HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ルイージN響『ブルックナー2番』1872年稿演奏

【日時】2022.12.4.(日)14:00~

【管弦楽】NHK交響楽団

【指揮】ファビオ・ルイージ

 表記の曲の演奏は、N響第1971回定期演奏会で成されたもので、前半では、①ワーグナーの『ウェーゼンドンクの5つの詩』から五つの歌曲を藤村美穂子さんが歌いました。その時の歌の様子は、2022.12.4.付Hukkats Roc『1971回N響定期演奏会』に記しました。

そして後半の演奏として、

②ブルックナー『交響曲第二番』が演奏されたものです。それについて記します。

(曲について)

 この作品は1872年に初稿が完成し、同年、この稿による初演を第1交響曲に感動した友人である指揮者デッソフにより計画されるも中止された。理由は、パート譜を見たオーケストラ団員の一部から演奏不可能との意見がでるなど騒ぎが大きくなり、デッソフ自身も第2交響曲に対し十分な理解や共感を得られなかったことによる。そのため翌1873年に改訂がなされ、同年10月26日に、ブルックナー自身がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、この曲は初演された。

1876年、この曲の再演に際して細部の改訂がなされ、翌年にはヘルベックの助言により、この曲は大幅改訂された。その後、初版出版に際して1891年から1892年に細部の改訂がなされた。今回は、1872年の初稿で演奏するという。

 

(ブルックナーについて)

 幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃にはオルガン奏者の父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。11歳になる1835年の春に、ブルックナーの名付け親で同じくリンツ近郊の村であるヘルシングのオルガニストだったヨハン・バプティスト・ヴァイス(Johann Baptist Weiß)のもとに預けられ、ここで本格的な音楽教育を受け、通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。またこの時期にハイドンの『天地創造』『四季』、モーツァルトのミサ曲などを聴く機会を持つ。12歳で父を亡くしたブルックナーは、その日に母に連れられて自宅から8キロほど離れたザンクト・フローリアン修道院(ドイツ語版、英語版)の聖歌隊に入った。オーストリアの豊かな自然と、荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは、音楽家としてのブルックナーの心の故郷になった。

1840年、16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通った。小学校の補助教員免許を取得すると、翌1841年10月、ヴィントハーク(ドイツ語版、英語版)というボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。ここでは授業のほかに、教会

のオルガニストや、畑仕事を手伝うかたわら、農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏するなどしていた。またこの時期バッハの『フーガの技法』を研究した。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる。しかし洗練された修道院育ちのブルックナーにとっては、田舎のあまりに退屈な生活と、教職とは名ばかりの雑用や畑仕事に嫌気が差し、肥やし撒きという屈辱的な仕事を拒否した事件がきっかけで、上司アルネトの判断でクローンシュトゥルフ(ドイツ語版、英語版)という新たな任地へ転勤することとなった。故郷アンスフェルデンやザンクトフローリアン、州都リンツからもそう遠くなく、また徒歩で通える近くの街エンス(ドイツ語版、英語版)で作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ(英語版) (1805–1892) に習うことができた。ここではまた最初の合唱曲の多くが作曲された。そして校長登用試験に合格したブルックナーは、1946年(21歳)少年時代を過ごしたザンクトフローリアン修道院の教師となって帰ってきた。1851年、27歳で修道院のオルガニストの地位を踏襲した。

