今年(2024年)も恒例の『東京春祭』が始まりました。上野の東京文化会館を始めとする会場で、今日3月15日から4月21日まで開かれます。スタートを切ったのは、ウィーン・ビアノ界の大御所、ルドルフ・ブッフビンダーによる、べートーヴェン・ソナタ全曲演奏会の第1日目でした。ブッフビンダーの来日演奏は、コロナー流行時以降、二年に渡り演奏会が中止になり、その都度残念ながら払い戻しを受けました。コロナ・パンデミックがかなり下火になった今日、彼の来日公演をやっと聞ける日が来たことは、本当にうれしい限りです。
【日時】2024.3.15. [金] 19:00〜
【会場】東京文化会館 小ホール
【出演】ピアノ:ルドルフ・ブッフビンダー
〈Profile〉
1946年、当時のチェコスロバキア、ボヘミア地方リトムニェジツェにドイツ系の家庭に生まれる。
5歳でウィーン国立音楽大学に入学して8歳でマスタークラスを履修し、同大学の最年少記録を打ち立てる。9歳で最初の公開演奏会を開いた。1966年にヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにおいて特別賞を獲得した。
当初はとりわけ室内楽演奏に携わった。1961年には、ウィーン三重奏団の一員としてミュンヘン国際音楽コンクールで第1位となっており、今日までに、ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団などの優れたオーケストラや指揮者と共演を重ねている。録音数は200曲以上にのぼり、1976年にはフランツ・ヨーゼフ・ハイドンのピアノ曲全曲録音によってグランプリ・デュ・ディスクを受賞した。
レパートリーは幅広く、古典派やロマン派のほかに、20世紀音楽にまでわたっているが、とりわけベートーヴェンの専門家として名高い。
世界中でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏を60回以上行っている。「ディアベリのワルツ」やヨハン・シュトラウスのワルツの編曲集など、企画力や発想力の高さを披露するとともに、ヴィルトゥオーゾとしての華麗な実力を発揮したものもある。
余暇の趣味は読書や絵を描くことだという。
【曲目】
ベートーヴェン作曲
①ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 op.2-1
②ピアノ・ソナタ 第10番 ト長調 op.14-2
③ピアノ・ソナタ 第13番 変ホ長調 op.27-1
④ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 op.7
⑤ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 op.27-2 《月光》
【べートーヴェンのピアノ・ソナタとは?】
ベートーヴェン(1770-1827)の番号付ソナタは全生涯に渡って32曲が創作されました。 前期が作品2-1から作品26までの12曲、中期が作品27から作品90までの15曲、後期が作品101、106、109、110、111の5曲と一般的に分類されていています。しかし近年の研究により、前期以前のボン時代の作品を加えて、四期に分類される様になって来ています。
全ピアノソナタ (34曲)
[ボン期 ] 2曲
○3つのピアノ・ソナタ(「選帝侯ソナタ」) WoO.47
作曲年:1782 総演奏時間:32分00秒
○やさしいソナタ(一部消失) WoO.51
調:ハ長調 作曲年:1794 総演奏時間:6分38秒
[前期]12曲
①ピアノ・ソナタ 第1番 Op.2-1ヘ短調 作曲年1793 総演奏時間約17分00秒
②ピアノ・ソナタ 第2番 Op.2-2イ長調 作曲年:1794 総演奏時間約23分30秒
③ピアノ・ソナタ 第3番 Op.2-3ハ長調 作曲年:1793 総演奏時間約26分30秒
④ピアノ・ソナタ 第4番 Op.7変ホ長調 作曲年:1796 総演奏時間約31分30秒
⑤ピアノ・ソナタ 第5番 Op.10-1ハ短調 作曲年:1795 総演奏時間約17分30秒
⑥ピアノ・ソナタ 第6番 Op.10-2ヘ長調 作曲年:1796 総演奏時間約16分30秒
⑦ピアノ・ソナタ 第7番 Op.10-3ニ長調 作曲年:1797 総演奏時間約23分30秒
⑧ピアノ・ソナタ 第8番「悲愴」 Op.13ハ短調 作曲年:1797 総演奏時間約18分00秒
⑨ピアノ・ソナタ 第9番 Op.14-1ホ長調 作曲年:1798 総演奏時間約14分30秒
⑩ピアノ・ソナタ 第10番 Op.14-2ト長調 作曲年:1799 総演奏時間約17分00秒
⑪ピアノ・ソナタ 第11番 Op.22変ロ長調 作曲年:1800 総演奏時間約24分30秒
⑫ピアノ・ソナタ 第12番 「葬送」 Op.26変イ長調 作曲年:1800 総演奏時間約9分30秒
