【日時】2024.6.4.(火)19:00〜
【会場】サントリーホール
【管弦楽】東京都交響楽団
【指揮】エリアフ・インバル
【曲目】ブルックナー『交響曲第9番 ニ短調 WAB109(2021-22年SPCM版*第4楽章付き)[*日本初演]』
(曲について)
- ブルックナーが死去した時、交響曲第9番は第3楽章まで書かれていたものの、第4楽章フィナーレは未完成でした。以後、第9番の演奏は第3楽章で終わる形が一般的となり、作曲者が亡くなる直前に示唆した、フィナーレの代用として旧作の《テ・デウム》を置くやり方は普及しませんでした。
1960年代から、遺された草稿やスケッチからフィナーレを補筆完成する試みが本格化。その中でニコラ・サマーレとジュゼッペ・マッツーカによる版が1983年に最初に出版され、エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送響によって1986年に録音されました(補筆完成版の最初期の録音の一つ)。このサマーレ&マッツーカ版は後にジョン・A・フィリップスとベンヤミン=グンナー・コールスが加わって改訂されました(サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカ版=SPCM版)。
本日は、ノヴァーク版による第1~3楽章に続いて、フィリップスが改訂した最新のSPCM版第4楽章をお贈りします。演奏会へ向けて、フィリップス氏ご本人から曲目解説をご寄稿いただきましたので以下に掲載します(都響編集部) ------------------------------------------------------------------------------
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB109アントン・ブルックナー
1824年9月4日、アンスフェルデン生まれ/1896年10月11日、ウィーンにて没
Dem lieben Gott
(親愛なる神へ/ブルックナーがスコアに書き込んだ献辞)
Ⅰ 荘厳に、神秘的に
Ⅱ スケルツォ/動きをもって、生き生きと
Ⅲ アダージョ/ゆっくりと、荘厳に
(以上:ノヴァーク版)
Ⅳ フィナーレ/神秘的に、速すぎずに
(サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカによるフィナーレの演奏用ヴァージョン〔1983-2012〕をフィリップスが改訂〔2021-22〕)[日本初演]
ブルックナーが1887年に作曲を始めた交響曲第9番は、作曲者自身が1894年までに仕上げた3つの楽章構成で演奏されるのが通例である。しかしブルックナーは、人生最後の18ヶ月間は、4つめの楽章となるフィナーレの作曲に没頭した。彼はこの交響曲が3楽章で終わるのを望んでおらず、そのため第3楽章アダージョに続けて、彼自身の《テ・デウム》を演奏するよう指示していたほどである。
実のところ、ブルックナーがフィナーレ楽章のために書き残した490ページの手稿譜の中にはオーケストラ・スコアが存在し、それは最初の3つの楽章に劣らないほど完成された内容となっていて、番号の振られたバイフォリオ(4ページの二折本シートで、ほとんどが16小節から成る)に書かれている。フィナーレの約3分の1は完璧に仕上げられており、その他にインク書きの弦楽器スコアや、インクもしくは鉛筆書きによる管楽器の重要な出だし部分が残されている。
第9交響曲はブルックナーにとって傑作、集大成となるべき作品であった。実際に(第4楽章の)作曲を始める10年ほど前から、フィナーレ楽章は彼の頭の中に浮かんでいた。そのスコアは、ブルックナーの独創性、構想の明晰さ、対位法技術がまったく衰えていなかったことを伝える。
非常に残念なことだが、ブルックナーの死後に彼のアパートを訪れた人々は、他の手稿譜とともにこのスコアのバイフォリオを何枚も記念に持ち去ってしまった。1903年に、最初の3つの楽章のみがオーケストレーションに手を入れられた形で初演された際、指揮を務めたフェルディナント・レーヴェがフィナーレ楽章の存在について真っ赤な嘘をついた。そのため、ブルックナーは判読不可能な「スケッチ」をわずかに残したにすぎないという俗説が、今なお信じられている。手稿譜は1934年にブルックナー全集(旧全集)の補遺として初めて出版されたが、書き写しに間違いがあり、さらなる誤解を生んだ。1963年、イギリスの音楽学者ハンス・フェルディナンド・レドリッヒはこの作品について正当な意見を述べている。「偉大なる作曲家の遺作が、後世においてこれほど不当に扱われ続けるのは稀である」
