HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅰ-4

《Ⅰ.テューダー朝④》

    38年に及ぶヘンリー8世の治世も、1547年の彼の56歳での死と共に終焉し、エドワード王太子が即位しました。エドワード6世(在位)の誕生です。

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エドワード6世

 エドワードはヘンリー8世の三番目の妻ジェーン・シーモアの子供です。彼女は産後の肥立ちが悪くて、12日後に感染症で亡くなったのでした。エドワードはヘンリー8世が46歳の時の子供で、僅か10歳で即位したのでした。しかし在位期間は短く1553年までの6年間でした。1553年に風邪で亡くなったそうですが、コロナの様な強毒性の風邪ではないでしょうね。普通の風邪でも、当時の医療技術のレヴェルでは最善を尽くしても、子供が助からない例は多かったのでしょう(まさか毒殺の様な暗殺ではないでしょうから)。

 エドワードの後継者としては、王位承継者として指名されていた遠戚のレディ・ジェーン・グレイが即位しました(正式にはクィ-ン・ジェーン)。

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レディ・ジェーン・グレイ

 彼女はヘンリー8世の末の妹メアリーの孫に当たります。

王位継承は基本的に王に最も近い男系でなされることになっていましたが、該当する男子がいない場合は例外的に女子が指名を受けたのです。この時代、テューダー一族には男子の子孫がエドワード6世しかいなかったのです(ヘンリー8世の最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女エリザベス・ブラントが産んだ庶子ベッシー・ブラントことヘンリー・フィッツロイ(後の初代リッチモンド公爵)も男の子ですが、婚外子であるため王位継承権はありませんでした)。順番から言えば、キャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリーの方が、ヘンリー8世に近い血筋で、年もレディ・ジェーン・グレイより上なので、継承権がある筈なのです(実際ヘンリー8世はメアリーをエドワードの次の承継順位に考えていました)

 しかし彼女はスペインから嫁いだ母の影響でカトリック教徒だったので、熱心なプロテスタントだったエドワード6世は、というより彼の側近たち(特に摂政である叔父のサマセット公他)は、せっかく教皇と断絶し国教会を設立して推進しようとしていた矢先なので、カトリック教の勢力を嫌っていて、さらにはサマセット公の政敵ウォリック伯がサマセット公を引きずり下ろしノーサンバランド公になってからは、プロテスタントだったレディ・ジェーンをかつぎ出し、挙句に自分の息子をジェーンと結婚させ外戚とならんと企んだのです。

 しかしクィーン・ジェーンは僅か9日間しか王座に座れなかった。というのも、危険を察知したキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリーはいち早く逃亡し、誰が見ても王位承継の優先度の高いが故に、メアリーを擁立する勢力が強くなって行き、スペインの後押しもあって、ジェーン女王の守るロンドンを攻め落とし、政権奪取に成功したのです。クィーン・ジェーンはロンドン塔に幽閉、翌年の1554年2月にノーサンバランド勢ともども断頭台の露と消えたのでした。こういった経緯があって、レディ・ジェーンと俗称されるのですが、正式には女王の扱いがされてしかるべきです。(現在の英国王室は女王として認めています。この展覧会でレディ云々と呼称しているのは、その肖像画のタイトルによるものと思われます。)

 我こそは正当な後継者と意気込むメアリーは、1553年にメアリー1世として即位しました。

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メアリー1世

 即位するとすぐに彼女は、エドワード6世時代の宗教改革関係の法律を廃止し、翌年には後のスペイン王フィリップ2世と正式に結婚してカトリック的政策を一層推進したのでした。

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フェリペ2世

 1554年には異端焚火刑法を復活し、ヘンリー8世時代の宗教改革関連法は廃止、教皇と和解して旧教を復活させました。そしてイングランド国教会派、新教派に対して迫害を加え血の弾圧(女性や子供も含む数百人が処刑されたとも謂われる)を続けたのです。「Bloody Mary(血まみれのメアリー)」と陰口を囁かれる程でした。

 メアリー1世の肖像画を見ると、かなり苦労したがそれを乗り越えた強い意思の持ち主だと直感します。1516年に生まれてからずっと父王ヘンンリーの寵愛を受けて育った王女メアリーは16歳の時、1533年に母が正式に(イングランド方式での意味ですが)ヘンリーから離縁されると女王に就いたアン・ブーリンから冷遇を受けるのです。世継ぎの身分どころか王女の身分まではく奪されて庶子とされ、アン女王にエリザベスが誕生すると、その侍女にされ、事実上の幽閉状態で命の危険にまで晒らされたのでした。父王ヘンリーは知らぬ顔だったそうです。感じやすい青春の時を、どんなにか恐ろしい思いで過ごしたことでしょう。ヘンリーはアン女王に思いのまま操られていたのかも知れません。何と“愛は盲目”なのでしょうか。

 このメアリーの逆境もアン女王が反逆罪(実際は姦通の罪他)で処刑されるとすぐに相当程度改善されたのでした。アン処刑のその日にヘンリー王は娘のメアリーに会い、次の妻、ジェーン・シーモア(後のエドワード6世の母)のとりなしもあって、王はメアリーとある程度和解するのです。以前の侍女や居城などの財産が戻され、王女や王位承継権は未だ復活されませんでしたが、ヘンリー8世はメアリーをジェーン王妃不在時の宮廷の「女主人」として扱うようになっていたといいます。そしてヘンリー8世が死去してエドワード6世が王位につくと、熱心な新教徒であったエドワードからメアリーはカトリック教の信仰を放棄するように求められましたがそれを拒否し、宮廷には顔を出さなくなったのでした。そして短いエドワード6世の御代が終わり、先にも述べた王位継承の争いが発生したのでした。