[中期]15曲
⑬ピアノ・ソナタ 第13番 Op.27-1変ホ長調 作曲年:1800 総演奏時間約15分30秒
⑭ピアノ・ソナタ 第14番 「月光」 Op.27-2 嬰ハ短調 作曲年:1801 総演奏時間約16分30秒
⑮ピアノ・ソナタ 第15番 「田園」 Op.28 ニ長調 作曲年:1801 総演奏時間約25分00秒
⑯ピアノ・ソナタ 第16番 Op.31-1 ト長調 作曲年:1802 総演奏時間約23分30秒
⑰ピアノ・ソナタ 第17番「テンペスト」 Op.31-2 ニ短調 作曲年:1802 総演奏時間約24分30秒
⑱ピアノ・ソナタ 第18番 Op.31-3 変ホ長調 作曲年:1802 総演奏時間約22分30秒
⑲ピアノ・ソナタ 第19番 Op.49-1 ト短調 作曲年:1797 総演奏時間約8分00秒
⑳ピアノ・ソナタ 第20番 Op.49-2ト長調 作曲年:1795 総演奏時間約8分00秒
㉑ピアノ・ソナタ 第21番「ワルトシュタイン」 Op.53ハ長調 作曲年:1803 総演奏時間約24分30秒
㉒ピアノ・ソナタ 第22番 Op.54 ヘ長調 作曲年:1804 総演奏時間約10分30秒
㉓ピアノ・ソナタ 第23番「熱情」 Op.57 ヘ短調 作曲年:1804 総演奏時間約22分00秒
㉔ピアノ・ソナタ 第24番「テレーゼ」 Op.78嬰ヘ長調 作曲年:1809 総演奏時間約10分00秒
㉕ピアノ・ソナタ 第25番 Op.79 ト長調 作曲年:1809 総演奏時間約8分30秒
㉖ピアノ・ソナタ 第26番「告別」 Op.81a変ホ長調 作曲年:1809 総演奏時間約15分30秒
㉗ピアノ・ソナタ 第27番 Op.90 ホ短調 作曲年:1814 総演奏時間約12分30秒
[後期]5曲
㉘ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ 第28番Op.101 イ長調 作曲年1816 総演奏時間約19分00秒
㉙ピアノ・ソナタ 第29番「ハンマークラヴーア」Op.106 変ロ長調 作曲年:1817 総演奏時間約41分30秒
㉚ピアノ・ソナタ 第30番 Op.109 ホ長調 作曲年:1820 総演奏時間約20分30秒
㉛ピアノ・ソナタ 第31番 Op.110 変イ長調 作曲年:1821 総演奏時間約18分30秒
㉜ピアノ・ソナタ 第32番 Op.111 ハ短調 作曲年:1821 総演奏時間約26分30秒
今回第1回目のプログラムは、上記【曲目】にある様に、1番.10番.13番.4番.14番.の5曲で、前期から4曲、中期から1曲が、選曲されました。
【演奏の模様】
今回選曲されたソナタのうち、前期の1番、4番、13番の三曲は全四楽章構成。前期の10番と中期の14番「月光」の二曲は、全三楽章構成です。
①Sonata for Piano No.1 in F minor op.2-1
I. Allegro
II. Adagio 4w, watte,
III. Menuetto: Allegretto
IV. Prestissimo
②Sonata for Piano No.10 in G major op.14-2
I. Allegro
II. Andante
III. Scherzo: Allegro assai
③Sonata for Piano No.13 in E-flat major Op.27-1
I. Andante
II. Allegro molto e vivace
III. Adagio con espressione
IV. Allegro vivace
(Intermission)
④Sonata for Piano No.4 in E-flat major Op.7
Ⅰ.Allegro molto e con brio
II. Largo, con gran espressione
III. Allegro
IV. Rondo: Poco allegretto e grazioso
⑤Sonata for Piano No.14 in C-sharp minor op.27-2 "Mondschein"
I . Adagio sostenuto
II. Allegretto
III. Presto agitato
先ず、①ピアノ・ソナタ 第1番を弾き始めたブッフビンダーは、歯切れ良い指使いで軽快に弾き出しました。かなりの速さ、もうそれこそ何百回ともなくこれまで弾いて来た足跡が音の端々に感じられます。勿論曲を推進するエンジンは快調に回転し出した様子です。
