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N響963回定期演奏会『指揮エリアフ・インバル+Pf.マルティン・ヘルムヒェン』を聴く

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【日時】2022.12.19.(月)19:00~

【会場】東京文化会館大ホール

【管弦楽】東京都交響楽団

【指揮】エリアフ・インバル:Eliahu INBAL(桂冠指揮者)

【独奏】マルティン・ヘルムヒェン(Pf.)

【プロフィール】

〇エリアフ・インバル Eliahu INBAL(桂冠指揮者)
 1936年イスラエル生まれ。これまでフランクフルト放送響(hr響)首席指揮者(現名誉指揮者)、ベルリン・コンツェルトハウス管首席指揮者、フェニーチェ劇場(ヴェネツィア)音楽監督、チェコ・フィル首席指揮者などを歴任。
 都響には1991年に初登壇、特別客演指揮者(1995 ~ 2000年)、プリンシパル・コンダクター(2008 ~ 14年)を務め、2回にわたるマーラー・ツィクルスを大成功に導いたほか、数多くのライヴCDが絶賛を博している。『ショスタコーヴィチ:交響曲第4番』でレコード・アカデミー賞〈交響曲部門〉、『新マーラー・ツィクルス』で同賞〈特別部門:特別賞〉を受賞した。仏独政府およびフランクフルト市とウィーン市から叙勲を受けている。渡邉暁雄音楽基金特別賞(2018年度)受賞。
 2014年4月より都響桂冠指揮者。マーラーの交響曲第10番や《大地の歌》、バーンスタインの交響曲第3番《カディッシュ》、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》、ブルックナーの交響曲第8番などの大作で精力的な演奏を繰り広げ、話題を呼んでいる。 2019年8月、台北市立響の首席指揮者に就任。

〇マルティン・ヘルムヒェン Martin HELMCHEN(ピアノ)
1982年ベルリン生まれ。2001年クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールで優勝し、そのキャリアを本格的にスタートさせた。

早くからベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど世界の名だたるオーケストラと共演。
ロンドン・フィル、ボストン響、シカゴ響、ニューヨーク・フィル、ゲヴァントハウス管、トーンハレ管、パリ管などと共演。

指揮者ではブロムシュテット、ネルソンズ、フルシャ、ゲルギエフ、ユロフスキ、ドホナーニ、ハイティンク、ジンマンなどと度々共演している。

室内楽にも積極的でチェロのヘッカー、テノールのプレガルディエン、ヴァイオリンのテツラフ、ヴァイトハース、ツィンマーマンなどと定期的に共演している。

録音はアルファ・クラシックスと専属契約を結び、ベートーヴェンイヤーを記念してのマンゼ指揮ベルリン・ドイツ響とのピアノ協奏曲全曲を録音、グラモフォン賞を受賞した。

2010年よりクロンベルク・アカデミーの室内楽クラスの准教授を務めている。

 

【曲目】

①ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73 《皇帝》』

(曲について)

 《皇帝》の名で親しまれているベートーヴェン(1770~1827)最後のピアノ協奏曲。しかしこの呼び名は、19世紀の中ごろロンドンの作曲家・出版者であるヨーハン・バプティスト・クラマー(1771~1858)が言い出したもののようだ。生前のベートーヴェンと親交があったというクラマーだが、この命名は、作曲者の意図に沿ったものではない。
 とはいえ、そう名づけたくなるのも道理というべきか。この勇壮な音楽は、変ホ長調で書かれているが、同調は英雄的なもの、壮麗なものを表現するのに適していると、古くから考えられてきた。同じベートーヴェンの作品であれば、たとえば交響曲第3番《英雄》(1803年)も変ホ長調だが、やはりこの考えを共有していよう。
 作曲者自身は、この協奏曲をどういうつもりで書いたのだろう?
 あくまでも推測だが、彼の「愛国心」と、あるていど関係しているかもしれない。この曲が着手された1809年、ウィーンはナポレオンの軍勢によって占領されていた。1805年に続き、2度目である。「なんと破壊的で、殺伐たる生活だろう! 太鼓や大砲の音、ありとあらゆる人間の悲惨があるばかりです」(ベートーヴェンの手紙より)。そうした中、ヨーゼフ・フォン・コリン(1711~1811)の愛国的な詩「世界に冠たるオーストリア」が注目を集め、ベートーヴェンも付曲を試みようとしているのだが、そのスケッチと《皇帝》のいくつかのスケッチが、ちょうど並んでいる。自筆スコアの第2楽章冒頭は、いま一つの傍証となろう。そこに作曲者の筆跡で、「オーストリアよ、ナポレオンに仕返しをしてやれ!」とみえる。この穏やかな楽章には、およそそぐわぬ言葉であるが。
 ナポレオンを避けて疎開していた、ベートーヴェンの理解者にして生徒、ルドルフ大公(1788~1831)がウィーンに戻ってくると、当作は、この大公に献呈された。 作曲年代1809~10年。初演1811年11月28日 ライプツィヒ フリードリヒ・シュナイダー独奏。

