暑中見お舞い申し上げます。この暑さは何なのでしょう。関東の都市部でも連日36℃越えとなっています。大きなビル内は空調が効いて暑くないですが、時として冷房が効きすぎて冷風に長くあたっていると寒いくらいの場合もあります。体には良くありません。空調の温度調節は、たとえAI制御がついていたとしても、そう細やかには出来ないし、温度だけでなく湿度管理もとなると、さらに難しくなってしまう。冷房病になる所以です。やはり自然の冷風が懐かしいですね。子供の頃避暑地では無いのですが、国内の山あいの街にいたことがあって、夏は都会程ではないものの結構暑かったのです。ところが、樹齢何百年という「榧(かや)の木」が近所にあって、それが北向きの高台に堂々と聳えていました。地区の住民は、その大木を大事に思っていましたが、特に記念樹の様な扱いはしていなく、誰でも自由に近づいたり、木陰で休んだり、特に子供達のたまり場、遊び場になっていたのです。夏の暑い日中でも、その木陰にいると何と涼しいこと!何故なら大きな枝葉が空を覆い太陽熱を遮り、木の下は日中でも薄暗いくらい。同時に、北向きの地面がなだらかに下方に向く崖地のため、下方の窪地(そこには小川が流れていて、チョロチョロとした清流の辺りを何種類もの糸トンボが飛んでいました)を通って、冷風が大木の幹まで吹き込んで来るのでした。その涼しさを時々懐かしく思い出すのです。
オペラ Handel『SERSE(1738年作)で、Serse(王)が歌っています。
❝ Ombra mai fu di vegetabile cara ed amabile soave più ❞
「いまだかつてなかった いとしく、優しく、とても心地よき 木の陰よ」
目をつむると、子供の自分が、今の自分から分かれた影の様に、大木の下に敷かれたゴザの上で将棋をしたり、前年に採取され処理された榧の実をボリボリ食べたり、榧の実飴をなめたり、下の窪地に降りて行って、トンボ取りに夢中になったり、大はしゃぎする姿が目に浮かぶのです。
村上春樹の新刊本『街とその不確かな壁』の第一部の9で、春樹は、“自分の影”について詳しく記述しています、ややニュアンスは違いますが。さらに春樹は、同作品第二部62で、はるか昔の16、17才の頃の恋心を抱いていた少女を追憶し、次の様な言説を記しているのには、驚きました。
・・・きみはまっすぐ私の顔を見る。どこまでも生真面目な目で、まるで深く澄んだ泉の底をのぞき込むみたいに。そして打ち明けるように蠢く。手を握り合ったまま。「ねえ、分かった?わたしたちは二人とも、ただの影にすぎないのよ」
と言う言葉に、「はっ」と主人公(多分春樹)は、覚醒し、何十年も経ったその時まで、鮮やかに耳に残っているのでした。
「影」に関しては、様々な作品が残されており、例えば、文学作品としては、ペーター・シュレミール作『影のない男』が有名、『影のない女』は、R.シュトラウスが歌劇にまで仕上げています。