もともと節句は「季節の節目となる日」のことを言いい、奈良時代頃に中国から伝えられた「陰陽五行説」が由来とされています。古くから年中行事を行う節目とされてきました。
中国から伝来した当初はたくさんの種類がありましたが、日本の文化や生活と混ざり合うなかで少しずつ減少していきます。そして江戸時代になり、幕府が特に重要な以下の節句を公式の祝日に制定したことが、現代に伝わる「五節句」のルーツとなるのです。
・1月7日・・・人日の節句(七草の節句)
・3月3日・・・上巳の節句(桃の節句)
・5月5日・・・端午の節句(菖蒲の節句)
・7月7日・・・七夕の節句(星まつり)
・9月9日・・・重陽の節句(菊の節句)
五節句すべてに「奇数が重なる日」が選ばれており、これは陰陽五行説においては「奇数=陽(発展)、偶数=陰(不安定)」と理解され、奇数同士を足して偶数になる日は「陽から転じて陰になりやすい」と解釈されていたことから邪気を祓うための行事を行ったことがもともとの理由です。
五節句に関しては、平安時代の「枕草子」にも記載が有ります(いつも「枕草紙」ばかり引用しますが、この草紙程年間の当時の催事を記述し、季節感が良く表現されている散文は他に類を見ないからです)。
《枕草子第10段》
❝正月一日、三月三日は、いとうららかなる。五月五日は、くもりくらしたる。七月七日は、くもりくらして、夕がたは晴れたる空に、月いとあかく、星の数もみえたる。九月九日はあかつきがたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつしの香ももてはやされて、つとめてはやみにたれど、なほくもりて、ややもせば、ふりおちぬべくみえたるもをかし。❞
江戸時代には、正月一日でなく、正月七日を節句の一つに定めたのですね。上記❝うつしの香❞とは文字通り香りを移したのです。真綿を広げたもの(袋状のものを両手で簡単に広げられます。ちぎれないのです。)を、咲いている菊の花にかぶせ、それが雨、露に濡れると菊のかほりが綿に移るのです。これを「菊の着せ綿」と称し、その露を皮膚に付けて無病息災を願ったという訳です。きっと、匂い消しの意味もあったのでしょう。(平安時代には入浴の習慣も現代の香水も無かったのでしょうから)今で言う「コスメ」の一種ですよ。当時の貴族・公卿たちはお香を炊いたりして匂い消しをしていた。その慣習は、現代の香道において『伏籠手前』として残っています。(香道の幾つかの流派の中でも「直心流」のみやっている模様)。薫物を薫いた香炉に大きめの籠を伏せて置き、その籠に着物をかけて香りを移すのです。
『重陽の節句』は、現代生活では殆ど忘れかけられていて、歴書の「雑節」にもリストアップされていません。これは、別名が「菊の節句」とも言われた様に菊の花と密接なイメージがあるのですが、旧暦の9月9日の頃が本来の季節なのに対し、現在は新暦ですから、まだ菊の季節になっていないため、時節に合わず忘れ去られたものと思われます。