【楽器編成】 

フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦楽5部、独奏ピアノ


②フランク『交響曲 ニ短調』

(曲について)

 19世紀後半に入るまでのフランス楽壇は、オペラ全盛の時代であり、交響曲をはじめとした器楽(純音楽)は顧みられることがなかった。すなわち、交響曲を作曲してもお金にならないので、それは浮世離れした芸術活動であったのである。
 しかし、普仏戦争(1870~71)に敗れ、ドイツに対抗するナショナリズムの高まりのなかで、1871年にサン=サーンスを中心として国民音楽協会が設立され、フランス人作曲家による器楽復興の機運が高まった。そしてパドルー管弦楽団(1861/創設年/以下同)、コロンヌ管弦楽団(1873)、ラムルー管弦楽団(1881)など各オーケストラの母体が創設されるに及び、ようやく交響曲の演奏会がビジネスとして成り立つ環境が整ったのである。
 後に破棄されるがフォーレの交響曲ニ短調(1884)、サン=サーンスの交響曲第3番《オルガン付》(1886)、ラロの交響曲ト短調(1887)とダンディの《フランスの山人の歌による交響曲》(1887)が、セザール・フランク(1822~1890)の創作意欲を刺激したことは想像に難くない。
 フランクの弟子ヴァンサン・ダンディ(1851~1931)の回想によると、フランクの交響曲(1888)を初演した指揮者、ジュール・ガルサン(1830~96)はオーケストラ団員の多くの反対を押し切って演奏にこぎつけたものの、聴衆、並びに批評家の反応は芳しいものではなかった。それどころか、イングリッシュホルンを用いたこと自体に反発するパリ音楽院教授もいたほど、フランクの交響曲の独自性、新規性は当時の人々を当惑させたのである。グノーはさらに辛辣な批評を演奏会場出口で語っていたようだ。
 しかし、当のフランク本人は自作が演奏されたことに満足で周囲の喧騒には無頓着であった。そのような無欲で謙虚な姿勢が、フランキストと呼ばれる多くの弟子、信奉者を集めた理由の一つであったと考えられる。交響曲の献呈先は弟子の一人アンリ・デュパルク(1848~1933)であった。

【楽器編成】 

フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ、弦楽5部

 

 【演奏の模様】
①ベートーヴエン『ピアノ協奏曲第5番』

第1楽章 アレグロ    

第2楽章 アダージョ・ウン・ポーコ・モッソ

第3楽章 ロンド/アレグロ

 

 作曲当時、最先端のピアノ(クラヴィール)が、音域が6オクターヴに広がり、強い音を出せるようになったことも、ベートーヴェンを大いに刺激したでしょう。冒頭に独奏楽器の華麗なソロを持ってきたのは、ベートーヴェンの独創性の現われです。

 ヘルムヒェンは、力強くリズムを刻みスタートしました。指が相当強くタッチしている模様(後半のフランクの曲があるので、左サイド席でなく二階正面左寄りの席だったので鍵盤は良く見えました)。この箇所は奏者の右手だけ使う演奏も再三あり。Pf.が暫く休む中、オケの結構長い全奏が入り、Cl. Timp.のリズムカルな音が響き、Timp.に合わせたVn.アンサンブルのトレモロからの旋律が透き通っています。Hr.の響きも良し。結構長い休止から入ったPf.はタラタラタラタラと上行旋律で進み、軽快さも有り、強中弱有りのメリハリも効いていて、小気味よく感じます。高音の弱い音を丹念に鍵盤を指でなぞってきっれいに出していたばかりでなく、男性らしい力強さも十分発揮していました。ただ、速いパッセージで急ぎ過ぎかなと思われる処も発生。例えば第一楽章の中盤のカデンツァに入る前のジャジャジャジャと上行するパッセッジではテンポが段々速くなり、最後はスピ-ド違反では?と思われる位、前のめりになっていました。もう一か所、一楽章最後のこれもカデンツァの直前、両手でリズミカルに上行する旋律でスピード加速し過ぎの感有り。最終場面のオケ全奏に対して、合の手を入れるカデンツァ自体の強打鍵とハイスピードで駆け抜けるところはいいと思いました。

 第2楽章の冒頭は、気持ちが安らぐ平和な調べがオケで展開、続くPf.もゆったりとした旋律を丹念に音を紡ぎました。ヘルムヒェンは背中をピンと張って姿勢が良く、特に高音が綺麗。オケはピアニストに寄り添っています。時々ピアニストを見つめるインバル。トティトティトティトティトティと繰り返されるPf.音も安定してとても耳障りが良い感じ。この楽章の美しさを再認識しました。最後、長く引き伸ばされたファゴットの音が、ガクンと半音下にシフトすると、また夢のごとき次元へとかすかな音を立てるPf.その夢がかすかに何回か音を立てているのかいないのかと思う間に第3楽章に突入、突然夢が覚める様な大きな音でリズミカルな音楽が始まりました。オケがすぐ同旋律をフォロー。続くPf.は何回かテーマを繰返しましたが、ややちぐはぐな印象も感じた。少し気色張り過ぎかも知れません。でもその勢いは衰えず、リズミカルで力強いオケのアンサンブルに負けず明確な出音でソロ部もっしっかりと最後の最後までパワフルに弾き切りました。  都響の終焉アンサンブルも見事な重量感を出して終わりました。