1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストが空席となり、登用試験が行われた。ブルックナーは試験の観客としてそれを聴きに行ったが、フーガ即興課題で他の受験者たちの冴えない演奏に痺れを切らした審査員の一人デュルンベルガーは、客席にいたかつての弟子ブルックナーを見つけて演奏するように焚きつけた。ブルックナーは素晴らしい演奏を披露して、受験者と審査員たちを圧倒させた。こうして思いがけずリンツ大聖堂オルガニストという大職の座を勝ち取り、オルガニストとして成功していったブルックナーは、ミサに必要である即興演奏の技術に長け、オーストリア国内やドイツ文化圏でその名声を築き、十分な収入を得ていった。一般に大聖堂のような要職のオルガニストたるものは、既存曲の演奏だけでなく即興演奏、しかもその場で与えられるテーマ(日常、ミサの中で司祭や会衆の歌う聖歌の旋律の断片)をもとにフーガをその場で即興的に「作曲」しなければならない。ブルックナーは当時すでに優れたオルガニストであった、ということは優れたフーガ作曲家でもあったということである。例えば後年の『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)の第4楽章では長大なフーガが展開し、ブルックナーがフーガの達人であることを窺い知れる。

ブルックナーはベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調(運命)』と『交響曲第9番ニ短調(合唱付)』に深く傾倒していたため、自身の交響曲第1番でハ短調を選んだ後はニ短調の交響曲を書くつもりでいたが、交響曲ニ短調は自身の出来栄えに自信が持てず、発表することがなかった。表紙に「無効」「0」と書き込んだため、通称「第0番」と呼ばれている。これも死後発表された。

結局ニ短調交響曲を世に出さなかったことと、交響曲第1番も当分は初演の見込みが立たなかったので、当初は変ロ長調の新たな交響曲(と題されてはいるが、わずか数ページのピアノスケッチ)を書き始めたがすぐに放棄され、交響曲第2番は再びハ短調を選択した。ウィーンの聴衆へのデビューとなる交響曲は何としてもハ短調でなければならないという強いこだわりがあったためである。この曲に限らずブルックナーの交響曲は全般的にそうであるが、ウィーンの聴衆の前に初めて姿を現したブルックナーの交響曲であるこれは、ゲネラルパウゼ(総休止)があまりに多用されるため「総休止交響曲」と揶揄された。最初ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に献呈を申し出るも断られ、後に下記のワーグナーへの第3番の献呈よりも後にリストに献呈を申し出たものの、リストはウィーンのホテルにその楽譜を置き忘れた上、後から言い訳のような固辞の手紙をブルックナーに送ってきた。ブルックナーは落胆し、交響曲第2番は最終的に誰にも献呈していない。

ブルックナーは1873年8月31日にリヒャルト・ワーグナーとバイロイトで会見する機会を得た(実際には初めてではなく、それ以前に『タンホイザー』のミュンヘン公演で一度会見している)。多忙なワーグナーは最初ブルックナーの話もそこそこに追い返したが、ブルックナーが置いていった交響曲(完成した第2番と、新作の第3番の草稿)の楽譜を一瞥したワーグナーはすぐにその真価を悟り、慌てて街中に出て探した末にバイロイト祝祭劇場工事現場に佇んでいたブルックナーを見つけて呼び戻し、自宅で夕食に招いてもてなした。この際に『交響曲第3番ニ短調』を献呈し、ワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、批判を浴びせられ続けることになった。この時期『交響曲第4番変ホ長調』(1874年)、『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)を作曲する。

1875年からウィーン大学で音楽理論の講義を始めたが、最初のうちは無給の名ばかり職だった。1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席し、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる「第1次改訂の波」が起こり、交響曲第1番から第5番が大幅に改訂された。1877年の交響曲第3番の初演はその長い演奏時間に大半の聴衆が途中で退出してしまい不評に終わったが、一方で最後まで聴いていたわずかな聴衆の中には青年時代のマーラーもいた。またマーラーはウィーン大学のブルックナーの講義にも訪れている。次作の『交響曲第4番変ホ長調』(1874年初稿完成、1875年リンツ初演、1878年改訂・ウィーン初演)は好評をもって迎えられ、交響曲作曲家としてのブルックナーの名声を確立する作品となった。

 

【演奏の模様】

(改訂版に関して)

