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綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅰ-5

《Ⅰ.テューダー朝⑤》

    メアリー1世が、レディー・ジェーン・グレイの勢力に勝ったのは、民衆蜂起によるメアリー支持が大きな要因といわれていますが、その後のメアリー1世による新教徒弾圧により、新教徒がこぞって大陸に亡命する者(これを「メアリー時代の亡命者」と呼ぶ)も少なくなかったのです。

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メアリー1世

 

また多くの反対を押し切ってスペインの王太子フィリッペと結婚したのでしたが、強く反対する勢力は「英国の王座がスペイン王によって乗っ取られる恐れがある」と訴え、反乱まで起こしました(「トマス・ワイアットの乱」1554年)。乱の指導者たちは皆新教徒であり、メアリーの反動的政策に反対し、今は亡きアン・ブーリンの娘、エリザベスをかつぎ出そうとしましたが失敗し、同調する者も多くなく反乱は失敗に終わります。しかしその後各地で一揆や暴動が続き、メアリーの晩年には、議会もメアリーの政策に反対するに至りました。しかし決定的なメアリーの失敗は、スペインの要請で1557年に「対フランス戦争(第6次イタリア戦争)」に参戦し、敗北したことです。1558年には、大陸における唯一の拠点、カレーを失いました。

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カレーの市民(ロダン)古い英仏戦の故事による

カレーのあるフランス、ブルターニュ地方は、歴史を遡れば、英国ノルマン朝の創始者ヘンリー1世(William the Conqueror)の故郷であり、その後のフランス人英国王の心の古里でもありました。そのノルマンディーの英国支配権を、英・仏間の百年戦争で紆余曲折はありましたが、1453年のカスティヨンの戦いでフランス軍に敗北し、港湾都市カレーを除いてすべて失ってしまった、その残った虎の子のカレーをも失ったことは、メアリーにとっては回復せざるべき打撃を味わうことになりました。こうしてメアリー1世の治世は1558年11月、失意のうちに終わりを告げたのでした。

 メアリーの後を継いだのは、エリザベス1世でした。メアリーには子供がいなかったことと、先に夭折したエドワード6世にも子はおらず、その他のテューダー一族は、ヘンリー8世のすぐ下の妹が、スコットランド王ジェイムズ5世に嫁いで女児メアリー・ステュアートを設けてはいましたが皆女の子ばかりで、遠い縁戚に王位継承させることには、レディ・ジェーンの悪例もあるのでなされず、死に際のメアリー1世は後継者としてエリザベスを指名したのです。メアリーは、母を離縁に追いやったアン・ブーリンの子エリザベス、そして一時その侍女にされた屈辱も有り、彼女を終生憎んでいました。死ぬ間際になってのしぶしぶ指名したのだと思われます。

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エリザベス1世

 さて1558年に即位したエリザベス1世の先ず行わなければならないことは、多くの「メアリー時代の亡命者」が続々帰国したため新教徒の勢力が強まり、カトリック教徒との対立が激しくなってきたのを如何に解決するかでした。エリザベスの宗教スタンス

は新教(カルバン派)に近く、カソリック教からの離脱をしていくのです。その手始めに1559年に「国王至上法」と「礼拝統一法」を制定し、国王は英国における世俗ばかりでなく、(ローマ教皇を排した)一切の宗教上、教会上の事項においても唯一最高の統治者であること、聖職者は祈祷や聖礼典執行の際、エドワード6世(新教徒)の1552年の祈祷書を用いるべきことなどを命じたのです。こうしてイギリス国教会は新教的ではあるが、カトリック教的主教制度即ち女王の下に大主教、主教、副主教、司祭長・司祭といった階級制を樹立したのです。謂わば新教的な国教会を穏健に推進して、新教派、級教徒派いずれからも過激な攻撃を受けにくい体制を築き上げて行ったのでした。そうしてエリザベスは父ヘンリー8世が手掛けた絶対王権の強化を益々推進していったのです。従来の英王室には見られない程なかなか頭がいいやり方ですね。そう言えば母アン・ブーリンの肖像も一目で利発な人と分かります。

しかしすべて順調だったかというとそうとばかりはいかず、先の「国王至上法「礼拝統一法」に対して宣誓を求められたカトリック聖職者のうち高位聖職者は1名を除いて全員拒否、下位聖職者は大部分が宣誓し結果平信徒も国教会に承認を与えたのです。従ってこれはエリザベスの勝利に見えますが、内情はそう簡単ではなく、カトリック信仰は、貴族、ジェントルマン(郷紳)、学者、聖職者、詩人などの間の支持が未だ以て衰えず、政治的発言権も大きかったのです。それに地域的な問題つまり南部、東南部、中央部(ミッドランド)では新教派が強くなったのに対し、北部にはカトリック勢力が強く残り、後の災いの元となるのです。また外国勢力(特にフランス、スペイン、ローマ教会)がイングランドの宗教的推移を固唾を飲んで見守っており、隙あらば指を突っ込もうと身構えていたのでした。

   そうした中発生したのが「メアリー問題」でした。このメアリーとはここで初めて英王国史に大きくかかわって来る「メアリー・ステュアート(1542~1587)」の事です。

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メアリー・ステュアート

  メアリーは母がフランスカトリック教徒の守護者ギーズ公フランソワの妹で、父はスコットランド王ジェイムズ5世でしたが、父はメアリー誕生から6日後に病気で亡くなりました。享年30歳、メアリーの母は幼子のメアリーを急遽スコットランド女王に就位させ(メアリー1世)アラン伯が摂政となったのでした。これは実家の仏ギーズ家の強力な後押しがあったからこそ出来た事です。メアリーはイングランドのエドワード6世が王太子だった頃ヘンリー8世により、婚約させられましたが後これは破棄、サマセット公のスコットランド攻撃にアラン伯が立ち向かうも敗北したため、メアリーは安全なフランスのアンリ2世の元に逃がされたのでした。6歳の出来事でした。フランス宮廷での生活はメアリーは順調でアンリ2世は16歳になったメアリーを14歳の王太子フランソワ(1544~1560)と結婚させたのでした。

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仏王フランソア2世とメアリー王妃

 同年にイングランドでエリザベスが女王に即位したという報に接するとアンリ2世は、“庶子のエリザベスには王位継承権は無くメアリーこそ正当なイングランド王位継承者である”と抗議したのです。エリザベスの心中は如何程だったでしょうか?

