<ミラノ十一月十二日>の続き②
スタンダールが好んで出入りしているディ・ブレーメ氏の桟敷で会った人として、愛国者コンファロニエーリ氏、グリソストモ・ベルケティ氏、トレキ氏などの名を挙げ、“パリでは、この桟敷に匹敵できるようなものを僕は少しも知らない。ここでは毎晩、次々と十五人から二十人からの有名人が、声を掛けにやって来るのが見られる。そして会話が興味をかきたてなくなると、音楽を聴く” と述べています。現代の我々の観劇スタイル・マナーと比べると、信じられない位大きな違いがありますね。いくら仕切られた空間の桟敷でも、何人もの人が集まって話し込めば、当然劇場内にはその話声が相当響く筈で、そんな事をしたら今だったら、周りの観客の顰蹙を買う事間違いなし、ホール係にも注意されてしまうでしょう。それがスタンダールによると、スカラ座の桟敷の中でタロッコ(タロット)のかけ事をやって、大声での怒鳴り合い喧嘩に発展した人達を見たと、<十月二十五日>の記事に書いているぐらいです。少し考えさせられますね。ちょっとした咳も遠慮がちにして、シーンと静まり返って、全神経をステージに集中している我々現代人、スタンダールの時とは、国も時代も違いますが、何か現代人のおおらかでない、神経質な気質が観劇にも垣間見られる気がします。
スタンダールは続けます、“パリでは何百万ももっていても、こうした夕べを手に入れることはできないだろう。スカラ座の外は雨が降り、雪が降ってもそれがどうだというのだ。和気藹藹の一同はこの劇場の二百四の桟敷のうちの百八十に集っている。これらのすべての桟敷でもっとも好ましいのは、それはおそらく、『ミルルハ』を作った才人の娘、ニーナ・ヴィガノ夫人のそれである。彼女はニーナ夫人、もしくはラ・ニーナと呼ばれている。”
脚注によれば、ここの“ミルルハ”については『イタリア紀行(1817年版)』の<七月十七日>付け記事を参照とのことなので、そこを調べるとスタンダールは以下の様に述べています。
“あの偉大な無言の詩人ヴィガノは、『ミルルハ』のなかで、少しもアルフィエーリを踏襲しなかった。話はミルルハの夫をキニュラスが品定めすることからはじまる。少しずつ、この不幸な娘は宿命的な恋の虜になっていくようだ。そして彼女のあまりにも予期された死で話は終る。不幸が題材であるにもかかわらず、芝居が未だかってこれ以上に活気にあふれていたことはなかった。そこから出ると、美しい絵の想い出のように、十ないし十二の群舞の全体が想像をひとりじめにして、これにつきまとわれる。上演ごとに、新しい魅力的な細部が認められる。群の動きが、その目新しさ、整然とした様子、変化で、人の心を打つ。そしてすべてが意表をつくものであるが、どれも自然さから外れているようには思えない。絵の様な美のなかでもいちばん崇高なものにいくら目がなじんでいるとはいえ、そこに大画家の天分を認めずにはいられない。観客はきわめつけの楽しさを期待していたのだった。観客はこの不幸な題材が内包している感動だけを味わった。ヴィガノが愛情をこめて仕事をしたかどうかわかるというものだ。パッレリーニがミルルハの役をした。”
ここで詳細は不明ですが、作者ヴィガノの、『ミルルハ』は英雄もののバレーで、別名『ヴィーナスの復讐』。これをスタンダールは<1817年7月16日>にスカラ座で観たと記している。以前の記事にもありましたが、オペラとオペラの間に演じられるバレーです
ところで、今日知ったのですが、兼ねて予定されていた、サー・サイモン・ラトル指揮の『ロンドン交響楽団』の来日公演が中止になったという知らせが、数日前に為されました。来日が困難になった模様です。英国はコロナ死亡率が10%台と日本の倍以上に昇り、やはりロンドンも犠牲者が多く出たのでしょうか。マーラーの『復活』が聴けないのは誠に残念。楽団員で亡くなられた方が若しいれば、哀悼の意を表します。