中後半から、出てきました待望のウィンナーワルツの調べが。次第に速くなるテンポ、この辺りは、劇中の女性が埋蔵宝が見つかったことに喜んで踊るワルツの場面らしい。(このオペレッタは見たことがありません)従って「宝物のワルツ」の別名も有るとか。Vc.に依る勇ましいワルツが出てきたり、1Vn.が、低音弦の合いの手の上で、繰り返し奏でるワルツ、その雰囲気に浸られたこともあってか、演奏後は、前半のシューベルトの時よりも会場は盛り上がり拍手喝采の他歓声も飛んでいました。
③ヨハン・シュトラウスⅡ世: 『ナイチンゲール・ポルカ』
これは、タイトルが示す様に夜鳴き鳥の様子を弦楽の高音域奏とTri.のチンチンと鳴らす金属弱音で表わされ、ポルカの舞曲リズムも軽やかな演奏でした。ご案内のことだとは思いますが、
ポルカは、同じ舞曲でもワルツとは、その拍子、テンポが異なっていて、従って雰囲気が異なります。ワルツは三拍子、ポルカは二拍子。またワルツ(円舞曲)は、優雅にスローテンポで、円舞するに対し、ポルカは、軽快で速いテンポで踊り、跳躍舞する傾向が有ります。といっても、演奏のフィナーレでは、両者とも盛り上がりのため、テンポがかなり速く演奏されることが多いと認識しています。この曲の終盤での1Vn.中心のオケ奏に、Tri.がチンチン鳴る中、木管との掛け合いが、タイトルを具現していました。演奏後指揮者は、木管奏者の方に行って握手した様に思いますが、ハッキリ見えませんでした。
④ヘルメスベルガーⅡ世: 『妖精の踊り』
この演奏でも、Tri.の音や木管の高音が活躍。不思議な雰囲気がタイトルの「妖精」に相応しいといった感じがしました。
1Vn.のPizzicato奏の中、Va.と2Vn.のアンサンブルが響いたのは面白かったし、またこの曲に限らず、これまでの舞曲では、1Vn.のアンサンブルが主導してオケを牽引していたのは、他の管弦楽団とも共通であることから、此等は、シュトラウス一家達の曲の共通項なのかな?或いはその時代のウィーンの舞曲の共通項なのかな?
等と思えてきました。
⑤ヨハン・シュトラウスⅡ世: ワルツ 『芸術家の生活」
この曲は、(曲について)にある様に、自由闊達な感じよりも、堅実感の強い曲想の舞曲だといいます。そして「ヘルペルス」の様に輝くといいますから、日本で見える「宵の明星」とは。違って見えるのでしょうか?東洋の占星的解釈では、夕暮れ時に輝く金星、宵の明星は、「愛、美、富、人間関係の調和」といった事柄を象徴し、その時期や状況において、それらの状態が特に強く現われたり弱まったりするのです。解釈に依っては、「」内の事項が堅実になるとも解釈出来ないこともないので、真面目な藝術家の曲想だと思いましょう。
この曲でも、1Vn.アンサンブル、就中コンマスのホーネックさんの音が、Predominantlyに聞こえました。
スネアの音も印象的でした。
⑥ヨハン・シュトラウスⅡ世: 喜歌劇『騎士パーズマーン』作品441 より〈チャールダーシュ〉
この喜歌劇も見たことが有りません。でもチャルダッシュという語は、時々見かけるので調べると、次の様でした。
〘ハンガリー語で「酒場」を意味する「チャールダ」に由来します。一般的に、哀愁を帯びた「ラッシュー(遅い部分)」と、情熱的な「フリッシュ(速い部分)」の対照的な2つの部分で構成されています。この音楽はバレエ作品にも使われます。〙
とあります。ここでも先の曲の時にも、ハンガリーとかジプシーとか出て来てウィーンなのに何故?と思うかも知れませんが、これは、歴史的に、ウィーンを中心とするオーストリア帝国が一時ハンガリーを吸収して、オーストリアーハンガリア帝国を成していたからです。
この曲は、少し変わった感じの短調のドラマチックな調べでスタートしましたが、1Vn.中心という点では、これまでの曲と変わりありませんでした。今の曲でハープの音に気が付きましたが、その前から鳴っていましたっけ?また時々ムチを打つ様な音が入りましたが、これって、大太鼓の縁を叩く音?チャルダッシュって、バレエなどみていると、かなり民族性の強い余り洗練されているとはいえないけれど、踊りが本当に楽しそうな舞曲です。でも、かなり難しく力(特に脚力)が要りそう。
⑦ヨハン・シュトラウスⅡ世: 『新ピッツィカート・ポルカ』作品449
「ピッツィカート・ポルカ」は、大変有名な曲ですが、(曲について)にある様に、元祖ピッツィ・ポルカは、1869年、ヨハンとヨーゼフ兄弟の作品で、新ポルカの方は、23年ごに、兄のヨハンのみで(弟ヨゼフはなくなってしまったので)作曲したものです。
冒頭は、やや弱いPizzicato奏だなとえもいましたが、直ぐに強いPizzicato奏となり、これは繰り返えされ、最後は、クレッシェンド後デクレッシェンドで、終了しました。元祖の曲と比べると、ウィーンフィルの腕を持ってしても、元祖を超える素晴らしさは、感じられませんでした。
⑧ツィーラー: ワルツ 『ウィーン市民』
この曲作曲には、いわく付きの背景があった様です。調べると次の通りでした。
〘落成して8年が経ったウィーン市庁舎において初めての舞踏会が催され、2つの楽団が出演することになった。エドゥアルト・シュトラウス1世が率いるシュトラウス管弦楽団(ポルトガル語版)と、カール・ミヒャエル・ツィーラーが率いるウィーン第4連隊、いわゆる「ドイチュマイスター」であった。
「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世とツィーラーは、それぞれこの舞踏会のために新作を用意した。『市庁舎舞踏会』というワルツを準備したシュトラウスに対抗し、ツィーラーはこの『ウィーン市民』というワルツを準備した。人々が軍配を挙げたのは『ウィーン市民』のほうであり、その評判は「ワルツ王」の作品を凌いだという。〙
ここでは、ワルツ王の曲が如何なるものか分からないので優劣判断はできません。ただ、この「ウィーン市民」のティーレマン・ウィーンフィルの演奏を聴くと、演奏の調べ全体から滲み出る、華やかだけれど、市民の安寧を願う気持ちが込められている感がして、今回のフィナーレにも相応しい曲を指揮者は選んだものだと感心しました。
以上の後半に演奏された舞曲の大部分は、かってティーレマンがニューイアコンサートでウィーンフィルを指揮した時の選曲に殆ど入っている、謂わば彼の指揮馴れた曲達ばかりだったと言って良いでしょう。いい指揮・指導・牽引で、ウィーンフィルの力を存分に発揮されたのも宜なるかなとの感想でした。
最後の演奏が終わり、指揮者がタクトをおろすまで、6、7秒あったでしょうか、満座の聴衆は、固唾を飲んでカタリとも音を立てず、静寂に飲み込まれた大ホール、そして、大歓声・拍手の渦と化したのでありました。


鳴り止まない拍手と歓声、何回か退・出を繰り返した指揮者は、勢い良く指揮台に跳び上がるとアンコール演奏をしました。そるが2回行なわれたのです。
《アンコール曲》
1、J.シュトラウスⅡ世『ポルカシュネル超特級Op.311』
2、J.シュトラウス『青き美しきドナウOp.314』
