HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『チョムスキー対談』散読

 これはインタビューアー、吉成真由美が、10年ほど前にノーム・チョムスキーをはじめとする6人の米国の“世界的叡智”、ジャレド・ダイアモンド(カルフォルニア大ロスアンゼルス校教授、ピューリッツアー賞受賞)、オリバー・サックス(コロンビア大学メディカルセンター教授)マーヴィン・ミンスキー(MIT AI研究所教授、AI研究の草分け)トム・レートン(MIT応用数学科教授、アルゴリズムの権威)ジェイムズ・ワトソン(元ハーバード大教授、ノーベル賞受賞)を取材し、訊いた話を「知の逆転」という本に纏めて出版された中から、チョムスキーのインタビューの部分を抜粋したものです。

 チョムスキーは、言語学では世界的な業績を誇る権威の一人ですが、哲学者および政治活動家でもあります。各界から世界で最も引っ張りだこの学者かも知れません。

 「言語」は日々言語を、特に記述言語を使用している者にとっては関心が強い訳ですが、今月初め、フランスの言語学者ミシェル・フーコーの著作を読んで、「20世紀では、新たな権力、新たな管理システムが発展しつつあり、・・・」という主張に同感したのでした(参考まで、その記事を文末に再掲します)。その際、フーコーがチョムスキーと対談しているということを知り、それに関し出版されている本があるかサーチしたのですが、分からなくてペンディングになっていたのでした。たまたまチョムスキーに吉成嬢がインタビューをした時の本が、書棚にあったのを思い出して読み始めた訳です。

 この本でチョムスキーは「言語学」については多くは語っていませんが(最後に音楽との関係で言語についての考えを披露している)、財政赤字について、中国の台頭について、米帝国主義について、科学と宗教について、教育についてなど広い分野に関するインタビューに答えています。

 インタビューを行った吉成真由美は、元NHK職員。突然の辞職後渡米し、MIT及びハーバードで脳科学を学び、その後エッセイ執筆などの活動をしているジャーナリストといっても良い女性です。ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進氏の二人目の奥様になりました。

 さてチョムスキーは、「資本主義」に関しての質問に対し、“社会主義とかの区別は今では意味がない。(資本主義の牙城と謂われる)米国でさえも、民間部門は政府部門の資金で成り立っており、過去の幾多の危機でも、政府の援助を受けて持ちこたえている。”と答えています。これは最近のダウ平均株価のコロナ大暴落に対してFRBが長期国債の購入を通した民間への資金供給や、政策金利の引き下げなどの施策もこれに当たります。”唯一市場原理でやってきた金融システムも、その欠陥、即ち市場原理の「負の外部性」を考慮しないが故に、リーマンショックのような金融危機も起こった”と語り、(もちろんコロナについては語っていません)このままの企業形態では立ち行かないと言います。

 また米国の赤字の正体は、“半分が軍事費によるもの、半分がヘルスケアプログラム部分のものであり、オバマケアによっても、重要な問題、例えば薬価決定の問題、医療事務に保険会社の保険が絡む複雑かつ厖大化したシステムは何ら改善されなかった。これらが医療の高コスト化の元凶です”と言います。この話を聞くと、トランプ大統領は軍事費の海外国負担増や、オバマケアの白紙撤回により赤字を削減しようとしていますが、チョムスキーの理論から言えば、まったく真逆のやり方に他ならず、生産性向上、コスト低減に逆行する施策だと言わざるを得ないでしょう。

 中国については、チョムスキーは少し過小評価している様です。今日の中国の躍進を見たら、発言を一部修正せざるを得ないでしょう。

 その他幾多の質問に多くを答えているのですが、割愛して先を急ぎましょう。

 一番興味深かったのが、「言語が先か音楽が先か」というテーマの議論です。吉成嬢の「言語、音楽、アートの起源についてどう考えるか」との問いに対して“これに関して緻密で正確な議論は、元ハーバード大学教授リチャード・ルオンティンのものしかない。

それは、“約5万年前小さな人間のグループが東アフリカを出て全世界に拡散した、その時以来人間の認識能力は進化していない”ことを、パプアニューギニアの子供と所謂文明国の子供を比較して、何ら差はないということや、原住民の子供をボストンで育てれば同じように能力を発揮するという例を挙げて説明しています。確かフランスのヌベルバーグ映画の旗手、フランソワ・トリュフォー監督の作品に『野生の少年』というのがあったと思います。これなぞ原住民を育てるのではないですが、能力には誰も差がない、時間の差だということに気が付けさせられる映画だと思いました。

 さらにチョムスキーは、“5万年前の大移動のきっかけが、人間の想像力の突然(といっても万年オーダーでの「突然」だと思いますが、)の大躍進にあった、それが言語の出現だ”“音楽も言語の副産物の可能性が高い”と述べるのです。

 この辺りのチョムスキー主張になると、何となくそうかなとも思えるのですが、一方、京都大学のチンパンジーの研究によって明らかにされつつある(言語ではないですが、鳴き声の変化他による)コミュニケーション能力、鳥のさえずりによるコミュニケーションなどなどそれらを言語の一種と考えれば、“言語が人間のみに本来備わった能力”というチョムスキーの説に完全に同意することが難しいかな?という気もします。

