HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『スタンダール『イタリア旅日記(1827年版)』精読(遅読)31

《ベルジョイヨーゾ十二月十四日》

 いよいよスタンダールは長逗留したミラノを去る決心をし、この日ミラノ南方35㎞にあるベルジョイオーゾ(=ベルジョイヨーゾ)に向けて出発したのでした。これはスタンダールにとってかなりの事件だった様で、5ページに渡ってミラノを懐かしんだ記事を書いています。この街で一泊してこの記事を書いたのでしょうか?いやそうではなくて実際は何年も後の思い出書きの可能性が高いのです。

 “今朝、僕はミラノを立ち去りながら、土地の極右反動家の仕業の、何やらわけのわからない落書きで汚されたマレンゴ戦勝記念アーチ(パヴィア門)の下を通過したとき、目に涙が浮かんだ。ある無意識の喜びで、モンティのあの美しい詞句をしばしば繰り返した。

「私はついに去る 自然のあらゆる美が集まった この丘陵地を、心のうちに 後悔に向かう緩やかな 歩みを 意識しつつ」”

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モンティ

 ここで“モンティ”はイタリアの劇作家ヴィンチェンツォ・モンティ(1754~1828)のことで、引用した詩はマスケローニの死に際して詠った詩『マスケロニアーナ』の第五歌です。スタンダールは余程モンティの詩に感服しているのでしょう。次の様に続けます。“僕はビアンカ・ミレージ嬢の家での、ユーグ・カペーに関するダンテの作品(hukkats注1)を朗唱するモンティの美しい顔を生涯忘れないであろう”、“この偉大な詩人はナポレオンの生涯の一日を描いている。彼は『バスヴィリャーナ』の中でフランス革命史にはじめて触れた。この結構な主題を全体的に扱わなかったのは何と残念なことだろう。モンティは感受性の強い子供みたいな人で、生涯に五、六度党派を変えた。『バスヴィリャーナ』の中では狂信的な極右反動であり、こんにちでは愛国者だ。しかしかれを軽蔑から救っているものは、金のためには決して変わらなかったことだ。”  “モンティは、おそらくそれぞれが三十版も重ねたかれの不滅の詩が、つねにかれに散財させると僕に言った。『マスケロニアーナ』がミラノで印刷された一週間後、外国で、つまりトリノ、フィレンツェ、ボローニャ、ジェノヴァ、ルガーノ等で海賊版が出た”と。

 200年も前ですから「知的財産権」の概念など皆無だったのですね。

  またスタンダールはその他の詩人の名をあげて、“僕は遠くからマンゾーニ氏(hukkatsc注2)を見た。

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マンゾーニ

 とても敬虔な青年で、存命する人のなかで最高の抒情詩人である名誉を、バイロン卿と競っている。彼は僕を深く感動させた二三のオッドを作った。(脚注)”とも。

 また“僕はすでにアリオストやアルフィエーリと同じ言語で書き、運命が許せば、イタリアでの大詩人を約束されている青年について話した。シルヴィオ・ペッリコである。

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ペッリコ

 彼は子供の家庭教師という最低の仕事をしてやっと千二百フランを稼いでいるので、悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』(hukkats注3 )を出版するのに充分なお金も虚栄心もなかった。その費用を出したのは、ブレーメ氏である。ペッリコ氏は別の三つの悲劇の原稿を僕に預けたが、それらは「フランチェスカ」より悲劇らしく、より哀歌調ではない。この国第一の悲劇女優であるマルキオーニ嬢が僕の前でペッリコ氏に、ボローニャでは「フランチェスカ」が続けて五回も上演されたばかりだが、こういった事態はおそらくこの百年なかったことだと言っていた。ペッリコ氏はアルフエーリよりも見事に愛を描いているが、これは言い過ぎではない。この国では、愛を描くのを任されていたのは音楽である。(~中略~)作品の上演や出版はかれには一サンチ-ムの収入にもならない。”

 ここでも、著作権や上演権などの問題が指摘されていますね。そしてスタンダールは結論的にミラノを懐かしむ理由を次の様に述べているのです。

“僕がミラノを懐かしく思うのは、僕が名をあげた優れた人々のせいではない。ミラノの風俗の全体である。態度に見られる自然さである。善良さである。ここで実践されている幸福になるすべである。これにはさらに、これら善良な人々はそれが術(すべ)は、しかもあらゆるもののなかでもっともむずかしいものであるとは知らないという魅力が伴う”

 尚、冒頭に“ベルジョイオーゾに向けて出発”云々と書いたのですが、その様にこの日の記事にスタンダールは書いていないので、真相は不明です。しかし翌日(十二月十五日)翌々日(十二月十六日)の記事を読むと、恐らくベルジョイオーゾに向けて出発したのではなく、パヴィアに向かって旅した可能性が強いです。この日の記事の脚注によれば、スタンダールは1820年5月にベルジョイオーゾを訪れたことがある旨書いてあるので、ミラノを離れた日の記事に「ベルジョイオーゾ十二月十四日」と記述したのは、単なる思い出し記述であって、しかも日付等も適当に当てはめて書いたのではなかろうかと思われます。即ちパヴィアに行って数日逗留し、その後そこを出立してからのスタンダールが進んだ道筋を考えると、ベルジョイオーゾはその道筋には無いのです(この点に関しては後日詳述します)

 またミラノからベルジョイオーゾに直行する街道も無く、パヴィアからベルジョイオーゾを見に行ったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

◎(hukkats注1)ダンテ著「神曲煉獄編」第二十歌で、煉獄を遍歴するダンテと ヴェルギリウスは、ユーグ・カペー Hugues Capet(在位 987-996)に出会い、二人の旅人は、この カペー朝の創始者から、彼の後の歴代のフランス国王に対する毒舌に満ちた概説を聞かされる。 これはとりも直さず、著者であるダンテのユーグ・カペーの血統全体に対する、不信の表明なのです。

 

◎(hukkats注2)アレサンドロ・マンゾーニ(1785~1873)はミラノ生まれの詩人、作家。『いいなずけ』は、我が国でも文庫化までされており、『神曲』に並ぶイタリア民族の代表文学とも謂われる。

 

◎(hukkats注3)

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」は当時のイタリアでは有名な悲劇の物語で、ダンテは『神曲』の中でそれに関して詠っています。シルヴィオ・ペッリコは1800年代初頭に悲劇として書き下ろして上演もされていたことをスタンダールは述べているのです。その後多くの芸術家たちにより作品として描かれていました。シェフェール、そしてチャイコフスキー作曲の幻想曲等々。サヴェリオ・メルカダンテ作曲のオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』 (1831年))は現代でも時々上演されます。観たことがあります。

 

(脚注)マンゾーニのオッドの中でも、ナポレオン死去の知らせを聞いて1821年に作られた『五月五日』にスタンダールは感激している。

 

 ところでこのところコロナ感染の勢いは収まるどころか、益々急拡大しています。今日はサントリーホールから家に公演中止の葉書が来ていました。正月元旦の「ニューイアーコンサート」です。ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団の公演でしたが、残念です。ウィーンフィルの場合の様にはいかなかったのですね。もっとも新聞の論調によれば、ウィーンフィルだけ特別扱いしたのは如何がなものかという論説もありました。いろんな意見があるのですね。