1872年の初稿(=第1稿)は長大であり、観客の不評もあってか、その後、2番を演奏するにあたりまた楽譜を出版するにあたり何回か改訂を加えられた。現在多く流通している改訂版は、2005年にキャラガンが再校訂して出版された「1877/1892年稿」で、これは「第2稿」と呼ばれています。「第2稿」では「第1稿」の2楽章と3楽章が入れ替えられており、2楽章Andante 3楽章Scherzo となっているが、今回のルイージの演奏は入れ替えず、短縮されないままでの1972年版演奏です。当然演奏時間も長くなります。

 過去に録音されている2番の演奏は、大抵短縮された第2稿版が多いのですが、「2007年ブルックナー祭(リンツ)でのリカルド・シャイイ指揮ライプツィッヒ・ゲバントハウス管弦楽団の演奏録音」は1872年版に依っています。それを聴くと全体で60分近くの演奏時間になります。

 ブルックナーの2番の本質と真価を理解するためには、ブルックナーの生い立ちの詳細を知っておく必要があると思います。以下に上記(ブルックナーについて)から、その生涯の転換点と演奏、作曲活動に大きな影響を与えEventを抜き出すと次の通りです

 

〇12歳で父を亡くしたその日に母に連れられて自宅から8キロほど離れたザンクト・フ  ローリアン修道院(ドイツ語版、英語版)の聖歌隊に入った。オーストリアの豊かな自然と、荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは、音楽家としてのブルックナーの心の故郷。

〇16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通った。

〇1841年ヴィントハーク(ドイツ語版、英語版)というボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。ここでは授業のほかに、教会でのオルガニストや、畑仕事を手伝うかたわら、農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏するなどしていた。またこの時期バッハの『フーガの技法』を研究した。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる。

〇クローンシュトゥルフ(ドイツ語版、英語版)という新たな任地へ転勤。

徒歩で通える近くの街エンス(ドイツ語版、英語版)で作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ(英語版) (1805–1892) に習うことができた。ここではまた最初の合唱曲の多くが作曲された。そして校長登用試験に合格。

〇1846年(21歳)少年時代を過ごしたザンクトフローリアン修道院の教師となって帰ってきた。

〇1851年、27歳で修道院のオルガニストの地位を踏襲した。 

〇1855年、リンツ大聖堂オルガニストという大職の座を勝ち取り、オルガニストとして成功していった。

 教会付きオルガニストはミサの中で司祭や会衆の歌う聖歌の旋律の断片をもとにフーガをその場で即興的に「作曲」しなければならない。ブルックナーは当時すでに優れたオルガニストであった、ということは優れたフーガ作曲家でもあったということを意味します。

〇オルガニストとしての確固たる地位を得たブルックナーは、それ以降大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品には『交響曲第1番ハ短調』(1866年)『交響曲ニ短調(第0番)』(1869年)『交響曲第2番ハ短調』(1872年)がある。

〇ブルックナーはベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調(運命)』と『交響曲第9番ニ短調(合唱付)』に深く傾倒していたため、自身の交響曲第1番でハ短調を選んだ後はニ短調の交響曲を書くつもりでいたが、交響曲ニ短調は自身の出来栄えに自信が持てず、発表することがなかった表紙に「無効」「0」と書き込んだため、通称「第0番」と呼ばれている。これも死後発表された。

〇結局ニ短調交響曲を世に出さなかったことと、交響曲第1番も当分は初演の見込みが立たなかったので、当初は変ロ長調の新たな交響曲(と題されてはいるが、わずか数ページのピアノスケッチ)を書き始めたがすぐに放棄された。

〇交響曲第2番は再びハ短調を選択した。ウィーンの聴衆へのデビューとなる交響曲は何としてもハ短調でなければならないという強いこだわりがあったためである。この曲に限らずブルックナーの交響曲は全般的にそうであるが、結局ニ短調交響曲を世に出さなかったことと、交響曲第1番も当分は初演の見込みが立たなかったので、当初は変ロ長調の新たな交響曲(と題されてはいるが、わずか数ページのピアノスケッチ)を書き始めたがすぐに放棄され、交響曲第2番は再びハ短調を選択したのです。ウィーンの聴衆へのデビューとなる交響曲は何としてもハ短調でなければならないという強いこだわりがあったため。

