HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『弥生美術館』鑑賞

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【美術館について】

 弥生美術館(やよいびじゅつかん)は、東京都文京区弥生にある、弁護士・鹿野琢見によって1984年6月に創設された私立美術館。鹿野琢見が収集した戦前の叙情挿画家高畠華宵および竹久夢二の作品等の出版美術コレクションを基にしており、高畠の作品をはじめとする明治・大正・昭和の挿絵画家によるレトロ・浪漫な作品が蒐集・展示されている。企画展が年4回(3か月毎)に1階および2階のフロアで実施されており、3階フロアは高畠華宵作品の常設展示室となっている。

初代館長は竹久不二彦(竹久夢二の次男)が務めていた[1]。2023年現在、琢見の次女の[2]「服部聖子」が館長を務めている。

1990年には同創設者により隣接する竹久夢二美術館が開設され、夢二作品は同館で展示されている。両美術館は内部に連絡通路があり行き来ができ、入館券で弥生美術館と竹久夢二美術館の両方を観覧できる。

姉妹館に立原道造記念館があった(2011年2月で閉館)。

2009年12月21日には皇后が来館し、「創刊100周年記念 日本で最も愛された少女雑誌『少女の友』展」を観覧した。

2016年2月、『日本の妖美 橘小夢展』により、日本アート評価保存協会から「第3回秀逸企画賞」を受賞した。

 

【主催者】

🔘企画展『秘密の銘仙ものがたり展』

 本展では、銘仙蒐集家・研究家である桐生正子氏の約600点のコレクションから選び抜いた約60点の銘仙を紹介。着物スタイリストの大野らふ氏のコーディネートでお届けします。

 今回は、「銘仙でみるgirl’s History」をテーマとして、100年前の女学生文化は新しいことの連続、ささやかな闘いの歴史です。伝統的な日本の価値観に西洋の文化や考え方が流入してきた時代。そんな過渡期に生まれた若い女性たちのカルチャーを、銘仙を通してひもといてゆきます。

「企画協力」Ponia-pon・Nasu Meisen Lab.

「助成」公益財団法人  花王 芸術・科学財団 

「会期」2023年9月30日(土)~12月24日(日)
「開館時間」10:00~17:00(最終入館16:30)「休館日」月曜日 ただし、10/9(月・祝) 開館、翌10日(火) 休館、
 11/14日(火) は、中間展示替えのため臨時休館

「ギャラリートーク」
◇着物スタイリスト 大野らふ氏

・10/21(土)14:00~14:40
・12/9(土)14:00~14:40

◇銘仙蒐集家・研究家 桐生正子氏

・11/4(土)14:00~14:40 

*いずれも事前申し込み不要、要入館料

「書籍展示・販売」
「大正の夢 秘密の銘仙ものがたり 桐生正子着物コレクション」大野らふ+桐生正子著  河出書房新社 2021年

 

〈展示替えを行います〉
前期 (9月30日~11月12日)、後期 (11月15日~12月24日)で展示替えを行います。

詳細はこちら

*11月14日(火)は展示替えのため臨時休館。

 

【概要】

 先日、文京区弥生にある『竹久夢二美術館』を訪れた際、同美術館と同じビルに入っている『弥生美術館』も駆け足でしたが、ざっと見ました。同じビルに入っていると言うよりも、同じ建物で二つの美術館が棲み分けている、と言った方が正確かも知れない。実際、両者は入口は、別々に有りますが、外に出なくても、建物内に往き来出来る通路があるのです。『竹久夢二美術館』は、常設展示でしたが、『弥生美術館』の方は、企画展をやっていました。それが、上記した『秘密の銘仙ものがたり展』でした。 この展示は、主として、大正期に流行した、着物生地の一つである[銘仙(めいせん)]に、スポットライトを当て、主に女性の着物に利用された例を、各種の柄で作られた和服を集めて展示したものです。以下その例をピックアップして示します。

 

