2/18(金)に『下曽我』観梅を3時過ぎ頃早めに切り上げて、小田原市内に向かいました。下曽我駅に着いたら、後二三分で国府津行きが来ると放送していて、こんなにグット・タイミングなのはラッキーです。何せ1時間に一本しか走っていないのですから。短時間乗って国府津に着きました。ここでは、東海道線の上下列車が頻繁に走っています。五六分待ってすぐ来ました。という訳で乗り継ぎが良かったので、16時過ぎに小田原に着きました。何年か振りです。いつも伊豆や熱海に車で行く時、通りすがりに寄ることが多くて、小田原城内は見ていません。まして梅の花の時期は。小田原駅は改札口を出ると、駅ビルには新しいテナントが昔より多くなって奇麗な駅に変貌していました。新幹線も止まるし小田急の終点だし、勿論東海道線の主要駅なので、かなり発展しつつある様に見えました。
駅ビルを出てお城方面に向かうと、すぐ右手に日本的だけれど他ではあまり見かけない建物が建っていました。小田原ミナカというらしい。日本家屋ですが、お洒落な将にグッドデザインの建屋です。賞を取ったみたい。土産物屋や食堂(レストラン)が入っている様です。お城に行くので時間が無い(17時前には着きたい)ので、ルスカやミナカの中は見る時間が有りませんでした。
ミナカに沿って少し歩くとお城が見えてきました。
駅の案内所でもらった地図によると、目の前の行き止まりを左折すると、城址公園に行けて正門から進めるのですが、広い城址公園なので本丸まで、進むのは時間が掛かりそう。それに対し右折するとバイバス出来て本丸に直接登れる道がありそうです。 右折してすぐにお城の敷地に上る道がありました。いかにも歴史を感じさせる大木が立っています。
坂道には掲示板が立っていて、左の広い窪地に江戸時代の「三の丸元蔵跡」が発掘されたことが記されていました。
さらに“御用米曲輪の蔵跡”が本丸北側で出土した趣旨の掲示もありました。その他道すがら[戦国時代のかわらけ][戦国時代の建物跡][切り石敷き遺構][御用米曲輪の池跡][瓦積み堀[三つ葉葵紋軒瓦][御用米曲輪の蔵跡]などが発掘されたという掲示板が何枚かありました。
結構急な坂道を登っていくと、お城の本丸・天守閣が見えてきました。
ここで小田原城の来歴を簡単に示します。
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。 1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。
小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。
ここまで裏道沿いには梅の木が見当たりませんでした。 すぐ近くで見ると相当立派な天守です。時間が無いので天守閣には登りませんでした。
本丸広場には天然記念物の大きなクロマツ等の木が幾つかありましたが、梅の木は見当たりませんでした。広場対面にある建物に観光客が出入りしている様子なので行ってみました。
展示館の様で、「常盤木門SAMURAI館」と書いてあります。入場料200円で入ってみました。
17時までという事であまり時間が無いので急ぎ見て回りました。甲冑、日本刀、鯱瓦、北条氏五代に渡る城主の肖像絵などが展示されています。
似顔絵を見ると初代早雲はいかにも戦国武将らしい精悍な武芸に長けた武将の風貌をしているのに対し、時代が下がる毎に城主の雰囲気は洗練された品の良い風格を備えたトップといった感じで、秀吉に降伏した五代氏直は扇を片手に能舞など踊っている。やや軟弱な印象を受けました。
外に出ると日はもう暮れかかっていました。本丸広場の枝垂れの木は梅か桜か分かりませんがまだ全然花は付けていません。急ぎ常盤木門を通り下に降りました。
門の外は解放空間でなく四角い敷地の周りに石積みと窓口の付いた漆喰壁に囲まれています。所謂「枡形虎口」です。敵が攻めて入って来たら殲滅する構造です。
舛方虎口は戦国後期には、築城で既に使われていました。朝鮮や中国の城には無い(関連性が類似のものを除き)構造で、日本人の発明だと思われます。五重塔の「心柱」なども古代日本人の独創性の高さを示しています(大陸の物とは異なっています)。大地震に対して制振作用よりも浮き上がり防止効果があるとも謂われます。
虎口を出て下降階段の遠く下方を見たら何やらピンクの花が見えてきました。
どうやら梅の花の様です。本丸の裏方面から入ったせいか梅はほとんど咲いていなくてこれでは何が梅まつりなのか?と思う程でしたが、やはり正面の方に梅の木は植えられていたのですね。それにしてもまだ咲き始めといった感じ。
だいぶ下まで降りて来てから初めて本格的な梅の花を見ました。
紅梅の枝にはあちこちに短冊が下げられていました。俳句のようです。
例えばそのうちの一つ、
この辺りは二の丸広場で随分広々とした空間です。「歴史見聞館」は既に5時過ぎていて閉まっていました。
陽が暮れかかっていましたが、城の外に出るにはあと二つの門と二つの橋を通過しなければなりません。銅門、住吉橋、馬出門、馬出門橋です。どこのお城も広い敷地を有していますが、小田原城址は第一級のものと言えそうです。その昔はもっと広かったそうですから。三の丸や大手門は今は市街地になっているそうです。
馬出門橋を渡って、お堀端通りに出るとやっと通常の空間に戻れます。通りの対面には大きな新しい建築が建っていました。
「小田原三の丸ホール」という、半年前にオープンしたばかりの市の建物だそうです。入り口に行ってみると『梅花展』という掲示板が立っていました。
無料というので覗いてみることに。梅の花関連ばかりでなくむしろ関係なさそうな作品が多く展示されていました。真新しい床と壁が気持ちがいい。
梅の木関係の作品は以下の作品位かな?
外に出るとすっかり日が暮れていました。この界隈は裁判所や検察庁、法律事務所などの多い地区の様です。
大分お腹かも空いて来たので、夕食を摂ることに。食べる処は決めていて、その場所も確認して来ました。裁判所の前の国道一号線を駅方向(北方向)に少し行くと「だるま」という老舗料理店があるのです。昔車で一号線を通った時には必ず寄ったものでした。看板が見えてきました。
創業は明治時代ですが、関東震災で倒壊したものを三年後の大正十五年に再建したもので、「唐破風入母屋造り」の日本建築は、現在国登録の有形文化財に指定されているそうです。
生きのいい海の食材でカリッと挙げた天丼が売りで美味しかったのですが、年をとって今は低脂肪食にしているので、魚料理を頼みました。メニューを見たら刺身と煮魚両方入った定食が無かったので、単品で両方頼みました。
左が小田原沖で取れた鯛とかんぱちのかまの煮付け、右は鋒鋩の刺身です。煮付けは濃い目の味で、かんぱちは舌触りが僅かにザラザラ感がありましたが絶妙な味、鯛は脂ののった滑らかな感じでした。一方刺身は粋がいい証拠のコリコリした触感で、甘さのある非常に美味しいものでした。
普通ご飯は小食にしているのですが、余りに美味しいので、ついお代わりをしてしまいました。これでウン千円は、値段だけある美味しさだと思いました。一杯出来ないのが残念でしたが、十分満足出来た小田原観梅の日でした。