HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

明日(9/20水)は、秋彼岸の入りです

 彼岸は雑節の一つで年に二度あります。歴書によれば、「春分・秋分の日の前後七日間を彼岸と称し、秋彼岸は新暦九月二十日頃から二十六日頃までの七日間になります。彼岸の入から数えて四日目を彼岸の中日(秋分の日)と称します。 この彼岸の期間中は、祖先の御霊を供養し、墓参りなどが行こなわれます。」とあります。

 よく「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、この格言もここ数年少し合わなくなってきていると思っていました。さらに今年の夏は8月に入る前から暑く、この猛暑は9月に入ってからも猛威を振っています。通常の「残暑」どころでは有りません。従って昨今の状況は「暑さ寒さも彼岸越え」と言った方が良いかも知れない(尤も次の冬の寒さがどこまで続くかに依りますが)。

 でもその内に確実に秋は到来するでしょう。恐らく急ぎ足にやって来てそそくさと去ってしまうでしょう。秋の野原を満喫できないかも知れません。まして秋の七草を全部見る機会と時間は無いでしょう、きっと。

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 秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花

 萩の花尾花葛花 なでしこが花をみなへし また藤袴朝顔が花 

                        (山上憶良・・万葉集)

 

 

以下に、「慶應義塾大学 通信教育課程」の「秋の七草」に関する詳しい論評を引用しておきます。

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「ちかまさり」という古いことばがある。離れて眺めているよりも、近づけば近づくほど美しくみえる女性のよさをいう。こまやかなものに美をみつめる日本人のまなざしは、想像以上に古い時代からのもののようだ。七〜十月にかけて咲くカワラナデシコ(大和撫子)は、差し詰め近優りする花の代表格として万葉の時代から愛おしがられていた。一株から七—九本の茎がわかれ、それが日を追って開いていく。淡紅色の小さな花が咲いた初日に、顔を近づけると、ほんのりとよい香りがし、翌日にはもう香りが薄れている。五弁の花びらの縁はそれぞれ二十ほど細い糸状に裂けていて、目を近づけてみると愛らしいことこの上ない。山上憶良が歌った秋の七種の一つである。

万葉の時代は、野で遊ぶことを楽しみにしはじめた時代だった。秋も盛りの頃の歌。
  秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花    *五七五七七
  萩の花尾花葛花なでしこが花をみなへしまた藤袴朝顔が花 *五七七五七七
秋の野に出た憶良が、こどもたちに向かって、花の名を教えているという説がある。指を折って数えてみるとね、野には七種(「くさ」は、種類の意味)の花があるよ、と歌いだして、つぎに、七つの花の名を込めて歌う。花の名を七つ揃えるには二十五文字ほどかかる。『万葉集』では、〜の花〜花とすることが多いので、「花」をつけたりつけなかったり加減して十一文字程度を加えると、三十一文字から、こぼれだしてしまう。そこで、すこしばかりひねって、みそはちもんじ、つまり旋頭歌(五七七五七七)に仕立ててしゃらっとしている。形式のちがうでこぼこの組み合わせなど気にもせず目を輝かせているあどけない顔が思い浮かぶ。花の名以外に加えたのは「また」という二文字だけだった。これが絶妙なアクセントになっている。

秋の野には他に、竜胆・刈萱(枕草子)、紫苑(古今集)、忘れ草(ヤブカンゾウ 万葉集)なども、咲いていたのではないだろうか。七は、日本人が古来好む数のひとつだ。平安になると、憶良の七種を追っかけるように、春の七草が編み出される。これは食用の七草で、察するところ宇多天皇の時代に宮中から言い出されて広まっていく。
そういえば、向島百花園の花壇に「夏の七草」の説明があった。
  菊桔梗 蓮女郎花 しますすき 小車 仙翁
「星祭りの花扇の七草」とある。字足らずでも好ましい。室町の頃の七夕の朝、公家から宮中に、花で造った一抱えもある大きな花扇が届けられた。秋のはじまりの七夕にかけて七の草が、語呂合わせにほどよい。夏とはいうが、七夕は以前はもう秋。憶良に対抗したもうひとつの秋の七草の歌といえる。

でも、憶良がなぜ七種にしたかはわからない。わからないままに、私たちは好ましく思い続けている。

 

『三色旗』2015年10月号掲載 文学部教授 藤原 茂樹

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 彼岸の中日には、お墓参りに行くことにしています。墓石や周りを掃除し、墓前に花を添え、大福もち、おはぎ等の菓子をお供えして、線香を炊きます。我々の代になってからは、おはぎは造りません。花、線香などと共に菓子もスーパーで買って行くのです。大福もちは父の好物で、生前近所の江戸時代から続くという菓子処のモノが好きだったのでした。今のモノとは違って三倍も大きく餅も付き立て、父はそれを食べると昼食を食べない時もありました。おなかが一杯になるので。 おはぎは生前の母がよく手造りしました。小豆をじっくり煮て、ざるに移し、摺りこぎ棒でごりごり擂り潰し、ざるの下にたまった液体を煮詰めて、どろどろになったら砂糖を入れて又煮ると、こし餡が出来るのです。その餡が何とも言えない上品な味で最高に美味しかった。 今でもたまに買う浅草の「舟和」の餡より美味しいと思いました。もっとも母が作っていた当時は自分も幼かったし、今の様にいろいろなスイーツが無い時代でしたから、そう感じたのかも知れません。