〈展示例〉

🔘コーディネートでの登場はこの展覧会が初めて。自動車や汽車などクールな柄の帯でモガらしい装い。(コーディネート:大野らふ 撮影:上林徳寛)

 

弥生美術館展のために、追加コーディネートとして用意したうちのひとつ。蝶々柄の銘仙にチューリップ柄の名古屋帯を合わせてガーリッシュに。小物も凝ったので、ぜひ会場で見てほしい。(コーディネート:大野らふ 撮影:上林徳寛)
 

新作の銘仙を着て歩く女給さんたちを見て、街の人たちはその年の流行を知った、という。女給さんが好んだ大胆な幾何学文様。(コーディネート:大野らふ 撮影:上林徳寛)
市松格子に孔雀羽の柄の銘仙は明るく、きりっとした雰囲気。紺の袴を合わせて女学生の装いをコーディネート。教科書や筆記用具などを入れた籐の文箱を風呂敷に包んで通学した。(コーディネート:大野らふ 撮影:上林徳寛)

 

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その他多くの展示品があったので以下にそれらを含む全写真を掲載して置きました。


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【感想】
 和服は現代では、特殊な例を除き普段着としては用いられていません。しかし日本人の心底には、和服に対してノスタルジーを感じる人も少なくありません。この企画展の ❝銘仙❞とは布地の種類の一つで、以下の通りです。

 本来は、上物の絹織物には不向きな、屑や玉繭(2頭以上のが1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東養蚕・絹織物地帯(後述)で多くつくられ、銘仙の着物大正から昭和初期にかけて大流行した

伊勢崎秩父に始まり、これに、足利八王子桐生を加えた5か所が五大産地とされている

柄は従来の和風のものにとどまらず、アールデコキュビズムなど西洋芸術の影響を受けたものも多い。銘仙の生産や流通は洋装化により衰退してはいるものの、図柄の文化的・美術的価値は高く評価されており、足利市立美術館イタリアの首都ローマで展示会が開かれたこともある

 

「銘仙」という言葉は、初めて聞く言葉でなく、小さい時(多分小学校就学前)に、時々耳にしたのです。それは母親が何か布地を膝の上に置きながら、近所のお茶飲み友達とお喋りしていた時の話に出ていた言葉でした。

 母は和服をよく着ていた記憶があります。

今考えると、銘仙で着物を造る話をしていたのだと思います。そう言えば時々大きな洗濯板(現代では見ることも聞くことも無い滅びた道具)の様な板に布を張って天日に干していました。「洗い張り」をしていたのですね。それで着物を再生させていたのでしょう。❝銘仙❞という言葉は、自分の記憶の中では成長と共に「安物の生地」という思い込みがあって、母の着物の事はすっかり忘れていました。でも今回の展示品を見たり色々調べて、絹織物の一種で丈夫であり、比較的リーズナブルな価格で入手出来たので、その後の柄染技術の発達もあって、人気の和服素材になったのだと知りました。

 現代では、機能性の意味からも、日常生活に和服を用いるのは不可能に近いかと思いますが、少なくとも時間的余裕がある時、気分転換したい時、或いは特別な機会の時(例えば気の置けない友人との会合、コンサートを聴きに行く時等々)に和服姿になれば、思わぬいい効果があるかも知れません。

 でもはっきり言って、和服は夏は夏物でも着ると暑いし、冬は寒く、特に足元が寒くて、動きもやや不自由だし、実はこういう自分でさえ、昔揃えた和服も、形見分けの和服も、身に着けることは滅多になく、特にここ10年程は一度も着る機会が有りませんでした。家の上さんも然り、何枚もの結構いい着物を持っていても、タンスから出すことは数年に一回の虫干し位、着ている姿など見たこと有りません。いや見たことがある、あれはいつだったかな?親戚の結婚式で和服で正装をしていたのを見ました。それから随分久しいですね。

 これを機会に、出来るだけ和装するチャンスを見極めて、努力しようという気になりました。