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尚、ピアノのソロアンコールが有りました。

 アンコール曲。シューマン『森の情景第7曲より<<予言の鳥>>』

大体、アンコール曲は本演奏に関係有る曲の場合が多く、知らない曲でも聴いているうちに誰作曲かは大体推定できる時が多いのですが、この曲はまったく知らないし、推定出来ませんでした。シューマンの曲だったとは!一風変わった響き、北欧的かな?等と思ってしまった。鳥の鳴き声だったのですね、最初と最後の調べは。中間で和声が出て、最後尻切れトンボの様に終了でした。

 

②フランク『交響曲ニ短調』

第1楽章 レント~アレグロ・ノン・トロッポ ニ短調 

第2楽章 アレグレット

第3楽章アレグロ・ノン・トロッポ

 いつも聴くヴァイオリンソナタや室内楽の他に、フランクにこの様な曲があったとは知りませんでした。(知らないことが多過ぎる!お恥ずかしい!)

 文献によれば、この交響曲の構造はフランクが緻密に計算した構造、即ち転調と循環主題(これは半音下行、4度上行の音型)が序奏から本編に移ったかと思うと、転調されて循環演奏、あたかも進行するのを逡巡する様な調子で進んで行く特徴を持つといわれるのです。

 第一楽章では低音弦のみならずVn.他の重厚な(見方によっては暗い)調べがズッシリ響き、高音になっても(不気味ではないけれど)やや不安な旋律が続き、急に曲想が変わったと思うと、速いテンポの音型がつぎつぎと繰り出されました。インバル都響のアンサンブルは奥深く分厚い。これは指揮者と奏者だけでは実現しません。その楽譜を書いたセザール・フランクというオルガニストの長い経験から身に染みた響きが迸り出ているとしか思えません。インバルの今回の来日演奏メニューには「オルガニストまたはピアニスト」というキーフレーズが頭にあったのかも知れない。

 弦楽アンサンブルの強奏が終息して管の響きで一息つく時にも、Hr.やFl.やOb.のソロ音が挿入され特に、第二楽章では、En.-Hrn.が前面的に採用されたのもフランクの独創的なところ。弦楽のPizzicatoをバックにEn.-Hrn.が、続いてHrn.が鳴らされ、この辺りは初演当時、採用の妥当性を巡って賛否両論が渦巻き、さらにはこの曲自体の巷間の評価も悪い方向になされ、それがフランクが二度と交響曲を書かなくなった一因とも謂われます。

 でも現代の今日ではこの曲の評価は悪くはなく、実際聴いてもみてもとても素晴らしい曲だと思いました。一回聴いただけで好きになりました。フランクの時代は、フランクの周りには弟子他が「フランキスト」と呼ばれるシンパを形成して、サンサーンスなどとも対立していたらしいので、純粋に音楽だけで評価されなかったのでしょう。

 最近とみにオルガニスト出身の作曲家の交響曲を聴く機会がありましたが、とてもいい曲が多かった。これまでの古典派やロマン派他の聞き慣れた交響曲と一味も二味も異なる立体的というか多次元の(四次元ぐらいでしょうか?)空間に引きずり込まれる様な印象が有りました。今後とも機会があれば、こうした曲も続けて聴きに行ってみたいと思います。

 

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 演奏が終わり何回も観客の大拍手に答えて指揮者が現れ、その後終演、ホールが明るくなって奏者の殆ども、観客のほとんども帰って人気が少なくなっても、熱心な観客は残って拍手を続けていました。それに答えたインバルが再再再三登場、写真を撮る人もいれば、近くに立っていた体格のいい偉丈夫中年サラリーマンが大声で、「ブラボー」と叫びました。まーこのタイミングなら、感染の恐れはほとんど無いでしょう。その人が曰く、先日のブルックナーの演奏終了後でも叫んだとのこと。次は第九だと言っていました。

エリアフ・インバルという指揮者の事を、恥ずかしながらこれまで気にも留めませんでしたし、積極的に聴いてみたいと思ったことは有りませんでした。これ程日本でも実績があり、人気もあるとは・・・!!実は、12月13日のインバル指揮都響の演奏も聴きに行ったのですが、最初のウェーベルンの曲が肌に合わなくて、また後半のブルックナーの4番は響きはいいのですが、茫漠と広がるハンガリー大平原を進むが如く、取り留めない気持ちに駆られて飽きてしまった。その後いろいろ忙しかったことも有りますが、記録を書くのは後回しになってまだ書いていません。かなり日が経つと記憶もあいまいになって来ているのでもう無理でしょう。

 文化会館の今回の演奏が終わって外に出たら楽屋口の外には、十人以上の主として中年男性が固まって出口を見ていました。きっと、出待ちなのでしょう。ピアニストは前半で帰ってしまったことでしょうから、矢張り指揮者を待っていたのでしょうか?