〇この曲に限らずブルックナーの交響曲は全般的にそうであるが、ゲネラルパウゼ(総休止)があまりに多用されるため「総休止交響曲」と揶揄された。

 

 これ等のEventから推測出来ることは、ブルックナーの音楽体験は頭にも体にも「オルガン付け」とも言える程のパイプオルガンの響きが滲み込んでいたということと、作曲法を学んで交響曲を作り始めた初期には、神の様な大きな存在のベートーヴェンの交響曲、就中第九交響曲が寝ても覚めても頭を離れなかったことでしょう。こうした事より通常緩徐楽章の後に置かれることの多いスケルツォを、「第九」の様に緩徐楽章である第三楽章の前の第二楽章に於いて、第一楽章Ziemlich schnell の堅苦しさを柔らげようとしたと思われる。同時に次楽章と最終楽章の宗教的(ミサ的)響きに繋げることが自然となり、あたかもオルガンで鳴らしている様にブルックナーの頭の中では感じ取っていたのかも知れません。さらにオルガンの響きから、「第九」の最終楽章の様な合唱の響きまでを連想していたのかも知れない。

 次にルイージN響の演奏の様子について概略記します。

<楽器構成> Fl.(2) Ob.(2)Cl.(2) FG.(2) Hr.(4) Trmp.(2) Trmb.(3) Timp.(1)弦楽五部(16-15-12-10-8)ざっと見た限りでは、ヴァイオリン部門や低音弦が増強された感じ。

第一楽章 Ziemlich schnell

 Vn.のトレモロとVc.の低い響きのテーマが響き始めました。すぐに弦楽アンサンブルが強い全奏になり、Hr.の響きも加わっている。Vn.アンサンブルとCb.のpizzicatoで流麗な調べが流れ、タラララ タラララ タラララ と一泊目にアクセントがある旋律を繰り返し、瞬時の空白後静かにHr.のソロ音が立てられ、Fl.、Ob.とのやり取りをします。すぐ弦のトレモロの中、Hr.が短い音を連ねると、管も弦も相当な強奏となり、一旦力を弱めるものの、すぐに力一杯に管弦は鳴らされ又小休止、続いて新たに管弦が力を盛り返して、管楽器と弦楽器の良いとこ取りといった綺麗なアンサンブルを表出していました。この清明な響きはブルックナー特有のものです。各処次第にクレッシェンドで盛り上がるところ多し。最終場面は管楽器特に金管から木管に橋渡しをし、弦楽が少しずつズンズン加わってクライマックスかと思いきや一呼吸、いや二呼吸位おいて最初のテーマに戻り、急に早いテンポで全楽全奏、Timp.は丁度いい具合に皮面を引っ叩き、ジャンジャンジャンで終了でした。全体的にアンサンブルの響きは濁らず、各パートの交わり具合も良好で、ルイージも出だし好調といえるN響の纏まり具合に、きっと満足かと思えまた。

 

第二楽章 Scherzo schnell

 ジャジャジャチャチャジャン、ジャジャジャチャチャジャンと特徴あるリズムと旋律でスタート、冒頭からかなりの強奏、Trmp.ファンファーレもテーマを勇ましく吹き鳴らし、冒頭に戻ってジャジャジャチャチャジャンを繰返します。このテンポの少し土臭い旋律は、どこかの土着舞踊の引用なのでしょうか?面白い曲です。このテーマは何回も何回も変奏されて繰返えされました。確かにschnell感は十分でした。急に曲相が代わって1Vn.のトレモロの中、2Vn.とVc.がゆったりした旋律を奏で始め、これがとても美しい旋律でした。暫しの空白の後繰り返され、Fl.などの管も入りとても気持ちが安らぐ場面でした。これが何回も繰り返されたのです。そして再度冒頭の勇ましい速い演奏に戻った。最後は何回もテーマを繰返す中、Trmp.とTrmb.が勇壮にファンファーレを添えて終了です。最後Timp.のダダダンタン ダタタンタンという力強い打奏が恰好良かった。