その後、アンリ2世が無くなって王太子フランソワが王位を継ぎフランソワ2世となり、メアリーはフランス王妃となったのでした。

しかしそれも長続きせず、1560年持病があったフランソワ2世が亡くなり、子供もいなかったメアリーは1562年にスコットランドに帰国し、政治顧問を付けてスコットランド女王として新政を執る様になったのです。当然気持ちとしてはスコットランドのみならずイングランド女王であると思っていたことでしょう。様々な人との再婚の話はズートあったのですが何れも成立せず、結局1565年にカトリック教徒の従弟ダーンリ卿ヘンリーと再婚しました。ヘンリー卿はヘンリー7世のひ孫マーガレットの子で、この結婚により、メアリーのイングランド女王継承権はより強まったと言えるでしょう。当然エリザベス1世はしかしこの結婚は悲劇に終わり、結果ヘンリーはボスウェル伯に殺されてしまいメアリーはこの暗殺者と再再婚した二でした。メアリーは愛想をつかしていた夫のヘンリーをボスウェル伯(恋人?)に殺させたのでしょうか?何かイタリア的呪いさえ感じます。というのは、初婚のフランス王フランソワの母は、伊フレンツェ、メディティ家からフランス王室に輿入れしたカトリーヌ・ド・メディティだったのです。彼女は何につけて暗いイメージが付きまといますね。聖バーソロミューの虐殺然り、その他毒に関する悪い噂もありました。いずれにせよスコットランドの貴族たちはメアリー女王を問い詰め口撃し、ついには女王を幽閉さえしたため、命の危険を感じたメアリーは王位をヘンリーとの間に設けた子ジェームズ6世に譲位してイングランドに逃れたのでした。

 イングランドでは虎視眈々とエリザベス1世がメアリーの没落を待っていた訳ですから、’飛んで火にいる夏の虫’です。メアリーはエリザベスに幽閉され、1583年、スペイン軍の援助でエリザベスを倒すという陰謀にメアリーが加担したとして、遂にギロチンにかけられたのでした。享年45歳でした。

フランスとイングランドそしてスコットランドの狭き国際問題・国際情勢に翻弄されついには非業の死をとげるメアリー・ステュアートの物語は「マリー・アントワネット」等で有名なウィーンの伝記作家ツヴァイクが素晴らしい表現で書いています。若い時読んで感銘を受けた記憶があります。 

    エリザベス1世によるメアリーの処刑はカトリック諸国に衝撃を与え、スペインのフィリップ2世は、無敵艦隊をイギリスに向かわせました。これを迎え撃ったエリザベスは、英軍が防御陣を敷いているテムズ河口のティルベリに自ら赴き、兵士の面前で、兵士を信頼し鼓舞する演説をしたのでした(ティルベリ演説)。1588年英国海軍により大打撃を受けた無敵艦隊は壊滅状態となって敗走、ここにエリザベス1世はイングランドの絶対王政を確立したのでした。同時にこの絶対王朝最高潮の時期に、様々な批判が議会において為される様になり、その中心となったのは清教徒(ピューリタン)でした。

 ピューリタンは、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループで、後世市民革命の担い手となるのです。

 エリザベスは議会の様々な反対の動きをあの手この手で封じ、45年に渡る長期政権を維持しましたが、遂に1603年、うつ病からの病に斃れ、死去するのです。子のいなかったエリザベスの後継者は、上記メアリー・ステュアートの子、スコットランド王ジェイムズ1世が指名されました。こうしてテューダー王朝は終わりを迎えるのです。

 ところで、テューダー王朝の最後を飾る女王たちの今回の肖像画は、我々素人が見てもそれなりに、なる程とかどうしてと感じるところが有りますが、たまたま知り合いの人相見の専門家にどこの誰とも言わず予見を与えないで、メアリー1世、エリザベス1世、メアリー・ステュアートの三人の肖像画を見せた処、以下の様なコメントを得ました。

       ①メアリー1世

  • 親戚、家族に恵まれない。
  • クール
  • 庶民的資質あり
  • 頑固
  • 薄情ではないが情に流されない
  • 頭がいい、天才的
  • 視野が広い
  • 晩年運さみしい

 

  ②エリザベス1世

  • 冷酷
  • 広範な見方できる
  • 家族縁が薄い
  • プライドが非常に高い
  • 愛情に恵まれない
  • 愛を与えるより受けたい方
  • 頑固

 

    ③メアリー・ステュアート

   ●   純情でない

  • 財(材)に恵まれる
  • プライドが高い
  • 一徹
  • 子供運に恵まれる
  • 上品
  • 聡明
  • 不運がつきまとう

以上、成程と思うところもあればそうかな?と思うところもありますが、概ね言い当てていますね。逆に科学的に考えると、人相にそれまでの人生の影響がにじみ出ていてそれがその後の推定が可能となる要素なのでしょうか?