HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ストラビンスキー『音楽の詩学』散読

 三連休に入って溜まっていた疲れが出たのか、昨日やや頭痛がして古い虫歯まで痛み出したので、終日家にいて静養していました。その間、かなりの期間「積ん読く」状態だった、ストラビンスキー著「音楽の詩学」笠羽映子訳(未来社)をしばらくぶりで読みました。これはストラビンスキー一家が、第一次大戦とロシア革命から避難してフランスに移り住み、妻が結核で亡くなった1939年春、米国ハーバード大学からの招聘を受け、同年4月に招聘を受諾して渡米して、詩学講座の招聘教授に就任した時の講義録とも言えるものです。
 読んでいると、ストラビンスキーの授業を実際に受けて、本人の言葉を聴いている様な錯覚に捉われる程、臨場感に溢れた記述となっています。講義は六回に分けたLessonから成り、①Lesson1は「初めに…就任初講」、②Lesson2「音楽現象について」、③Lesson3「作曲について」、④Lesson4「音楽類型学」、⑤Lesson5「ロシア音楽の変化」、そして最終回⑥Lesson6は「演奏について/エピローグ」です。
 ① で特に印象的だったのは、グノーを例として挙げ、「ファウスト」を作曲し初演し
た頃(ストラビンスキーの講義時の70年も前)、聴衆のみならず批評家たちはグノーの旋律的創意の受け入れを拒み、“その作品は近代のフランス或いはイタリア学派の特徴でなくドイツ学派の特徴をとどめている(「ミュンヘン新報」誌評)”旨の主張をしていること、それはグノーが“ベートーベンの晩年の弦楽四重奏曲のいくつかの劣悪化した部分に感嘆している。これこそ近代ドイツの(いくつか)の音楽家たち、リスト、ヴァーグナー、シューマン、(メンデルスゾーンもまた幾つかの曖昧な様式において)たちの近代ドイツの出発点となった不純な源泉であるが、これに感嘆している(「二つの世界」誌評)”ことなどをストラビンスキーが説明している点です。このことに関しては、次の②でも“聴衆はその旋律の魅力を受け付けず、その独創性に冷淡で鈍感だったということに驚いた”と記している。これは私にとって初耳というか不思議な気がしました。あのオペラ「ファウスト」が当初、聴衆などに旋律の魅力を受け入れられなく批判されていたとは。昨年9月に英国ロイヤルオペラ来日公演の「ファウスト」を聞いた時、主役他の素晴らしい歌声に又オーケストラの輝く演奏に、これまで感じていた以上に旋律の魅力を感じたものです。ファウストの「Demeure chaste et pure」の伸びやかな歌声、これは素晴らしい旋律ではないですか。十分魅力的ですよね。(その時書いた「ファウスト速報」を参考まで文末に再掲して置きます。)
 私見によれば、このストラビンスキーの発言は、彼の「春の祭典」を初演した時の聴衆の大混乱、賛同派、拒絶派の乱闘にまで発展したという当時の状況と、この曲の新規性、独創性が認められない、或いは「革命的」とまで評価する極端な論評に対して、グノーを引き合いに出して、自分の本意とはかけ離れた状況であり、真に理解されるのには時間がかかることを説明したかったのだと思います。
 又ついでに②の最後では、“ヴァーグナーおよび彼が引き起こした疾風怒涛(Sturm und Drang)の威力以上にそうした凋落をうまく示しているものはありませんが、ヴァーグナーが彼の創作活動において確立したその凋落は、彼の後も明白になり続けました。ヴァーグナーの死後50年経っても(即ち1930年代でも)、人々が音楽劇の雑然とした堆積や騒音に打ちのめされているほど、凄まじいエネルギーできわめて重要な音楽形式を打ち破ったのですから、この人物(ヴァーグナー)はよほど強かったとしか考えられません。”とも述べています。漠然とした表現ですが、含蓄のある言葉だと思います。
③ でもストラビンスキーはヴァーグナーの影響がヴェルディにまで密かに及んでい
ることを見抜き又“ヴェルディが手回しオルガンの領域に押しやられる一方でヴァーグナーに典型的革命家を見て尊敬していたのです”と嘆いています。さらに④でも“ドビュッシーは(ヴァーグナーの)「四部作」は自分にとって巨大な音楽電話帳の様に思われる”、“『神々の黄昏』の上演に居あわせる新参者を、エンパイア・ステート・ビルディングの上でニューヨークの地図を広げつつ方角を見定めようとしている観光客の一人に似せて、あれらのガイドブックは何の役に立つのかと私は尋ねるでしょう”とアイロニーを込めて話しています。まさに同感ですね。
 ⑤ ではロシアとりわけソ連体制になってからの音楽の在り方を批判し、最後に“ロ
シアの歴史的なよろめきは、眩暈を覚えさせほど私を狼狽させますが、ロシアの音楽芸術の展望もまた私をとまどわせます。というのも、芸術は文化(教養・啓発)、熟成(育成)知性(理解力)の完全な安定を前提としますが、今日(1930年代)のロシアはいまだかってなかったほど、そうしたものを欠いているからです”と喝破しています。これは90年後の今日をも見通していたのかなと思わずにはいられません。
 最終講義⑥『演奏について』を聴いて、まさに正鵠を得る言葉として、“どこかで私は、音楽を聴くだけでは不十分で、さらに音楽を見る必要があるといいました。”といっているのを、自分と同じ考えだなと思いました。
 以上ストラビンスキーの思想に触れる著作は初めて読みましたが、その人となりと音楽のみならず広く深い知識と思考力を兼ね備えた音楽家であると見直す、いい機会となりました。