1983年からニコラ・サマーレ、ジョン・A・フィリップス、ベンヤミン=グンナー・コールス、ジュゼッペ・マッツーカの編集チーム(SPCM)がフィナーレ楽章の再構築に取り組み、フィリップスによるブルックナーの自筆譜の復元版(1994、1999年)、およびブルックナー全集(新全集)によるオリジナル手稿譜のファクシミリ版(1996年)の出版へとつながった。それは音楽学的見解に革命をもたらした。フィリップスとコールスはそれぞれ第9番についての博士論文を書いた。
彼らの徹底的な調査の結果、何枚かのバイフォリオは失われてはいるものの、これまで信じられていたよりもはるかに多くの草稿が残されていることがわかった。最新の改訂版には、コーダの長い草稿を含め、それらがすべて反映されている。欠落したバイフォリオは、ブルックナーがスコアに書き起こす前に残した断片やショート・スコアのスケッチから復元可能である。楽章の形式、モチーフやハーモニーの整合性は全体的に明らかである。ブルックナーは秩序を重んじ、理論的洞察力に長けた作曲家でもあり、彼の芸術的な判断は、解釈しやすい作曲理論に基づいている。フィナーレの作曲を引き継いで構築し、そのオーケストレーションを仕上げることは、想像されるよりもはるかに主観的な作業とはならないのだ。
SPCMによるフィナーレは、時を経て洗練を重ねてきた。649小節から成る現行版は、マエストロ・サマーレの全面的な承認を得ているもので、2012年版(サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの優れたレコーディングで知られるヴァージョン)よりも4小節短い。現行版はオリジナルの資料にさらにしっかりと基づいており、440小節(全体の68%)は現存するスコアのバイフォリオと一致し、122小節(19%)はスケッチや整合性のある草稿から再構築されている。残りの87小節(13%、2012年版よりも9小節短縮)のみ、さらなる「科学的調査」に基づく修復の余地を残している。
最後の交響曲、そして音楽的遺言として特別に構想されたこの第9番を、敬虔なブルックナーは「親愛なる神」に捧げており、本作を「神の尊厳への敬意」とも呼んでいた。またこの曲はベートーヴェンの第9と同じニ短調であり、かの傑作へのオマージュでもある。1887年8月に交響曲第8番(第1稿)を書き終え、数日後には第9番に着手したものの、ブルックナーは過去の自分の主要作品を、自らの熟練した水準にまで引き上げようと、いくつかの交響曲の改訂に取り組んだため、第9番の作曲は何年も遅れることになった。
第5番と同様に、ブルックナーは第9番も重厚でエモーショナルなフィナーレを中心に構成し、諦観的な至福ではなく、勝利の栄光のうちに終わらせようと考えていた。ニ短調という、ベートーヴェンも扱った調性が示す神聖で「ゴシック的な」要素をすべて結集させ、神秘、荘厳、歓喜、そして畏怖の領域へと高めることを狙った。第7番や第8番の交響曲と同様に、ブルックナーは4本のワーグナーテューバを用い、暗く神秘的な響きによってオーケストラの色彩を豊かにし、最後の2つの楽章ではこの楽器に重要な役割を与えている。本作は和声的に比類なき豊かさを持っている。スケルツォ楽章の冒頭やアダージョ楽章のクライマックスにおけるドラマティックな不協和音や、フィナーレ楽章に見られる多くの驚くべきパッセージは、20世紀の和声的発展を予見させる。
【演奏の模樣】
楽器編成:フルート3 オーボエ3 クラリネット3ファゴット3 ホルン8(第5 - 8ホルンはワーグナーチューバと持ち替え)トランペット3 トロンボーン3 バス・チューバ1 ティンパニ1
三管編成 弦楽五部16型(16-14-12-10-8)
全四楽章構成
第Ⅰ楽章 荘厳に、神秘的に
第Ⅱ楽章 スケルツォ/動きをもって生き生きと
