HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅱ-2

《Ⅱステュアート朝②》

    前回触れましたが、ジェイムズ1世は王権神授説を主張「王の権限は神から授けられたもので不可侵あり、神以外に責任は負わない。」と宣言したのに対し、議会は、「Common Lawこそイギリスの古来の理念であり、法律がすべて(議会、王も含む)の上に立つと」反論しました。これを強く主張した法学者で王座裁判所長であったクックは王に罷免されましたが次の王の時も主張は変えませんでした。           しかし王室の財政は議会に認められない位逼迫し、国家財政の危機とも言われ、晩年には健康状態が次第に悪化し、痛風やリューマチ的な症状も出て、発作も起こすなど最後は三日熱というマラリア的疾病で遂に1625年に亡くなりました。享年59歳でした。

 ジェイムズ1世が亡くなると、跡を継いでチャールズ1世を名乗ったチャールズは、ジェイムズ1世がイングランド王位を継ぐ以前、スコットランドのジェイムズ6世時代に妃アン・オブ・デンマークとの間の次男として1600年に生まれていました。

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チャールズ1世

 兄ヘンリー・フレデリックの死去に伴い、1612年にコーンウオール公とロスシー公に、1616年には、プリンス・オブ・ウエールズ(王太子)に叙位されました。これは1603年にイングランド王となったジェイムズが任命したものです。

 即位の3か月後、フランスの亡きアンリ4世の娘で、ルイ13世の妹アンリエッタ・マリアと結婚しました。

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アンリエッタ・マリア

 しかし彼女はカトリック教徒だったため、議会とも対立する様になり、またチャールズも父ジェームズ1世と同様、王権神授説を錦の御旗としたことも反感を買う要因となりました。

 次第にチャールズ1世とイギリス議会の対立は、深刻になっていったため、1628年、イギリス議会は議決を経て、大憲章以来続く自治権の保障を求める「権利の請願」を国王に提出したのです。   これは、先に挙げたクックが中心となって起草したもので、その概要は次の通りです。

 ①何人も議会の制定法に依る同意無しには、如何なる贈与、公債、献金、税金、その他同種の負担をなくし、或いはこれに応ずるよう強制されない。

 ②いかなる自由人も理由を示さずに拘禁又は抑留されない。

 ③国王陛下は、陸海軍兵士を立ち退かせ、陛下の人民は将来かかる重荷をおわされない。

 ④軍法による裁判についての命令書は取り消され、無効とされる。

 これはイギリスにおける人権宣言の走りだとも言われています。その背景には経済的に成功したピューリタンたちが、議会の多数派を占めるようになっていったことがあります。
 ところが、これを国王は一旦認めたもののすぐに無視し、専制政治を続けました。その後スコットランド鎮圧の費用を増税で賄おうと短期議会、長期議会という2つの議会を招集し、長期議会のさなか、王党派と議会派の対立が激化して、1642年イングランド内戦が勃発しました。戦いは議会派が次第に優勢となり、遂には「ピューリタン革命」がおきたのです。チャールズ1世は処刑されてしまい、最終的に議会派が勝利したのでした。     

 これはひとえに王の失政が大きな原因で、王を取り巻く則近の政治的、軍事的失敗もひびきました。スコットランドやアイルランドが反旗を翻し、その鎮圧のための戦費を議会から承認されなくなって、議会とも決定的対立状態に追い込まれていったのが痛かった。もう少し有能な人材を得て王権を主張するばかりの強気姿勢を軟化し、妥協を早い段階でしていれば、内戦は防げたかも知れません。

 こうして逮捕されたチャールズ1世は、一旦は逃走して再度内戦を仕掛けたのでしたが、クロムウェル率いる議会軍に打ち破られ投降し、裁判にかけられた後イングランド王として初めてギロチンにかけられるという惨めな結果となったのでした。

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チャールズ1世の処刑