新暦12/7(土)は二十四節気の『大雪(たいせつ)』です。歴書によれば、❝旧暦十一月、子(ね)の月の正節で、新暦十二月七日頃にあたります。もう山の峰々は積雪に覆われ、平地も北風が吹きすさんで、いよいよ冬将軍の到来が感じられます。❞とあります。
確かに、この処暖い小春日和が続いた関東地方も、6日は晴れたものの、寒風吹きすさぶ寒い日になりました。地方によっては降雪が既に始まっています。
12月も残す処三週間程、風は寒いですが横浜の天気はこのところ快晴、ガラス越しの日差しは暖かで、日中、家の中は暖房を付けなくとも過ごせる程。例年と比べたらかなりの暖冬と言えるでしょう。
冬の中に春を感じるという意味で『小春日和』と言う言葉が出来たのでしょうが、枕草子106段には、有名なエピソードが載っています。以下引用しますと、
❝二月つごもりごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたるほど、黒戸に主殿寮来て、「かうて候ふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任の宰相殿の」とてあるを、見れば、懐紙に、
少し春ある心地こそすれ(B)
とあるは、げに今日の気色にいとよう合ひたる。これが本はいかでかつくべからむ、と思ひ煩ひぬ。「たれたれか」と問へば、「それそれ」と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御答へを、いかでかことなしびに言ひ出でむ、と心ひとつに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして、大殿籠りたり。主殿寮は「とくとく」と言ふ。げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、
空寒み花にまがへて散る雪に(A)
と、わななくわななく書きてとらせて、いかに思ふらむとわびし。 これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじとおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ』となむ定め給ひし」とばかりぞ、左兵衛督の中将におはせし、語り給ひし❞
かいつまんで言えば、藤原公任(ふじわらのきんとう)とういう公卿(和歌の名人で有名)が来て、清少納言にBの下句を投げかけました。Bの上の句を作っては?と挑んだのです。現在の百人一首を使ったかるた遊びの様に、有名な和歌の上の句から下の句を当てるのとは訳が違います。和歌の半分を自分で作らないといけないのです。当時こうした和歌遊びが流行っていたとしても、即興で作るとなるとかなり苦しむでしょう。仕えている定子皇后に助けを求めようとしたのですが、天皇が来所中なので出来ない相談。ぐずぐずして返事が遅くなってしまうのは嫌だし、急いで下手な句を詠んでも恥となるし、エイ!ままよと、清少納言が詠んで返した上の句がAだったのでした。
これは将に天才の為せる技、その場の雰囲気(その時の天気等)を下の句と繋げて、意味が通り、しかも芸術的高みに達した上の句を作ったという事は奇蹟に近いことです。
旧暦2月(新暦3月)の多分「春分の日」が近づいている頃とはいえ、空が黒くて風は非常に強く、雪が少しちらつく冬の日の情景に、下の句の「少し春めいている気がする」ことを、チラチラ降る雪を散る花に見立てて下の句を詠んだ、頭の回転の速さとその美しい情景描写は、流石「春はあけぼの」の絵画の様な美的感覚に優れた清少納言ならではの名回答と言えるでしょう。
宰相、源俊賢が「(清少納言を)天皇の側近に推薦しようか」とまで評価したのも、むべなるかなです。