《Ⅱステュアート朝④》
王政復古で即位したチャールズ2世は、即位前の「ブレダ宣言」を一部反故にし、王殺しの首謀者12人を処刑し、埋葬されたクロムウェルの死体を発掘して死体を絞首刑にし、首をはねて24年間さらし首にしました。その他大勢のものが投獄追放、罰金の刑に処せられたのです。革命時に騎士の土地を直接購入した新所有者は権利を認められましたが、革命政府に没収された国王、国教会、騎士の土地を格安で購入していた騎士達、新土地所有者の土地は無償で奪還されたため、彼らクロムウェル軍の将校たちは、没落の憂き目にあいました。王政復古と言っても旧秩序の復活ではなく、議会の力は強いものがありましたが、チャールズ2世は次第に反動的施策を推進するのです。加うるに王はフランス亡命時からカトリック教を信奉し、英議会の国教会派と対立、王位継承者を誰にするかの意見の対立も絡んで、議会にトーリー党とウィッグ党と呼ばれる党派が形成されました。これが二大政党の始まりだと謂われます。
チャールズの愛人は多くて、例えば、エレオノール・ネル・グィンは、女優であり、彼女は二人の庶子まで生みました。
しかし正妻との間に嫡子は生まれず、憲法上の王位相続人は王弟であるヨーク公ジェイムズでした。
1685年にチャールズ2世が亡くなり、ヨーク公がジェイムズ2世として即位すると、チャールズの庶子の一人である、モンマス公ジェイムズ・スコットがその半年後に王位継承を宣言してイングランドに上陸、叔父ジェイムズ2世軍と戦いました。このモンマス公はチャールズ2世が亡命中、オランダにやはり清教徒革命で亡命していた愛人ルーシー・オールターとの間に設けた子です。戦いはジェイムズ2世軍の勝利に終わり、モンマス公は処刑されました。ジェイムズ2世は反乱側の350人を絞首刑に、800人以上を流刑に処したと謂われます。勢いに乗ったジェイムズ2世は自身が熱心なカトリック教徒であったため国教会派を圧迫し、様々な反動政策を推し進めました。この様な暴政は国民の間に激しい反感と恐怖を呼び起こし、貴族、ジェントリー、聖職者、法律家、商工業者、農民、軍人等ほとんどの階級の人心はジェイムズから離れ、カトリック教徒でさえ、王の譲歩を求める程でした。王は愛想をつかされ、王の長女メアリーが嫁いでいたオランダのオレンジ公ウィリアムにイングランドに上陸し武力干渉してほしい旨をイングランド議会として要請したのでした。この長女メアリーは、ジェイムズが、共和国時代にフランスに亡命していた折、チャールズ2世の重臣だったクラレンドン伯爵エドワード・ハイドの娘、アン・ハイドと結婚して設けた嫡子でした(妹アンも同腹です)。
尚、ジェイムズは、アン・ハイドの死後の翌々年、モデナ公爵アルフォンソ4世の一人娘、メアリー・オブ・モデナと再婚してます。
さて、国民から愛想をつかされた為政者の末路はいつの世も同じことです。ジェイムズ2世の派遣した軍はウィリアムに投降し、次女のアン王女も議会派のダンビ伯爵に走って、こうしてジェイムズの治世は瓦解し、フランスに再び亡命するのでした。
ウィリアムは妻のメアリーと共に議会の提出した「権利の宣言」を受け入れて署名し、1869年2月、共同統治としてのイングランド王位に共に即位しました。ウィリアム3世とメアリー2世の登場です。
この政権転覆と新政権の誕生は「名誉革命」と称されます。