第Ⅲ 楽章アダージョ/ゆっくりと、荘厳に
(以上:ノヴァーク版)
第Ⅳ楽章 フィナーレ/神秘的に、速すぎずに
(サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカによるフィナーレの演奏用ヴァージョン〔1983-2012〕をフィリップスが改訂〔2021-22〕)[日本初演]
今回使用された第Ⅳ楽章は、謂わば新SPCM版(P校訂)改訂動機は次の様です。
《フィリップの新改訂の動機等》
フーガ部分の欠落を埋めるために初期のスケッチを使用したことや、1992年版以来ほとんど変更が加えられていないコーダについて懐疑的であり続けていたのだという。2021年9月、フィリップスは終楽章のオルガンのための編曲を依頼されたのをきっかけに、再びフィナーレの改訂作業に乗り出した。同年10月にオーケストラ・スコアの改訂に着手。翌2022年5月にオルガン編曲版を完成した後、この年の9月にフル・スコアの改訂を完了した。1992年版から見てちょうど30年の時を経て完成されたフィリップスによるSPCM 2021~22年改訂版は、2022年11月30日ロンドンにて、ロビン・ティチアーティ率いるロンドン・フィルによって初演された。
各楽章の具体的楽器とアンサンブルや独奏の特徴については以下の(参考)の様であり、今回のインバル・都響の演奏は、1楽章~3楽章のノヴァーク版部分について、概ね参考記載事項を実直に顕在化し、これまでのクラシカルに大指揮者とオーケストラが演じた名演に匹敵する程の出来栄えであったと思います。各楽章の特徴は将に仔細に渡って再現されていたと思います。
特に、二楽章のTimp.に牽引される全オケの狂瀾怒涛の迫力は尋常なものでは無かったし、第三楽章Adagio の滔々とした弦楽奏の流れは、川のほとりに、朝日を帯びた川岸の集落の人びとと動物の牧歌的風景が一服の絵画の様に瞼に浮かぶような幻想さえ浮かぶ気がしました。
ところが今回フィリップスが化粧し直ししたという4楽章に突入し暫く聞くと、「おや、なんだこれは? 第1、第2、第3楽章と続く大河の流れに、あたかも別の流れが突如混入して来て、全く異なる大河の風景(例えば何かに例えると、そう、例えば河口域で暖流に枝川の寒流が流れ込み前者の水量を凌駕して、アッと言う間に冷たい大河の流れになって水の色まで変わってしまった様な景色)を眺めている感覚になり、いや―これはブルックナーではないナーとズート懐疑的に思って聴いていました。ここ両日の都響の演奏を聴かれた音楽愛好家の皆さんの感想を拝見すると、殆どの方が、やはり同じ印象を抱いていた様です。良かった自分の耳をも疑いましたが、そうでなくて。
例えば1~3楽章までは、一か所程を除いて、殆どG.P.は無しか感じない程、気にならないスムーズな曲想転換をインバルは推進していました。
ところが4楽章に入った途端に川の流れはと切れと切れになる程G.P.が増えました。そして旋律的にも和声的にも、あれ、これって本当に何回も聴いたSPCM版4楽章なのかな?上記のフィリップスによる新改訂は本当に簡易的改訂だったのかな?と懐疑的な気持ちを抱かせる程だったのです。
SPCM四楽章を組み込んだ録音は、以下で観賞しました。
Anton Bruckner - Symphony No. 9 in D minor, WAB 109
0:00 Feierlich, misterioso
23:56 Scherzo: Bewegt, lebhaft; Trio. Schnell
34:53 Adagio: Langsam, feierlich
59:26 Finale: Misterioso, nicht schnell Finale (unfinished). Performance version by Nicola Samale, John A.Phillips, Benjamin-Gunnar Cohrs & Giuseppe Mazzuca (1983-2012) Conclusive Revised Edition 2012 Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Sir Simon Rattle
その他カラヤン指揮の映像でも観ましたが、特に4楽章の違和感はそれ程感じませんでした。
