今日は午後一番で、トリフォニーホールのコンサートに行っていて、16時過ぎ頃終わったので家に電話したところ、家内がNHKBS3チャンで『刑事コロンボ』をやっていて、どうも音楽関係の内容だと言うのです。そこで録画して貰うように頼み、帰宅してから見ました。
作曲家で指揮者の犯人が、その音楽助手を殺してしまうという事件を、コロンボの推理で解決するというストーリーでした。簡単な粗筋は次の通り。
ポイント①として、作曲の力量が落ちて来た映画音楽の作曲家クロフォードが、弟子のガブリエルに作曲の手伝いをさせているうちに、主客逆転してしまい、弟子がゴーストライターになってしまったことが事件の発端です。
ポイント②として、クロフォードにこき使われ、何ら表立って認めて貰えないことに、ガブリエルが業を煮やし、真実を世間にをぶちまけることを決心、それでクロフォードは口封じのため殺人を決行したのです。
ポイント③は、相手を騙し、油断させ、巧妙なトリックを考えて、殺人を転落死事件に見せかけたこと。ガブリエルが作曲したことの証拠である楽譜をクロフォードは殺人後に盗み出し、世間にはばれないと安心している処に、コロンボが付け込んで、トリックも暴き、楽譜無しでも世間にガブリエルの作曲だということが分かる新証拠を明らかにしたのでした。
新証拠とは古今東西昔から遊び心や秘密の心を表現する手段として、言葉で伝えたい名前や思いを「音」に置き換えることで、楽曲の中にメッセージを埋め込むという方法です。この方法でゴーストライターのガブリエルは自分の名前他を音譜に組み込み、自分の作であることを暗に楽曲の中に忍び込ませて書いていたのでした。
この「音名象徴」は古くは、かのバッハからロマン派のシューマン、ブラームス、そして現代音楽の大家に至るまで、音と言葉を使った方法として脈々と受け継がれてきました。
例えば、バッハの《フーガの技法》などの楽譜の中には、音名で読むと「BACH」と読める処があり、又シューマンは『アベックの名による変奏曲』で、音名ABEGGをテーマにして変奏曲を作っています。
又ブラームスは『交響曲3番』で同様な音名象徴を使って作曲しました。その詳細は、今日のトリフォニーホールで丁度『交響曲3番』が演奏されたので、後ほどその時の記録に記することにします。
この映画の感想を若干記しますと、①について、日本でも数年前「佐村河内事件」として世間を騒がせた交響曲のゴーストラータ事件がありました。この事件では名目作曲家の佐村河内氏にはそれ程焦点は当てられず、むしろゴースト作曲家の新垣氏の方が有名になって、マスコミにも登場して、ピアノ演奏やら指揮やら新たな作品が紹介されたりしました。
作曲家活動においては大々的になればなる程、作曲家本人の作曲活動を手助けする助手が要ることは珍しい事ではなく、作曲家本人の名誉を傷つけるものでもないでしょう。ごく自然な状態かも知れません。その昔は絵画のルーベンス工房等実在したらしいですし、バッハだって家族に手伝わせていて「バッハ工房」と呼ぶ人さえいます。ただ問題なのは(どんな分野でもそうですが)その手助けの程度ですね。曲の本質的なところは作曲家の頭脳から出たものである必要があるでしょう。「ゴーストライター」と呼ばれる様になってからでは遅いです。
又ポイント②の様に労働の一環として手助けする者をこき使うのは問題です。恨みを買い犯罪の底流を成してしまいます。やはり労働基準法、著作権法などの法治範疇での労使協約が必要でしょう。
③に至っては殺人事件ですから問題外ですが、これには法の制裁を受けさせる必要がある訳です。最近は殺人を犯した後の証拠隠滅のためなのか、放火事件が多いですね。又カレー毒殺事件やトリカブト事件、紀州のドンファン事件の様な毒使用が疑われる悪質事件も多いです。
殺人等の犯罪に至らないまでも、いじめやパワハラ、セクハラ、モラハラ、名誉棄損の問題を引き起こすケースが頻発しています。少なくとも音楽は人の心を楽しませるもの、和ませるもの、癒すものとして存在価値があるのですから、商業的な功利主義的な側面から余り欲・得の気持ちを増長させない様に、気を付けなければならないと常々思っています。