HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

土用が近づいてきました

 今日7月18日(水)は旧暦「六月小の月(=6月)」の朔の日(=ついたち)、即ち 6/1 で新月(月がすべて隠れて見えない)の日です。6月は「水無月(みなつき)」と呼ばれ、水が多い月、即ち雨が良く降る月なのです。関東地方は連日の猛暑にもかかわらず、まだ梅雨明け宣言もされず、今週後半は処により雷雨予報がされています。(雷雨でも何でもいいですから振って来て、猛暑が少しでも緩和されればいいですね。水害は困りますが。)

 明後日新暦7月20日(旧暦6/3)からは、『二十四節気』を補充する雑節の一つ「土用」に当たります。以前も書きましたが、歴書に依れば「土用」の説明として、❝本来は二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬、それぞれの前の約18日間を土用と称し、一年間に四度あるのです。しかし最近の「土用」は、立秋(新暦8/8)の前の土用を指すことがほとんどで、土用に入る最初の日を「土用入り」、土用が終わる日を「土用明け」と称する❞ということです。もともと『二十四節気』の概念は、古代中国で生み出された概念です。これまでその詳細は説明しませんでしたので、以下に少し詳しく説明しますと、

 ❝二十四節気はある時期に突然発明されたものではなく、古代中国の何百年という歴史の中で段階的に整備されてきたものです。二至二分(即ち、冬至&夏至など)はノーモン(日時計の一種)によって観察しやすいので、古くから認識されていて、紀元前の殷周時代には、日の最も短い冬至頃に年始が置かれていました。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたものが、時折「十三月」(閏月)を用いて、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していました。従って殷の暦法は太陰太陽暦であったと言えますが、高度な計算を用いたものではなく、自然を観察して必要に応じてずれを修正する素朴なものでした。なお二至二分の名称は、『尚書』堯典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられています。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられます。

 なお、古代中国では、一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬としていました。周では冬至を基準に年始が置かれていたものが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられています。

 その他、二十四節気の名称は、前漢の『淮南子』において出揃っており、それまでの時代で名称が固定化したと考えられます。八節をさらに3分割して24区分としたのは、月と対応させるためです。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した「四分暦」が使われており、これは、1太陽年を12分割した中気が、19太陽年235朔望月(※hukkats注)に228(即ち12×19=228)存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆく(228+7=235)ことを導き出しました。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする「歳中置閏法」が取られたのです。なお当時の天球分割法の一つに十二次というものがあり、それによると節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされました(『漢書』律暦志)。

 

19太陽年235朔望月(※hukkats注)

1太陽年を365日とすると、19太陽年は、19×365=6935(日)です。  一方、

1太陽年を12回の月歴で表し、矛盾なく年と月を一致させるには太陽歴を19年観測し、朔望(即ち新月から満月までの)月を235回観測すると両者は一致して一巡し、元(振り出し)に戻ることが分かったのです。朔望月の標準日数を29日/月とすると

235× 29(日)=6815(日)

従って 朔望月では6935-6815=120(日)だけ、19太陽年の間に不足するので、その分を補って(1日足して、時によって2日足して)閏月を1太陽年に7回程設ければ、ほぼ一年が月観測と太陽観測の差が補正できることが分かったのでした。120=19×6+6

この例だ19太陽年間に、閏月(29+1=30)日の月が6回、若しくは閏月(29+2=31)日の月を6回設ければ良いことになりますし、又は30日の閏月を12回設定すれば数字上は良いことになります。

 

尚、上記した様に(ほぼ旧暦で)四月・五月・六月を夏、と考えていたので、6月の最終日は、夏の名残でお祓いをするという行事が我が国にも(恐らく平安期以降)ずっと伝わっていて、これは6月の『夏越の祓』と呼ばれます。要するに夏を越せたという意味で。これをする人は、寿命が延びて千歳の命を得るともいわれます。

       

水無月の ごしの祓へ する人は 千歳の命 延ぶといふなり(読人知らず、拾遺和歌集

    

  そこまで欲張らなくとも、我々が幼少の頃には、親が、子供の息災と健康を祈って、神社から届いた紙の小さな人型で体を彼方此方さすり、神社の鳥居などに設置された大きな輪をくぐって参拝してから納めるという儀式(これを今でも輪くぐりと称している様です)をやって呉れたものです。時代と処が変われば風習も変わるものですが、暦法はかなり長い年月変わらないで使われているのは、ある種便利な側面があるからでしょうか?