帰り際に、事務局員に「今回の新ヴァージョンはこれまでのSPCM版とどう違うのですか?」と質問したら、事務局員が「分かる人に訊いて来ます」と控室の方に走って中年男性(恐らく楽団員)を連れて来ましたが、その人も詳しくは分らない模様で、「僅かな変更だと思いますが」と言っていました。両方の楽譜ででも比較しなければ分からないですね。新版が録音されれば、旧版の出ている録音と比較出来るのですが。
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(参考・・・Dr. ジョン・A・フィリップス)
第1楽章
ブルックナーらしいソナタ形式である。提示部には3つの主題があり、展開部、再現部、コーダが続く。第1楽章の胸騒ぎのするような冒頭部分は、圧倒的な主要主題へと発展し、「神の威厳」への敬意を表している。第2主題は歓喜に満ちた魂の平穏を表し、第3主題は人間の存在の悲劇を感じさせる。ブルックナーは展開部と再現部を融合させて長大な対話に発展させ、圧倒的クライマックスへと昇華させている。コーダは簡潔であるが記念碑的である。
第2楽章
続くスケルツォ楽章は悪魔的な苛烈さに満ち、まさに「死の舞踏」である。ブルックナーは地獄絵図をも意図したのかもしれない。神秘的で不気味なトリオ(中間部)は、彼が過去に作曲したどのトリオとも似ていない。
アダージョ楽章は非常に感動的で回顧的であり、超越的で幻想的境地へと高められていく。2つの広大な主題群がそれぞれ再現され、長大なクライマックスのコーダが続く。トランペットの最初の入り(5小節目、ニ長調)は、ブルックナーがフィナーレの締めくくりに置きたいと考えた「アレルヤ」を予感させるものである。最初のクライマックスが訪れた直後に、ワーグナーテューバによって悲痛な主題が提示される。ブルックナーはこれを「この世からの別れ」と呼んだ。この主題は弦楽器によって情熱的なコラールとして再現され、さらにフィナーレ楽章でも輝かしいコラール主題となって現れる。この楽章のコーダは、恐るべき力強さでクライマックスへと到達する―おそらく死との対決を描いている。その後、ブルックナー自身のニ短調ミサ曲の「ミゼレーレ」から引用されたパッセージが続き、フィナーレ楽章の冒頭を予告する。地上での生命は終結するのだ。
第3楽章
アダージョ楽章がブルックナーのこの世からの別れであったとするならば、良きカトリック信者であった彼は、フィナーレ楽章において魂が煉獄をさまよう旅を描き、その救済で終わらせる意図があったはずだ。冒頭の強迫観念的な付点リズムと、「悪魔的」な三全音(訳注:3つの全音からなる音程で、古典和声では最も不快な不協和音とされた)の進行が楽章全体を支配している。この不吉な始まりは、もう一つの不気味な主要主題へと発展する。神が再び無慈悲な審判者として現れるのだ。第2主題群は、最初は荒涼としているが、やがて幸せな思い出を蘇らせる。第3主題群はアダージョで予見された壮大なコラールで、魂の救済を象徴する。しかしそれは破滅的に中断され、魂はさらなる試練にさらされる。
展開部は、ブルックナーが自身の《テ・デウム》から借用した、信仰を象徴する4音のモチーフが支配的となる。その後、主要主題が大胆なフーガとなって回帰し(訳注:ここで再現部に入る)、長いクレッシェンドに続いて、ホルンによる新たな勝利の主題に到達する。しかしこの主題もまた、残響の鳴る虚空の中で断ち切られる。第2主題群が繰り返され、2つの音楽的暗示がもたらされる。1つはコラール、もう1つは作曲者の愛した古代の典礼歌《キリストは蘇り》の旋律である。そこで再びニ短調に戻るのだが、突如コラールはニ長調となり(このコラールはブルックナーの全作品の中でもっとも素晴らしいパッセージの一つ)、《テ・デウム》の「信仰」のモチーフと融合する。ここでついに安息の地に帰り着くのだ。勝利を告げるホルンの主題へと移るが、再び第1楽章の荒涼とした第1主題に対峙することとなる……。
続いて、より正確に修復されたブルックナーのコーダへと入る。神秘的に旋回する上行音形は、再現部や終盤のスケッチにも見られる最後のコラールへと繋がっていく。1896年5月の日付が記された3つの注目すべき草稿の全てがここに含まれている。補筆されたパッセージによって第1楽章の主題群とフィナーレ楽章とが結ばれて、この交響曲全体の根幹をなす統一性が象徴的に表される。最後の恐ろしいほど不協和なパッセージはニ長調に終止する。救済は成し遂げられたのだ。
