今日(6/5木曜)は、二十四節気の芒種です。
暦書に依れば、「芒種は、旧暦五月午の月の正節で、新暦六月五日ごろになります。五月雨が間断なく降り続き、農家はことのほか多忙を極めます。芒種とは芒のある穀物、 なわち稲を植えつける季節を意味しています。」とあります。
そう、田植盛んな時期なのです。これは、何も現代や明治維新前からだけではなく、遠く平安の御代にも、同様な田植の風景が見られました。
清少納言の枕草子にその記載があります。「枕草子」二四八段には、田植えの描写がみられるのです。〚二四八段 賀茂へ詣づる道に〛
「賀茂へ詣づる道に、女どもの、あたらしき折敷のやうなる物を笠に着て、いとおほく立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらむ、をかしと見るほどに、郭公をいとなめくうたふ声ぞ心憂き。「郭公よ。おれよ。かやつよ。おれ鳴きてぞ、われは田に立つ」とうたふに、聞きも果てず。いかなりし人か、「いたく鳴きてぞ」と言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「鶯には郭公はおとれる」と言ふ人こそ、いとつらうにくけれ。鶯は夜鳴かぬ、いとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。
〚概意〛
加茂へ向かって参詣の途中で、女たちが、新しい折敷のような物を笠としてかぶって、たいへんたくさん立っていて、歌をうたい、起きたり伏したりするように見えて、ただ何をするということもなくて、後ろの方に行くのは、いったい何のためなのだろうか。おもしろいと見るうちに、郭公のことをひどくぶしつけにうたう声は不愉快だ。「郭公よ。きさまよ。きゃつよ。きさまが鳴くから、われは田に立つ」と歌うので、しまいまでも聞きたくない。いったいどうした人が、「いたく鳴きてぞ」と歌によんだものだろう。仲忠の子ども時代の生い立ちを言いけなす人、「鶯には郭公は劣っているよ」と言う人こそは、ひどく情けなくにくにくしい。鶯は夜鳴かないのが、ひどく劣っている。すべて、夜鳴くものはすばらしい。
今日では鶯(うぐいす)の鳴き声は勿論のこと、郭公(ここでは、ホトトギスを指していると思われます。ホトトギスもカッコウ目に分類されますが別な鳥で、鳴き声が、カッコー、カッコーと鳴く郭公とは、違います)の声もいいとされる場合が多いですが、清少納言は、 夜鳴きするのがいい。鶯は、夜鳴かないので・・。
と書いているのです。
欧州には「夜鳴き鶯」がいる様でして、オペラや楽曲にもその名が出てきます。ストラビンスキーにはタイトルが『夜鳴きウグイス』というオペラがあります。夜鳴きうぐいす=ナイチンゲールです。夜鳴きうぐいすは、「サヨナキドリ」 ともいい、スズメ目ヒタキ科に属する鳥類の一種で、日本の鶯とは別物ですが、明け方まだ日が昇る前の薄暗い頃良く鳴く様です。そのオペラでは、漁師が朝方暗いうちに海辺で漁をしていて、その時の一番の楽しみが、夜鳴き鶯の鳴き声を聞くことだったのでした。
若し清少納言が夜鳴き鶯を知っていたら何と書いたでしょうか?
日本での稲作はさかのぼると弥生時代または縄文時代からすでに始まっていたのでは……というくらい歴史あるものです。
農業で豊作を祈願する「農耕儀礼」も平安時代にはすでに登場していたといいます。
田植えの際にも歌や踊りを行うようになり「田楽」と呼ばれました。
田楽の発祥については諸説ありますが、どうやら田植えがあまりにも重労働であることから生まれたもののようです。
今のように田植え機などはありませんので、たくさんの人手をかけて、短期間で終わらせなければいけません。
そのため田植えをする人々が勢いよく作業できるように、にぎやかなお囃子や舞、曲芸などを行うようになったのでしょう。
もともとは農耕儀礼として誕生した田楽でしたが、その派手な見た目から次第に演芸としての要素が重視されるようになりました。その後の「能」のルーツともいわれています。
田楽は農民だけでなく、貴族にも広まっていき爆発的な人気を博すようになった様です。
その最たる例が1096年に起こった「永長の大田楽」でしょう。
平安末期には田楽を行う集団「田楽座」が数多く現れました。その田楽座が次々と平安京の都大路を練り歩いていったところ、何と見物のための桟敷が崩落してしまったというのです。
ブームを超えてパニック状態ともいえそうですが、そのくらい当時の人々は田楽のとりこになっていたのです。
しかし、その人気もあっけないもの……。
鎌倉末期には田楽の人気は次第に衰え、猿楽の人気に圧倒されるようになっていきました。
兎に角、田植の成果であるお米は、現在の日本でも重要な位置を占め、大きな影響を社会に与えていますし、色んな意味で、パニックにならない様に気を付ける必要があると思います。