この1番の曲はベートーヴェンがウィーンに行き、上昇気流に乗り始めた頃の最初の作品で、モーツァルトの影響も感じられる旋律は、新鮮な春を迎える気持ちで聞くと、その後のベートーヴェンの発展をかいま見れる気がしないでも有りません。しかしその後の大発展した後のベートーヴェンのソナタ群に比し、正直言って幼い感じを受けることも確かで、これまで色々な演奏会や録音で聞いて来て、それ程魅力が詰まっている曲とは思えませんでした。ところがです、今回のブッフビンダーの演奏を聴いて、それが完全に誤りであることに気が付いたのでした。一楽章から二楽章、三楽章と進むにつれ、彼は何と曲の魅力的な味を引き出して料理し、お客に出してくるのだろう!素晴らしくいい曲に聞こえてしまうのでした。後期のソナタにも負けない様な力強いパッセッジ表現も有り、強中弱有り、速中遅有り、デュナーミク、アゴーギクが無理なく表現され、曲に生き生きと表情を付けていきます。これらの楽章がこんなに素晴らしく聞こえるとは・・・。フーテンの寅さんでないけれど ❝驚き、桃の木、山椒の木❞です。
それが①の1番の曲のみならず、次の②ピアノソナタ10番、③ピアノソナタ13番に至っても同じ印象を受けたのでした。
《20分の休憩》
後半再開は丁度20時を回った頃でした。先ず4番のソナタから。今日はこの曲を期待して聞きに来ました。というのもこれまでの経験上、4番の三楽章と四楽章が美しい旋律に乗って演奏されることが多かったからです。
落ち着き払って弾き出したブッフビンダー、 第一楽章は、同音連打の伴奏上に奏される高音のテーマ旋律が綺麗に響き始めました。シンコペーションや跳躍音が変化を呼び起こし、かなりの速い強打鍵も上行、下行の響きにマッチしていました。ここでも自分が思っていた以上に素敵な響きを持った楽章に変貌した演奏でした。二楽章もその線上でスローではありますが、随分と印象の良い味が有りしっとりとした音楽となって発せられていた。いつもだと聞き飛ばす訳ではないですが、その良さを余り感じない印象深くない二つの楽章なのに、こんなにも良いと感じるとは。一体どういう弾き方をしているのですか?(鍵盤は見えない席でした)
さて件(くだん)の三楽章と四楽章です。旋律はいつも聴いているのと同じですが、相当速い演奏です。アクセントの付け方、テンポの変化具合でやや印象が違って聞こえました。特に後半の両手の分散和音の掛け合いがほんの僅かだけ(恐らく意図に)ずれて聞こえるのは譜面には無い「フーガ的技法」なのでしょうか?繰り返し部は極端な速さ等は少し修正されて演奏されましたが、それでもこれまで聴いて頭に残っているイメージよりは速いスピードで弾き終わりました。
続く四楽章は軽やかな旋律を相当力を押さえて弾いていました。それでも後半部の強打部はテンポを急上昇させ煌めくばかりの左右の旋律の掛け合いを演じ、繰り返すテーマを最後に修飾音を交えながら、如何にもベートーヴェンらしい旋律を綺麗に響かせて了としました。
今回の演奏では頭にあったイメージしていたものとかなり違った演奏も有りましたが、全体としては流石と思わせる達人の為せる技を感じました。
最終演奏曲は⑤の月光です。これ程巷間良く知られた曲は無い程と言えるものをブッフビンダーはどの様に演奏するのだろうか?興味深々。
一楽章adajio sostenutoの演奏は、①から④までの曲程、これまでの経験した一楽章からかけ離れたものでは有りませんでした。ゆったりした演奏は、その陰に力を留めている感は有りましたが。
そうですね煌々と光る月、しかし雲間に見え隠れする春月のイメージでしょうか? 演奏を聴いていると ❝月は隈なきをのみ見るものかは❞ ❝花は盛りにのみ見るものかは❞ と言った言葉を思い出します。
この第一楽章の演奏とは対照的に、可憐とも言える第二楽章を経て三楽章に進むと、ブッフビンダーはここをこれまでに聴いたことが無い位の激しさでPresto agitatoを弾き切ったのでした。
もともとのタイトルは『幻想曲風ソナタ』ですから、この辺の響きのイメージを、自分なりに想像しますと、❝月の光は急激に湧いてくる暗雲に襲われ、雲は次第に強風のもと流れを急速に速め、風は雲を、雲は風を次々と呼び起こして月の光は、もはや今や消え去る寸前で、風前の灯(ともしび)となった。
無理やり『月光』のイメージを曲の調べと結びつける妄想でした。
風前の灯は、ベートーヴェンの身上の出来事だったかも知れませんが。
今回の演奏を聴いて、頭にあってイメージしていたものとは、かなり違った演奏も有りましたが、全体としては流石と思わせる演奏が多く、達人の為せる技を感じました。
曲が進むにつれて大きくなる拍手に応えて、本演奏終了後にアンコール演奏が一曲行われました。マイクを取ったブッフビンダーが ❝No.3. Scherzo.❞ と宣言して弾き出したのは、
ベートーヴェン『ピアノソナタ第18番変ホ長調Op.31-3』から第2楽章Scherzo: Allegretto vivace
でした。
この演奏は、今回の曲達の響きとは大分かけ離れたものでした。それもその筈、この曲は「狩」という異名もある程ですから。
ブッフビンダーが何故この曲をアンコール曲としたかは不明です。よもやバックハウスのことを思い出していたのではないでしょうね。