ブルックナーは、フィナーレ以前の楽章に登場させていた「アレルヤ」を、「この交響曲を親愛なる神への讃歌として終わらせるために」、ここに「力強く」取り入れたいと表明していた。その「アレルヤ」とは、先に述べたアダージョ楽章におけるトランペットの最初の入りのことである。数々の作曲上の手がかりが、ブルックナーがいかにそれを「讃美の聖歌」の締め括りに変容させたかを明らかにしている。
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ラトルは、かってベルリンフィルを振りロンドン響も従えて来日しましたが、今年はバイエルン響と共に来日演奏するのですね。その中でブルックナーの9番の演奏もしますが、殆どがベートーヴェン中心のプログラムで、今日発売になったミューザのブルックナー演奏は<コールズ校訂版>なのですね。要するに<ノヴァーク版>よりは新しい1~3楽章までの改訂版です。
また、今回の新SPCM四楽章版は本邦初演でしたが、世界初演は上記した様に「ロビン・ティチアーチェ指揮のロンドン・フィル」なのですね。彼は。(その時の配信を観た記事は、同日のHUKKATS Roc.記事に記しました。)彼はこの9月にロンドンフィルを率いて来日公演しますが、ブルックナーは演奏しない様です。マーラーをやるチケットは確保しました。
今回のインバルの演奏は、画龍点睛を欠くのきらいは有りましたが、総じて素晴らしかったので、演奏が終わると指揮者、奏者をたたえる観客の歓声と喝采はいつまでも続くのでした。
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////2023-08-03.HUKKats Roc.抜粋再掲
『PMF東京演奏会(金川∔ブルックナー9番)』を聴く
【主催者言】
PMF初参加となるトーマス・ダウスゴーが指揮者に登場します。数多くの作品録音に意欲的に取り組み、シアトル交響楽団首席客演指揮者、同団音楽監督などを歴任。
コンサートの前半は、昨年PMFオーケストラとの共演、室内楽の演奏でPMFデビューを飾り大変好評を得た金川真弓をソリストに迎え、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をお聴きいただきます。
教育への高い関心をもち、独創性と革新性に満ちたプログラムを得意とするダウスゴーが、PMFオーケストラと挑むメインプログラムは、ブルックナーの交響曲第9番(第4楽章付)。今回演奏する補筆完成版(SMPC編、1984-2012)は、原典に基づき丁寧に作成されたことと、サイモン・ラトルの提唱によりベルリン・フィルが録音したことで、世界的に注目が集まっています。80分余りの大曲に挑戦する若き音楽家たちの渾身の演奏をご堪能ください。
【日時】2023.8.1.19:00~
【会場】サントリーホール
【管弦楽】PMFオーケストラ
【指揮】トーマス・ダウスゴー
<Profile>
デンマーク生まれ。独創性と革新性に満ちたプログラム、教育への高い関心、賞賛された70作品以上の録音、そして鋭い洞察力が高く評価されている。1988年シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭にてバーンスタインのマスタークラスを受講。90年には岩城宏之に師事し、その後小澤征爾の指名によってボストン交響楽団のアシスタント・コンダクターをつとめた(93-95)。スウェーデン室内管弦楽団首席指揮者、同団桂冠指揮者、トスカーナ管弦楽団名誉指揮者、BBCスコティッシュ交響楽団首席指揮者、シアトル交響楽団首席客演指揮者、同団音楽監督などを歴任。2009年、デンマーク国立交響楽団首席指揮者として豊田泰久と密接に連携し同団の新しいホールであるDRコンサートホールの音響設計を行い、ホールのこけら落としを指揮した。デンマーク女王より騎士道十字章を授与され、スウェーデン王立音楽アカデミー会員にも選出されている。
【独奏】金川真弓(Vn.)
