HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

Stendhal『イタリア紀行(1817年版)』5

 

《ミラノ11月4日》

 この一つ前の記事は10月26日付けのミュンヘンのカタラーニ夫人のエピソードに関してですから、約一週間位かけてミラノに到着した訳です。二つの都市間を約500kmとして

、現代の車で80km/hで走ったとしたら、約6時間かかります。スタンダール時代は馬車だった訳ですから、せいぜい10km/h 位として50時間、丸二日かかることになります。実際は休憩やらなにやらでさらに時間がかかり、日が暮れれば宿を取ることになりますから、七日で到着したことは腑に落ちます。

 ミラノ到着と同時にスタンダールはスカラ座に真っ先に行ったと記述していますが、この日の記事と翌5日の記事、6日の記事の内容は、『イタリア旅日記(1826年版)』の9月24日、25日、26日の記事とほとんど同じ内容です。そのあたりについては、以下に再掲した昨年の4月15日のブログに既に書きました。その中で、この二つの紀行の日付の関係についても書きました。

 

再掲(hukkats2020.4.15.付け記事)

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スタンダール『イタリア旅日記(1826年版)』散読(続き)

《ミラノ九月二十四日、二十五日、二十六日》

 スタンダールはイタリア旅行をするにあたり、先ずミラノを訪れ、疲れているにもかかわらず到着日(9/24)に真っ先にスカラ座に足を運びました。続く翌日(9/25)もまたスカラ座に行き、オペラを鑑賞したのです。その次の日(9/26)も翌々日も、その後もズート暫くはスカラ座の話ばかりで、これは3階の“桟敷席を確保した”と書いてあるので、ある一定期間の独占使用の契約をしたことが推定出来ます。ところが腑に落ちないのは、9月26日の記述の冒頭に“夏に逆戻りした。このイタリアでいちばん感動的なひと時だ。僕は一種の陶酔みたいなものを覚える。ミラノから北へ十マイルの地点、アルプス山脈の麓にある心地よい英国庭園、デジヲに行ってきた”と書いているのです。この文は次の“僕はスカラ座を出る。まったく僕の賞賛は少しも衰えない。僕はスカラ座を世界一の劇場と呼ぶ。なぜなら音楽によって最高の喜びを与える劇場だからだ。”云々という記述と全く異質であり唐突な感は否めない。脚注や「訳者あとがき」などを考え合わせると、どうもこの「イタリア旅日記」の十年前(1817年)にスタンダールは既にイタリアを旅行している模様で、その時の紀行を『イタリア紀行』として刊行していて、今回の『旅日記』はその増補版であるらしいことが分かったのです。

 そこで『イタリア紀行(1817年)』を参考にしながら『イタリア旅日記』を読み比べると、

 冒頭の文から到着三日目までは、上記引用の箇処を除いて、同じ文章になっているのです。このことから見ても、スタンダールは十年前の紀行文のほとんどを変えずに利用し、若干の補強をして新たな『イタリア旅日記』として出版したものと思われます。現代の我々の感覚だったら、(仮に旅のルートがほとんど同じであっても)新しい旅行の様子、新規事項を中心に書いて、同時に十年前の旅を引用比較しながら物語記述を進めるのが普通でしょう。しかしスタンダールはそうしなかったのです。一番問題なのは、日付けです。十年後の旅の記述の日付けは、以前の記事の日付けでなく、41日早めた日にちになっているのです。記述は以前の記述とほぼ同じなのに。例えばミラノ到着日の記事は11月4日だったものが、9月24日と早めているのです。これは十年後(1827年)の到着日がきっとその日だったのでしょう。

 こうした複雑な理由から、上記の違和感のある記述が付け加えられたのだと思います。

 11月4日の記述ですが、“デジヲに行ってきた”のは実際は、十年後の9月26日だったので、スタンダールが見たデジヲの庭園の景色は夏だったのでしょう。従って十年前の11月の記述と齟齬が出るのをスタンダールは恐れて、言い訳ぽく冒頭に“夏に逆戻りした。”と書いたのだと思う。それで庭園の風景の記述は出来なかった。その後の記述のほとんどは十年前の秋の11月の記述だからです。

 でも『イタリア紀行(1817年)』のそのあとの記述を見ても、11月を連想させる季節的記述、描写はどこを見ても無いので、同じ記事に十年後に9月の日付けを付けてもうっかりすると見過ごしてしまうのです。従って新たに付け加えるべき景色的や季節的記述が有るとしたら、“夏に逆戻りした(11月から9月に逆戻りした)”と書かざるを得なかったのでしょうが、幸か不幸かその後の記述ではその必要性が生じなかった様です。意図的にそうした類い(たぐい)の記事の付け足しを避けたのかも知れない。

 こうした複雑怪奇な紀行文なので。今後このブログでは、2018年の日付けを使用することにし、記述の内容は1817年の内容を基本とし、十年後の1827年の再度の旅による付けたし記述があればそれを勘案して参考とし、今後、タイトルも『イタリア旅日記』⇒『イタリア紀行』とすることにします。


<ミラノ到着日以降3日目、11月10日>

到着日に疲れ果ててオペラを見に行っても、目に入るのはその劇場内部の豪華さ、立派さのみだったのですが、この日に目で見た劇場内部の詳細を記述したのでした。引用すると、“観客席には一つの灯火もない。舞台装置からやってくる光だけで明るい。この建築の姿以上に、大きく壮麗で、いかめしく、新規なものを、想像することが出来ない。” スタンダールはさらに四階の桟敷席を滞在中ずっと(使える)予約をした。と書いていますが、十年後の同じ日にちの記載では “三階の桟敷”と書いているので、これは十年後の観劇の時には座席をグレードアップしたのでしょう。まさか見栄で嘘は書かないでしょうから。

桟敷席では平土間越しに対面する桟敷席の人達と挨拶を交わすこと、複数の桟敷を訪問することなどを記しています。こうした風景はオペラ等の観劇の小説、例えば椿姫、や映画の場面でも時々見かけることがあります。この日の最初の文で、スカラ座賛辞とも言える“私はスカラ座を世界一の劇場と呼ぶ”とスタンダールは述懐したのでしょう。「デジヲ」に関する描写は皆無です。