昨日(10/7土)は久し振りの好天に恵まれ、暑すぎず寒くはなく、関東地方は秋空が広がりました。これは最近に無いチャンスとばかり、東京湯島界隈に足を運びました。横浜から東京駅まで直行、山手線に乗り換えて御徒町駅下車です。電車内は、最近外国人が増えたのかよく見掛けます。御徒町からアメ横に寄ったら、最近に無いと思われる程の人出で、特に外国人が多い。東・南アジアの言葉は、全然知りませんが、話している言葉の口調で、何となくこの人達は、ベトナム人?いやタイ人?はたまたインドネシア?若い人達が多かった。中国人と韓国人はその口調でそれと分かります。
昔は、アメ横と言えば、魚介類や肉類の店が軒を連ねていたのですが、今では非常に少なくなってしまいました。その代わり飲食店が、特に観光客向けの店が多くなりました。
特にこの三差路というか分岐路の近くには晦日には、数の子やすじこや荒巻鮭を売る店が多く、買い求める人々でごった返し、大賑わいだったものです。この交差点の(北から見て)右側にはかっては今は無い、しにせのパチンコ屋が有りました。若い時にこの界隈に来た時は、必ずと言って良い程入って打ったものです。ところがある時、隣の隣のお客が突然大声で叫び、男が一人、店から飛び出て逃げたのです。客はその後を走って追いかけ、ほんの数十秒後には店に戻って来ましたが、❝逃げられた。財布をほおり投げたので、それを拾った隙に逃走してしまった❞と、びっくりした客たちに聞こえる様な声で言っていました。財布の中は空っぽだったそうです。丁度腰のポケットに財布を入れていて、ボタンを付けてなかったらしい。遊びに夢中になっている隙に、ポケットから少しはみ出た財布を瞬間で引き抜いた模様。プロのスリでした。それ以来アメ横に来た時は、特に人込みを歩く時、そういった輩が必ずいると思って用心深くなったものです。
ついそんな昔のことを思い出してしまいました。
今日の演奏会場の「旧岩崎邸庭園」はアメ横から湯島方面に行った本郷寄りの所にあります。情報によると、その謂われの概要は次の様です。
旧岩崎邸庭園は、江戸時代の大名庭園から、明治時代初期に旧舞鶴藩主の牧野弼成邸となり、西郷隆盛の部下である桐野利秋の邸宅となり、明治11年(1878年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が屋敷を構え、そして岩崎久弥と引き継がれた。この様に管理者が変わったため、岩崎家の当時の庭がどうであったか、図面資料が無く不明な点が多く、そのため、栗野隆は解明するために岩崎家の関係者に聞いたり文献などによって、当時の庭園の状況を分析して推定復原図を作成した[3]。復原図によると、当時の庭園の規模がどうだったかや、弥太郎が造営した庭園の構成を基本として、久弥は洋館の完成後、洋館廻りを洋風芝庭に改造し、和館に廻りに書院風の庭園が増設したことが判明した。
古河庭園、六義園に並ぶようなこの大庭園と豪邸に、昔は大名や三菱財閥の総師が居住していたのです。多くは長い年月のうちに失われたそうですが、今でも東京駅を造ったコンドルの設計という洋館が残っている、貴重な文化遺産なのです。
入口は池之端方面に近い所にありました。30分程前に着いたら、入り口の入館チケット売り場は行列になっていました。天気もいいし、滅多にないコンサートなので興味ある人も多いのでしょう。
入口から庭園までのアプローチは両側に石垣が続く幅広い道となっていて、しばし歩くと、建物と緑の庭が目に入って来ました。
流石コンドルの設計、この洋館は装飾性が強く、内外装とも全体のスタイルや装飾は英国17世紀のジャコビアン様式を基調として、南面のベランダにはコンドルが得意としたコロニアル様式を設えた堂々とした建物です。
本館の近くにはこれまた古風な木造の家屋が有りました。
そばには何の木でしょう?灌木が植えられていて、地面には木の実が落ちていました。
こんなに大きい大木も有ります。楠の木かな?
- スイスの山小屋風の板倉造りの木造建築物は、中にビリヤードをする、撞球室が有りました。
- 演奏会場の洋館の1階ベランダ前の芝庭には、既に数十人の観客が芝生の上に腰を下ろして開演を待っていました。
時間となって、建物の前のベランダに登場したのは。若い二人のお嬢さん、今日はチェロのアンサンブル(DUO)です。
演奏会の概要は次の通りです。
家には手ぶらで帰れないので、上さんには湯島の和菓子屋で、これも有名な最中を買って帰りました。とても良い日でした。