HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『スタンダール『イタリア旅日記(1827年版)』精読(遅読)32-1

《パヴィア十二月十六日①》

 12月14日にミラノを発ったスタンダールは、パヴィアに着き、その道筋に関して、次の様に述べています。

“ミラノからここまで、横断する土地はヨーロッパでもっとも豊かだ。たえず流水の運河が見られ、これが土地に肥沃さをもたらしている。船の通れる運河に沿って行くが、運河を通って船でミラノからヴェネツィア、或いはアメリカにまでも行くことが出来る。しかししばしば、真昼間に泥棒に呼び止められる。オーストリアの専制政治は泥棒を撲滅する手立てを知らない。村ごとに一人の憲兵(を置くこと)で充分なのだ。異常な出費(金遣い)を見つけたら、ただちにこう尋ねればよい。何処でその金を稼いだか。”

 この当時は、ナポレオンのイタリア支配が終わり、ウィーン体制によりオーストリアが支配権を及ぼしていた地域があったのです。

 治安が良くないことを嘆いています。

 ポー川とティチーノ川が近いこの地域は運河も発達していて、ナポレオンの時代に完成されたパヴェーゼ運河は、ミラノとパヴィアを水路で結んでいます。

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パヴィアの水路

スタンダールは、この運河に沿って陸路を進んだのでしょう。

 ”僕はパヴィアについて何も言わないことにする。これについては、諸君はどれでも描写好みの旅行者の叙述を見られたい。(パヴィア大学の)立派な博物学の陳列室について二十ページも諸君にぶつけないことを感謝したまえ。”

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パヴィア大学

パヴィア大学は1361年設立で、古い歴史と伝統のある大学です。博物学、物理学、解剖学(医学)など自然科学系が特に盛んな大学です。スタンダールは次の様に続けています。

”結局、証明されるものだけを相手にする賢明な科学に僕はあまり向いていないので、パヴィアの陳列室については、『レスビアへの招待』という名前で知られている叙述ほどに、今日僕を楽しませてくれたものは何もなかった。その著者は、モンティが十九世紀の生んだもっとも美しい韻文でその死を描き、その名を永遠に留めたあのロレンツォ・マスケローニである。幾何学者マスケローニの次の詩句は、僕がパヴィアからの手紙に日付を入れる以上、諸君に対して義務として書かなければならないちょっとした叙述を、僕よりもずっとうまく果たしてくれるであろう。”と書いて次の詩を紹介しています。

《抜粋》

Quanto nell'Alpe e nelle aeree rupi  Natura metalifera nasconde

Quanto respira in aria, e quanto guizza negli acquosi regni

Ti fia schierato all'ochio:inricchi scrigni

Con avveduta man l'ordin dispose

Di tre regni le spogli.Imita il ferro

Crisoliti e rubin;spirizza dal sasso

Il liquido mercrio;arde funesto

L'arsenico traluce ai sguardi avari

Dalla sabbia nativa il pallid'oro.

 

《hukkats訳》

アルプスや空気が澄んで見える崖に、どれほどの金属質の自然が隠れているのか 

空気の中でどれだけ呼吸し、土の中でどれだけ呼吸するのか

そして 水を含む領域でどれだけ煌めくのだろうか

君は、気の利いた者が並べた高価なひつぎを目にする

残っていた三つの領域の裸石を処分する様求められる。

即ち、やけどする程まで熱っせられた淡い金色の自然砂の中の

液体水銀とヒ素から噴出する結石、

即ち金緑石、ルビー、鉄類似石を

  いかにも自然科学者の読んだ歌の感じ、冶金学の用語まで使っています。

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マスケローニ

 この歌を詠んだマスケローニについて調べると以下の様でした。 

Lorenzo Mascheroni

1750年5月13日 - 1800年7月14日は、イタリア数学者である。彼は1750年に、イタリアのロンバルディア州ベルガモに生まれた。彼はパヴィア大学を出て、数学教授になったが、幼少期から人文科学ギリシャ語)にも興味を持っていた。 

1790年に発表した「Adnotationes ad calculum integrale Euleri」で彼は、オイラー・マスケローニ定数の計算を発表し、その定数を初めてγと表した。(レオンハルト・オイラーはCを使っていた。)

彼は、1797年に執筆した「La Geometria del Compasso」で、定規とコンパスによる作図は、コンパスだけでもできることを証明した。しかし、この結果は1672年デンマークゲオルグ・モールが著書の「Euclides Danicus」で証明を示唆しており、現在も『モール-マスケローニの定理』として幾何学で知られている。

また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行)やイタリア韻文詩も多数うたい、詩人としても高い評価を得た。1800年にパヴィアで亡くなった。