 

第三楽章 Andante:Feierlich,etwas bevegt

 弦楽アンサンブルによるとても美しい旋律が流れ始めました。高音弦⇒Vc.⇒Va.と弦がCb.のボンーボンーボンというpizzicatoを背景にゆっくりと優雅に舞っている感じ、舞いはやがてHr.の声まで誘い出し、Hrn.⇒1Vn.アンサン⇒(1Vn.+Va)アンサン⇒Hrn(4).アンサンと引き継がれていったのでした。この楽章でも空白があり、ここまで聴いてつらつら考えるに、何もこれは「総休止交響曲」等とけなされる類の物でなく、揶揄する向きはこの空白の良さ・意味を理解出来ない輩の悪口としか思えません。非常に効果的な全楽器休止であり、その前と後の意味合いは箇所によっていろいろです。曲相・曲風が同一楽章内で急変する箇所だったり、前後の間に一呼吸置くことで返って前後のバインド効果が上がる箇所、或いはホントの意味で休息・休止が効果的な箇所だったり、様々な音を立てているパイプオルガン演奏では良くあることです。楽章終盤は少し強い演奏になりますが、最後は再び美しいテーマに戻り、Fl.やコンマスのソロなども含まれるとても麗しい感じの楽章でした。ルイージは各楽器に向かって一層体を傾け、細心の音を引き出す様な仕草で、全神経を張り詰めて指揮をしていました。様々な楽器がゆっくりと変わる毎にそのパートに向きを変えて、その場その場に相応しい音の強度、テンポを指先からジワーッと伝え、全体としての調和を謀っている様子。あたかも調香師ルイージが微妙な香料の匙加減をしながら混ぜ合わせ、全体として絶妙な香りを醸し出している様な雰囲気でした。しかもその香料とは、ブルックナーというオルガニストが大から小までのパイプを駆使して、ストッパーの匙加減で音をひねり出した結果を、レシピ記載していて、それに基づく香料(=演奏者)を生かすも殺すも調香師の腕次第といった風でした。ルイージはそのことを十分意識していて(いつだったかのNHK番組でもそういう趣旨の発言をしていました)、神経を研ぎ澄まして指揮していたようです。この三楽章は本当に素晴らしく圧巻物でした。

 

第四楽章  Finale: Mehr schnell

  速度記号表記の通り、かなり速く急いでいるが如きテンポでスタート。全体的に活発な演奏でした。管も弦も相当力を入れておりTimp.も力強く相いの手を入れ、かと思うと静まって弦楽アンサンとHrn.がゆっくりと 掛け合いました。すると速い序奏が来るやいなや次第にクレッシェンドで勢いが増し、強奏などなど変化に富んだしかもブルックナー節に満ち溢れた楽章でした。演奏時間は矢張り随分と長いとは思いましたが、冗長だとかカットした方が良いとは思わなかった。聴く方の性格によって印象はかなり変わるのかも知れません。気短だと飽きてしまって席を立つかも知れないし(まーそれは無いでしょうけれど)最終部の麗しい旋律、続くpizzicatoによる旋律演奏、じゃじゃン、じゃじゃン、じゃじゃンとういうリズムの強奏も面白し、ルラルラルラルラルラルラとうねる旋律のアンサンブルもいとをかし。

 以上ブルックナーの魅力に満ちた溢れた2番の交響曲を、素晴らしい演奏で聴かせてくれたルイージN響に感謝!です。