【曲目】
①メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op. 64
(曲について)
《割愛》
②ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(補筆完成版 SMPC編)
(曲について)
ブルックナーが取り組んだ最後の交響曲。1896年10月11日に作曲者が他界した際に完成していたのは第3楽章までであり、最後の第4楽章は未完成のまま残された。実際の演奏では、実演・録音とも、完成している第3楽章までで演奏されることがほとんど。第4楽章の草稿が少なからず残されているため、それに補筆して完成させる試みも行われている。
1983年に始まった、ニコラ・サマーレ、ジョン・フィリップス、ベンジャミン=ギュンナ―・コールス、ジュゼッペ・マッツーカ(以降「SPCM」という。)の編集チームによる終楽章・フィナーレ復元の取り組みは、フィリップスによるブルックナー自筆譜の復元(1994年、1999年)および原稿の複製版の出版(1996年)として結実し、ブルックナー全集において憶測ではなく資料に裏打ちされた音楽学的見解に革命をもたらした。フィリップスとコールスはそれぞれ第9番に関する博士論文を執筆した。
失われたページがあるという事実は変わらないが、終楽章についてはかつて信じられていたよりもはるかに多くの原稿が残っており、そこには完全なコーダの手稿も含まれている。残された手稿からは、作品の基本的なモティーフや和声の継続性が明確である。欠けた部分のほとんどは、作曲の前段階や途中で残したスケッチから再構築することができた。和声と対位法を教えていたブルックナーは、非常に方法論的かつ理論的な見地に富んだ作曲家であり、彼の芸術的な決定は解釈可能な作曲の論理に従っていた。そのため、作曲の連続性やオーケストレーションの再構築は、見かけほど主観的ではない。今回はこのSPCM輔弼版で全四楽章が演奏される。
【演奏の模様】
①メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』
《割愛》
②ブルックナー『交響曲第9番』
ブルックナーの交響曲は最近あちこちで演奏されているので、ここ一年間でも結構聴きに行っています。
2022.10.『7番』ラトル・ロンドン響、2022.12.『2番』ルイージ・N響、2022.12.『4番』インバル・都響、2023.3.『4番』飯森・パシフィックフィル、2023.3.『8番』上岡・新日フィル、2023.6.『5番』ミンコフスキ・都響、 2022.7.『9番』ダウスゴー・PMFオケ、
ご案内の様にブルックナーの交響曲に関しては、特に死後、修正版、改訂版、補遺稿などが多く出されており、これは彼の生前の作曲手法の一手法が弟子や関係者に引き継がれたと言って良いでしょう。
今回の演奏は交響曲9番です。 この曲について、若干捕捉します。
作曲着手は、1887年8月で、この時、第8番の第1稿は完成していましたが、演奏拒否により初演できず、そのため交響曲第9番の作曲は延期し、第8番の改訂やミサ曲の改訂、またさらに以前の交響曲の改訂などを行ったため第9番の作曲ができないまま、主に改定作業で数年間が過ぎてしまい、第9番の作曲は1891年になってやっと再開することが出来ました。そして1894年に第3楽章まで完成させます。再開した後も、かなり時間がかかっています。
この間ブルックナーは健康状態が思わしくなく、5階の部屋への階段の上り下りにも苦労する状態でした。そこで、オーストリア皇帝の配慮でベルヴェデーレ宮殿の平屋の管理人用住居が与えられました。その場所で最後の第4楽章の作曲を続けましたが、完成する前に世を去ってしまいます。1896年10月11日のことでした。
死期を悟ったブルックナーは、第4楽章の代わりに『テ・デウム』を演奏することを希望しました。しかし、各楽章とも20分以上の大作であり、規模が大きく完成度も『テ・デウム』より高いことから、第3楽章までで演奏を終えるのが普通でした
初演は1903年2月11日に、ブルックナーの弟子の一人であるレーヴェの指揮によるウィーンフィルの演奏で行われました。しかし、この時、演奏されたのはレーヴェにより改訂されたヴァージョンでした。この曲の特徴であるグロテスクさのある不協和音などは、変えられていました。