 演劇、オペラなどにおける言語以外の魅力、「言外の表現、表情、目つき、手ぶり、身振り」の重要性は「言語さん」も知っているはずですよ。パントマイム、手話の存在も抜きには語れないでしょう。

 それにしても、チョムスキーの専門外の発言、特に政治的発言の反響、影響力の大きさを考えるとまさに「知の巨人」と言って良いと思います。

    

≪再掲≫ 

M.フーコー著『言語表現の秩序』について 2020.3.6.付hukkats 記事

 ミシェル・フーコー(1926年~1984年)は、フランスの哲学者・言語学者でポスト構造主義者に分類される。その思想は簡単に一言では言え表せないですが、「20世紀では新たな権力、新たな管理システムが発展しつつあり、これに個人の倫理を発展させて対抗する必要がある」と主張していたことは注目すべき点で、58歳でエイズにより亡くなったフーコーが、30数年後の現代の一面を見通していたとも言えます。フーコーは新たな管理システム形態の一つとして「福祉国家」を念頭に置いていますが、むしろ最近では、急速なコンピューターの発展に伴う管理システム、ネット社会の出現、特に“GAFA”と呼ばれる巨大情報企業による、個人情報のみならず公共情報の独占と利用に対し、各国から懸念の声と対抗処置が相次いで発せられています。「新たな管理システム、大きな権力」の出現です。しかしフーコーのいう“個人の倫理を発展させて対抗する”レベルには至っていません。個人はネット社会で相当程度発言、自己主張出来る手段を持っているのだから、倫理観を民衆レベルで磨き上げ、力を集中して管理されることに対抗する必要が有るのではないでしょうか。
 ところで表題の『言語表現の秩序』は、フーコーがその理論が社会的に認められ、1970年仏コレージュ・ド・フランス(パリ・カルチェ・ラタンにある世界最高レベルと目される学術研究機関)の教授に招聘され、その就任初講義録を纏めて刊行されたものです。そこでは、言説(discours:言語で表現する種々のアクション、例えば、話、講演、講義、言語著作etc.)の構造を解析的に分析し、三つの外因的原理により統御され境界線で区分される事、さらに内因的原理として①「注釈」②「希少化」③「語る主体の希少化」をあげた。

 ③の説明で興味深いことに、フーコーは日本の事を逸話として紹介しています。引用すると“17世紀のはじめ、将軍は、ヨーロッパ人の(航海、交易、政治、軍事的技術についての)優越が、その数学知識に負っているということを聞き、かくも貴重な知(サヴォワール)を手に入れようと望むことになります。彼は、この世にも不思議な言説の秘密を握っている一人のイギリス人の船員を自分の居城に呼びよせ引き留めました。将軍は直々に進講を受け、数学を知り、事実力を保持し、長寿を全うしたのでした。日本人の数学者が出たのはその後、19世紀になってからの事です。・・・この船員、ウイリアム・アダムズが独学で、即ち一人の大工だった者が、船大工として一人前に働くために、幾何学を学んだのでした。この物語のうちにヨーロッパ文化の大いなる神話の一つの表現をみるべきではないでしょうか。東洋の専制の独占された、秘密の知に対して、ヨーロッパは、知識の普遍的な伝達や言説の無制限で自由な交換を対置していると言えましょう”  また②の説明に「作者」に関する興味深い部分があるので引用します。“(希少化の原理)は作者にかかわるものであります。作者といっても勿論、或るテキストを述べたり書いたりした個人を意味するものではありません。言説の集合原理としての、それらの意味作用の統一体或いは起源としての、それらの一貫性の中心としての作者のことであります---われわれのまわりには至るところに多くの言説があり、それらは人がそれらを帰する作者における意味や有効性とは関係なしに、流通するのであります”。
 ネット社会で自分がブログに「hukkats」名でアップした後は、それが独り歩きし、自分の意図するところとは関係なく流通してしまうのかなと思うと、益々言語表現の重要性を感じるのです。フーコーの時代にネット社会はまだ存在せず、若し彼が現代に生きていたら何と言うでありましょう。
 この本でフーコーが展開する理論に対しては訳者、中村雄二郎氏が詳細な論評をしているので省きますが、一つだけ、フーコーがこの初講義をした当時のフランス、特にパリの状況について述べますと、その前々年に1968年のいわゆる「五月危機」が起き、学生と労働者のゼネストによる反体制運動を、賃上げの要求に対する「グルネル協定」の締結、国民議会の解散総選挙で乗りきったドゴール大統領は、危機の鎮静化に成功した。
 しかしその後も危機の影響は、各方面に大きな影響を及ぼし、大学では学生の自発的なアイデアのディスカッションを授業で行ったり、学生による自治権、教育制度の民主化などが制度化されたりしたのです。そうした流れの中での70年、フーコーの教授招聘はそこで学ぶ者だけでなく、パリ中の関心ある学徒の注目と期待の中で行われたのでした。講義の教室は満杯で隣接の教室にテレビモニターが置かれ、そこも続々集まる聴衆で教壇から外の道路までびっしり埋まったというのですから、その人気ぶりが窺えます。なおフーコーは日本にも来ており、また米国の言語学者チョムスキーとの対談も行っています。