《Ⅱステュアート朝⑤》
前回、「権利の宣言」を受け入れて、オレンジ公ウィリアムと妻のメアリーが共同統治の王座に就いたことを記しましたが、この「権利の宣言」をもとに1689年12月法律として発布したのが、「権利章典」です。その中身を少し詳しく見てみますと、
①議会の同意なくして、王権に依拠して法律を停止し、また法律の執行を停止せんとすることは不法である。
②議会の同意なくして、大権の名において金を徴収することは不法である。
③議会の同意なくして、平和時に国内に常備軍を募りこれを維持することは不法である。
④新教徒なる人民は法律によって許されたる防衛のため武器を持つことができる。
⑤議員の選挙は自由でなければならない。
⑥過重の保釈金は要求されない。過重の罰金は課せられない。残酷な刑罰は加えられない。
⑦国民の困苦の救済および法律の改正・強化・およびその保持のため、議会はしばしば開かれねばならない。
といった今日の民主国家では当然の原理が、英国で初めて法制化されたのです。その後の条文で、オレンジ公と公紀がこれらを遵守することを確信すること、イングランドの王と女王として宣言することが書かれています。
この様に「権利章典」は立法権、徴税権、軍事権が議会にあるという立憲君主制の基礎を敷いたのでした。
議会は ウィッグ党とトーリー党の二大政党が互いに優劣を競い、本格的な政党政治が開始されました。ウィリアムは機に乗じて両党と結んだり対立したり、かなり上手に議会との関係を築き、当時亡命していたジェイムズ支持の勢力が、フランスと結託してウィリアムに反攻した戦いも乗り切って終結させました。
1694年にメアリー2世は天然痘で没し、以後はウィリアム3世の単独統治となりました。そのウィリアムも1702年信じがたい事故で亡くなってしまったのです。何と宮殿の庭で乗馬中、モグラの穴に足を取られた馬から落ちて、打ち所が悪かったのか重体となり、51歳で死亡したのでした。2人の間には子供がいなかったので、イングランド王位の継承者はメアリーの妹アンと以前から決まっていました。
同年イングランド二人目の女王として即位したアン女王は、実はステュアート朝最後の王となるのです。アン女王の在位期間中は対外戦争、特にフランスとの戦いにあけくれ、戦いはアメリカ大陸の植民地にも及びました。またスペイン王位継承戦争も絡んで、イタリア、オーストリア、ドイツ、オランダ、ポルトガル、イングランド、フランスなど、複雑な利害関係からの国際同盟が互いに競い合い、さながら欧州における世界0次大戦とも言えるのではなかろうかと、個人的には思う程の入り乱れた戦いが行われたのでした。12年間のアン女王の在位期間には、戦争も思う程の結果を得られず、議会制や民主的な制度の発展も見られず、被選挙権や教育の権利などに反動的な動きさえ見られ、はかばかしい功績はなかったのですが、ただ1707年5月に、イングランド・スコットランド両国の合同法が成立し、ジェイムズ1世以来100年余りにわたって同君連合を結んできた両国は、正式に統合されたグレイトブリテン王国になり、アン女王はグレイトブリテン王国最初の君主となったことが大きな足跡と言えるかも知れません。
しかし1714年、アン女王は、脳卒中で倒れそのまま死去したのです。享年49歳でした。 アンは1683年にデンマーク・ノルウェー王フレデリック3世の次男ヨウエン(ジョージ)と結婚していて、ジョージはアンが女王に即位した後は、統治者にはならず「王配」の称号を与えられましたが、二人の間に生存している子供は皆無だったのです。アンは何回も出産を繰返したのですが死産が多く、幼年期まで生きた子が一人だけ、成人に達したケースは一人もいなかったのです。ここにスチュアート朝は断絶し、遠い縁戚の継承者を当てるしか方法が有りませんでした。