HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅱ-3

 《Ⅱステュアート朝③》

 イングランド内戦で王党派に勝利したオリヴァー・クロムウェルは、内戦後、強硬策に打って出て、軍事クーデターを敢行し、自派に対立する最大勢力の長老派を議会から全員追放しました。そして残った50数名の議員のみからなる下院ランプ議会を承認し、イングランド共和国の樹立を宣言したのです。このランプ議会が1649年にチャールズ1世の処刑を執行したのでした。 

 共和国の指導者となったクロムウェルは議会の急進派も弾圧、中産階級の擁護者となりました。 一方王党派は処刑されたチャールズ1世の子チャールズを奉じて、アイルランドやスコットランドで王位の回復をはかりましたが、これもクロムウェルによって鎮圧され、チャールズはフランスに逃亡しました。鎮圧後議会派は、国王、国教会、王党派貴族の所有地を没収、これを売却し再配分しました。こうして次第に実権を握ったクロムウェルは1653年護民官に就任、独裁者の道を歩む様になります。1656年に召集された新議会は、独裁者に歯止めをかけるため「王は法律によって制限される」という伝統的Common law の慣習を逆手にとって、護国卿を称していたクロムウェルに王号を奉呈しようとしたのですが、クロムウェル傘下の軍隊はこれを受けることに反対、結局クロムウェルはイングランド王になりませんでした。

 若しここで王になっていれば新しい王朝が誕生し、その後のイングランドの歴史は変わっていたかも知れません。そうこうするうちにクロムウェルの体力も衰え、1658年、流行性の病に斃れて亡くなったのでした。享年59歳でした。

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オリヴァー・クロムウェルのデスマスク

 オリヴァーの跡を継いで護民官に就任したのは、その子リチャード・クロムウェルでした。しかし彼は、軍にも宗教関係にも、議会にも強い基盤が無く、軍の反対に合い1659年に退位させられてしまいました。そして英国史は再び大きく逆転するのでした。   

 翌1660年には、スコットランド軍司令官モンクはロンドン入りし、フランスに亡命していたチャールズ1世の次男(長男は夭折)チャールズと英国帰還の交渉をし、議会の長老派、独立派も満足できる条件であれば王政復古を認める姿勢を示したことにより、同年5月帰国したチャールズは英国王として即位し、ここに王政復古が成立しました。チャールズ2世の登場です。

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チャールズ2世

 チャールズの帰国の前提となった「ブレダ宣言」では、新土地所有者の所有権の確認、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支給保証(革命時しばしば支給が滞ること有り)が宣言され、イングランド議会もこれは受け入れられる内容だったのです。

 この辺りの歴史の皮肉というか、革命に対する揺り戻しの力は、いつでも、どこでも起こり得るのでしょうか?

 フランス革命は細部においては英国とは異なりますが、大局的に見ると同じ様な歴史の歩みが見られないこともない。革命後王政廃止、国王処刑、共和制化、革命派は内部分裂によりそれぞれが追い落とされ間隙を縫ってナポレオンの軍事独裁が成功(ナポレオンは王に就任しましたが)、ナポレオンの没落により王政復古。似ていないことも有りません。

 150年程の時代の違いはありますが、英国のこのピューリタン革命が、フランス革命に影響を及ぼさなかった証拠は無いでしょう。 

 チャールズ2世は即位の2年後の1662年、ポルトガルの王女キャサリンと結婚しました。

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キャサリン王妃

持参金として30万ポンド、タンジールとボンベイを英国にもたらしたと謂われます。

 

 ところで、今日のニュースによると、日本政府は2回目の「緊急事態宣言」の発出を前向きに検討しているそうです。現下の感染状況では当然でしょう。むしろ遅きに失したきらいさえあります。正月休みに入る前だったら効果的だったのにと個人的には思います。

 明日はオーチャードホールで二期会オペラ「サムソンとデリラ」が有り、以前から楽しみにしていたのですが、とても行ける情況に有りません。またチケットはファイル送りです。仕方が無い。