 

 

≪再掲≫
『英国ロイヤルオペラ』hukkats | 2019年9月13日 (金) 00時43分
① 『ファウスト』速報・・・【グリゴーロ好調!エンジン全開!!】
 東京文化会館での初日を観てきました(2019.9.12.18:30~22:00)。ファウスト役グリゴーロは、パヴァロッティの後継者という人もいる前評判通り、好調の歌を披露し、観衆のやんやの喝采を浴びました。最初の見せ処、第3幕の独唱Cavatine(カヴァティーナ)「Demeure chaste et pure(この清らかな住まい)」では、伸びやかなグリゴーロらしいリリックテノールの歌声が会場一杯に広がり、一瞬の静寂の後に大きな拍手と歓声が会場に響き渡った。 マルガリート役のソレンセン(Sp)は有名な第3幕のアリア「Il était un roi de Thulé (トゥーレの王様がいた)<トゥーレの王様の歌>」の他「宝石の歌」「若しや私が小鳥なら」等の有名な曲たちを、無難に歌い終わりましたが、若干伸びやかさが足りないかな?と思った。第5幕ラストシーンでマルグリートに、「Viens viens,Margueite (逃げよう)」と必死に語り掛けるファウストとの二重唱では、絶望の感情が切々と滲みるソレンセンの歌い振りは尻上がりに調子が出てグリゴーロに負けない強さがありました。まだ若いですし、主役の場数を踏めば踏む程うまくなるに違いない。一方、メフィストフィレスは全体を通しての舞台登場率が高く、その出来不出来はオペラの成否に大きく影響します。今回のメフィスト役、ダルカンジェロ(Bs)は第2幕で、「Le veau d'or est toujours debout!(金の子牛はいつも立っている)<金の子牛のロンド>」を不気味さを秘めた力強さで歌いました。堅実なBsと見ました。グノーのこのオペラではその他の登場人物にも、素晴らしいアリアでの活躍場面が割り振られています。 マルガリートの兄のヴァランタンは第2幕でアリア「Avant de quitter ces lieux(国を離れる前に」を歌いますが、ヴァランタン役のデグー(Br)は妹一人残して出征する気持ちに憂いを込めながら、堂々としかも端正な声で歌いあげました。出来が良かったので拍手をしようかなと思った瞬間、オケの音がなり始まり出来ませんでした(同じ様なケースが、先週の『ランスへの旅』でもあった)。第3幕冒頭でジーベルの「Faites lui mes avex…Fleurs écloses près d'elle(彼女に伝えて…を、彼女の近くの花達<花の歌>)」を、ボーリアン(Ms)が 歌いましたが、如何にもフランス風という感じが少し弱かったかな?意識してシャンソン風にやや速いテンポで歌ってみては如何が。
その他合唱もオーケストラもまとまりが良く活躍していました。特に帰還した兵士達のコーラスは、管弦楽も良く知られている曲がバックなので、相当迫力を感じました。
尚、特筆すべきは、各幕の場面の演出に、バレエや舞踊を多用していることです。さすがバレエ団を抱える来日公演、綺麗なバレエを見る楽しみが、歌を聴く楽しみを倍加したような気がしました。
 概要は以上ですが、詳細は後日にします。