<ミラノ十一月十二日>の続き①
次にスタンダールはイタリアで一、二の哲学者と考えている、エルメス・ヴィスコンティ公爵に、前述のディ・ブレーメ氏の桟敷で出会ったことを述べ、哲学者についての話題に転じます。
“ナポリには~(略)~独特の哲学の一派があるという。しかしナポリに住んで、人間や自然についての形而上的な説明を出版出来る才人を、僕はうまく思いつかない。先手を取った連中がいるのだ。彼らは自分たちの立場の説明を公式に表明させたし、まさにナポリの哲学者を絞首台に送ることもできるだろう。ネルソンによって援護され、かれらがナポリで才知のあるものすべてを吊るさせて楽しむようになってから、まだ十七年にもなっていない。思想と人情の国エディンバラに記念柱が立っているこのネルソンの役割を、どんなフランスの提督がこれほどまでに演じたことだろう。”
ここで若干補足説明しますと、ここに出て来る“ネルソン”とは、彼の有名な「隻腕隻眼」の英国海軍総督のネルソンです。彼は1806年トラファルガーの海戦でフランス海軍を破り英国に勝利をもたらした英雄ですが、戦いで致命傷を受け亡くなったのでした。
その栄誉を称え、ロンドンとエディンバラ(スコットランドの首府)に記念塔が建造されたのです。
ところでスタンダールがここに記した“ネルソン” は、トラファルガーの戦いに遡る事七年ほど前の1799年、ナポリ王国に代わって革命勢力のパルテノペア共和国が建てられたものの、数か月の短命に終わりブルボン朝が復帰し、第三次対仏大同盟にも参加したナポリ王国の安定を後押しするために、英国がネルソンをナポリに派遣した頃の話なのです。従って共和派の革命勢力である哲学者の中には、処刑された文人も多数に上ったのでしょう。
一方ここで、ネルソンの私生活に纏わる有名な話を省く訳にはいきません。それは彼がたびたびナポリを訪づれる内に、英国ナポリ大使の妻エマ・ハミルトンと愛し合う仲になってしまったことです。ネルソンには英国に本妻がおり、エマとはダブル不倫の関係でした。この辺りの事情は映画化され大きな話題となりました。映画名は『Lady Hamilton』、主演女優はヴィヴィアン・リー、ネルソン役男優はヴィヴィアンの夫ローレンス・オリヴィエです。
昔、まだ二十歳代だったかな?この白黒映画を観た時、印象に残ったのはヴィヴィアンの美しさとヴェスヴィオス山から黒煙がもくもくと上がっていたことの二点でした。それ以前に『風と共に去りぬ』は見ていましたが、内容はともかくも、主演女優が(それまでの錚々たるハリウッド女優に比して)とびぬけているとは感じなかったのですが。『Lady Hamilton』に『美女ありき』という邦名はよく付けたものです。
またヴェスヴィオス山は今では静かな名峰と言った感じで聳えています。
ナポリの街とその山のマッチングは海上から眺めるとまさに「ナポリを見てから死ね」に相応しい景観を呈していますが、今から200年前頃には火山活動が活発だったのですね。その煙を見たら逃げ帰りたいくらいの怖さを感じたかも知れません。でも当時は結構それを目当てにした観光客が多かったとも言いますよ。
そうい言えば、ハイドンに『ネルソン・ミサ』がありますね。そのCDを持っています。
Soloは Viktoria Loukianetz(Sop) Gabriele Sima(A) Kurt Azesberger(T) Robert Holzer(Bs) Chorusは Hungarian Radio&Television合唱
団、指揮はBela Drahos (Recorded in Budapest Phenix Studio 1998) です。
改めて聴いてみましたが、いかにもハイドンらしい旋律と流れの特徴を有した曲です。ハイドンの天地創造、四季などのオラトリオもそうなのですが、楽曲の集合体の中には、きらりと光る素晴らしい歌も多いのですが、全体として同じ穴のムジナ、即ち「ハイドン臭」がふんぷんとする感じがするのです(室内楽曲はちょっと違いますが)。このミサ曲も同じ印象でした。もっとも第四曲“Quoniam tu solus sanctus~”など、類似のメロディを他でも聴いたことのある様な高揚したソプラノの歌声をきくと、すがすがしい気分になりますが。
またこの曲をネルソン自身が、愛人エマとその夫と共に聞いたことがある様なのです。添付されていたカタログによれば次の様な記載の箇所がありました。
“~Whatever the truth of this, since that time the name of Nelson has been associated with the Mass and both Nelson, with Sir William and Lady Hamilton,met Haydn in September 1800 during a four day visit to Eisenstadt during which there seems to have been a performance of the Mass~”