HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅱ-1

《Ⅱステュアート朝①》

 エリザベス1世の死によって、スコットランド王のジェイムズ6世(スコットランド女王メアリーとヘンリー・ステュアートとの子)が、1603年にエリザベス1世が亡くなるとすぐに、イングランド王位をも承継しジェイムズ1世を名乗りました。

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ジェイムズ1世

 複数のエリザベスの承継可能性を有する縁戚がおったのですが、ジェイムズがエリザベスの生前に忠誠を誓ったりしたのが功を奏したのか、女王が危篤になると、イングランド国王秘書官長はジェイムズ6世に万一の場合、イングランド王として王位継承することを事前に知らせ、その筋書き通りになったのでした。特に即位に反対する反乱や別な継承者を擁立する動きは表面だって無かったのです。このことは、「テューダー朝」の終焉と「ステュアート朝」のスタートを意味しました。

 スコットランドとイングランドは異なる議会と異なる政府を持つのですが、君主である王は共通するという特殊な「王冠連合」の形態をとりました。

 ジェームズ1世は当初エリザベス体制を尊重し議会とも協調路線を取ったのですが、次第に議会と対立する様になり。特に国家財政のひっ迫は、議会の了解を超えるものでした。これは、彼が1589年スコットランド王時代に結婚したデンマークのフレデリック2世の娘、アン・オブ・デンマークが大きな原因の一つでした。

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アン王妃(アン・オブ・デンマーク)

彼女は「お祭り好きの浪費家」と悪口を謂われる程金遣いが荒く、また子供が多かったため宮廷費も嵩み、倹約家のエリザベス1世時代とは比べ物にならない程、国家財政が悪化したのでした。(アン王妃の功績は、イングランドでの様々な文化の興隆に寄与したことだという見方もあります。) またジェイムズ1世はスコットランド時代から「王権神授説」を信奉し、自らそれに関する論文まで書き、議会にも認めさせようとしますが、議会は「社会契約説」を引用しまた「Comon Lawの理論」で対抗しましました。