HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

スタンダール『イタリア旅日記(1827年版)』精読(遅読)22-1

<ミラノ十一月十二日>
 この日の記事は、日記の中でも長大級の6ページ以上に渡って、スカラ座の桟敷席で見聞きした様々な事柄について記述しているので、数回に分けて見てみます。
 先ず “僕は毎日スカラ座のディ・ブレーメ氏の桟敷に行っている。それはまったく文学的な集まりである。そこには決して女性が見られない。”と書いています。

 スカラ座には200位桟敷が有り、以前の記事にもありましたが、様々な集まりが観劇と同時に行われ、中には観劇そっちのけで色恋沙汰の行為がなされることも珍しくなかったのです。従って、スタンダールがここで“決して女性が見られない。”  と念を押した訳は、そうしたことは無縁という意味なのです。ここに出て来るディ・ブレーメ氏は、友人のグアスコが一ヶ月ほど前に連れて来て紹介してくれた若者で、ナポレオンのイタリア支配時代(1805年~1814年)に、当時の内務大臣の息子でありナポレオン付きの司祭だった人だそうです。

 “ディ・ブレーメ氏はとても教養が有り、才知が有り、そして上流社会の作法を心得ている。彼はスタール夫人の熱烈な讃美者であり、大変な文学愛好家である。”

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スタール夫人

 ここのスタール夫人はとても有名なフランス革命からナポレオン時代の、(特に政治)評論家でかつ弁舌家でした。この頃丁度フランスから亡命して(ナポレオン支配瓦解後、立憲君主制の画策が失敗し王政復古となったため)、イタリアのオーセールに滞在していたのでした。

 さらにスタンダールは続けます。“ディ・ブレーメ氏はとても礼儀をわきまえているので、彼の桟敷に僕はほとんど毎晩出席し続けている。僕はここの殿方たちにフランスのニュース、モスクワ退却やナポレオンやブルボン家の人たちの逸話を話してあげる。彼らは引き替えにイタリアのニュースを話してくれる。”  “極度に熱のこもった話し言葉は、少し細やかさを損なうけれども、イタリア的雄弁によって阻まれはしない。一歩行くごとに、この国には百五十年間、ルイ十四世やルイ十五世の軽蔑すべき宮廷がなかったということが感じられる。”

 ここで、“モスクワ退却”はご存知の通り、ナポレオンのロシア遠征が失敗に終わり退却した時のことで、スタンダールはこのナポレオンのモスクワ遠征に陸軍の主計官関係で従軍したのでした。ですからその詳細が分かっていたのです。またそれ以前にイアリア遠征軍にも事務官として従軍した経験があり、その時以降イタリアが気に入り第2の故郷と考える様になったとも言われます。スタンダールは長年のブルボン王朝の支配を軽蔑し、革命を当然の出来事と考えていた様です。

   続いて“シルヴィオ・ペッリコは、十分な分別を備え、よい教育を受けた人だが、表現において、おそらくモンティの華麗さも力強さもない。~(略)~ 中傷が彼を悩ましている。僕は彼に「阿呆が腹いせをするのをどうしようとするのです」と言った。彼は答えた。「ぼくの人生のいちばんいい時は僕に死ぬ日でしょう」と。彼の『フランチェスカ・ダ・リミニ』の中で愛が完璧に描かれている。” とも書いている。

 この『フランチェスカ・ダ・リミニ』はダンテが神曲時獄篇に登場させた女性で、その悲劇に題材したオペラがここ数年日本でも上演されています。昭和音大で聴いたことがあります。確かメルカダンテというナポリの作曲家が作曲した1831年頃のオペラです。

 スタンダールが励ました上記のペッリコは、調べたところ、イタリアの文学者、愛国者として著名で、ピエモンテのサルッツォに生まれリヨンでの勉学でフランス文化の教養を身につけたのちミラノに居を定め、フォスコロやモンティなどロマン主義の先駆けとなった一群の文学者たちと親交を結んだ人の様です。悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』を書き、1815年、その上演によって一躍名声を得たそうです。