<ミラノ十一月十二日>の続き③
前々回も書いた通り、この日(ミラノ十一月十二日)の記事は、6ページ以上に渡っているので分けて見ていますが、その続きです。前回、スタンダールは、多くの桟敷の中で最も好ましいと考えるニーナ・ヴィガノ夫人の桟敷に出入りしていると述べましたが、それについてさらに次の様に言っています。
“僕はスカラ座で出し物のない唯一の日である金曜日に、この愛想よい人が開く夜会に欠席しないよう気をつけている。一時頃、もう八人ないし十人しかいなくなると、いつも誰かしら、1790年頃のヴェネツィアの風俗についてとても陽気な逸話を語る人がいる。” 当時のスカラ座では、金曜日は舞台は無いのに、桟敷(長期契約)は開いていたのでしょうかね?それとも、スカラ座内の別の部屋で夜会が模様されていたのでしょうか?
”ヴェネツィアはおそらく、1740年から1796年まで、世界でもっとも幸福な都市であり、今日でもまだ、ヨーロッパの残りの部分と北アメリカを陰鬱にしている封建的で迷信的なくだらなさを一番免れている。……”
以下ヴェネツアでは、政治的に権威や圧政による支配の無いこと、明るい雰囲気だということなどの状況を褒め上げているのです。
“昨日ニーナが僕たちに語ったヴェネツィアの逸話は一巻の書物になることだろう。” と述べたあと、次の様な逸話の一つを挙げています。
「ある夫人が、自分の情夫(外国人)が死刑になるところを、総大司教に頼み込んで、刑場に運ばれる彼を途中で助けてもらうのですが、刑場に運ばれる直前、夫人の別な愛人が、その外国人にピストルを擁して釈明を求めに行ったのです。そしたら外国人曰く
‘おやまあ、僕は(刑場に)満足して出発します。ヴェネツィアでいちばんきれいな女性を手にいれましたからね。’ と。ところがその夫人は、あまりきれいでなく、五十歳であったというのです。蓼食う虫も好き好きの類の逸話でしょうか? この逸話でスタンダールは、当時のヴェネツイアでは、市民間の訴訟、裁判はお粗末で、刑事裁判は皆無だったことを言いたかったみたいです。
“ある愚劣なことが、ヴェネツィアで明るみに出るやいなや、翌日には二十ものソネットができた。愛想のいいニーナはそれらを暗記して覚えているが、彼女は本気でたのまれるとき以外は、それらを朗読してくれない”
このことは、ソネットなどが今の社会だったらツイッターなどの類いによる一種の世論形成的役割と同じ効果、愚劣行為に対する制裁、またその抑制として働いていたのかも知れません。