その後、弟子たちの改訂を取り除いた原典版を作成することが出来て、これは1930年代になってやっと演奏されました。
現在の1楽章から3楽章のバージョンはハース版とノヴァーク版がありますが、ブルックナーの書いた原典版をもとに作成されており、極端な差はありません。第4楽章は、最近になって色々な人により輔弼復刻の試みがされており、今回はサマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカの人達による補筆完成版 (2012年)に従って演奏されます。
第1楽章Feierlich, misterioso
第2楽章. Scherzo. Bewegt, lebhaft – Trio. Schnell
第3楽章. Adagio. Langsam, feierlich
第4楽章Finale. Misterioso, nicht schnell
三菅編成弦楽五部14型。
トレモロの響き次第に大きな音に鳴って行くと金管群が堂々と分厚い斉奏を響かせ次第に全管弦の全奏に至りそれが下行していきます。これは将にブルックナーの醍醐味。その後Fg.の合いの手が入ると曲相が変わり、弦の穏やかな調べ(第2主題)が滔々と流れCb.がずっしりと低音部を押さえ、非常に耳当たりが良い箇所でした。続いて1Vn.中心のアンサンブルにFl.が合の手を入れ、さらに⇒弦楽⇒Hrn.⇒Vc.アンサンからゲネラル パウゼ(以下G.P.と略)に至る弦楽の美しさも素晴らしい。この楽章でも何回かG.P.と予期せぬ曲相の変化があり、この楽章だけで約30分もかかるという壮大な建築物の予感がしました。2楽章、3楽章、さらには4楽章と続くのですから気が遠くなる様な思いもしました。
第2楽章はスケルツォで、打って変わってテンポが速い軽快な音楽になります。木管の調べを背景に弦楽の速いPizzi.が縦横な音の動きを示したかと思うと、次に全楽の全奏でジャジャジヤツジャツジャンジャンジャンジャンといきなりエンジンがかかったポンプの様に大きく音を吐き出した。こりゃ迫力満点。この楽章、それが何回か(確か3回?)繰り返されました。このリズムと旋律が一番印象が深いです。
第3楽章、1Vn.アンサンがゆっくりと低音から高音さらに低音へとうねるが如き動きを見せ、背景ではHrn.の静かな調べが響き、途中からVc.アンサンブルの太い調べが鳴り始めるとFl.音が合の手を入れ再度Hrn.が滔々と鳴らされるのでした。
最終部の強奏では天と地がひっくり返るのではと思われる程のオーケストラの鳴らす轟音に、一種魂の叫びを感じる程でした。
最後は、自身の交響曲第8番第3楽章の冒頭や第7番第1楽章の第1主題などが、回想され、平穏な雰囲気で曲を閉じます。
第4楽章:
さて、補筆の第4楽章です。唐突に始まりました。ダイナミックで、斉奏が主題を表示します。輔弼者たちはあたかもジグソーパズルを組み合わせるようにブルックナーの素描(スケッチ)を組み合わせて編曲・補足していったのでしょうか?推敲には気が遠くなる様な時間が掛かったでしょう。
近代絵画特にピカソの絵画でも見ている感じです。以前も書きましたが、ブルックナーの交響曲は、一種モザイク画のようです。曲のG.P.で区切られる曲の断片、若しくは短い息継ぎの後の曲相の変わる一つの断片から別な断片へと変遷する、この断片を大きなカンバスに嵌め込んで、全体としての構築物を作曲していく手法、この手法は見方によってはカタルニアのサグラダ・ファミリアの建築物造成の手法に類似しているかも知れない(時系列駅にはその逆かも知れない)。先だってNHKで放送していたのを見ると、あの巨大な建造物をほんの一部の入り口の石組や飾り立ての彫刻をどの様にするか、全体設計図のない中で詳細設計を時には図面無しで職人技で部材を組み立てて構築する、その気が遠くなる様な作業が遂には終わりに近づき、壮大な寺院の完成に至るという道筋です。ブルックナーは、特に教会と密接につながりを持った人ですから、幾多の教会でオルガンの音を就中「即興」で弾いて出した時、その様々な響きの変化を心の中に沢山しまい込んでいたに違いありません。そうした部材を交響曲の作曲の際に持ち出して利用し、しかもG.P.とは、次の素材をどう弾き出してどの様に使うか考えた痕跡なのかも知れません。
実際この4楽章を聴いてみても、G.P.が何回も出て来ていて、その直前の曲素材の終盤は、旋律、和声、リズム、何れかに於いて素晴らしい響きを持ったものばかりで、しかも1楽章〜3楽章と比べてもいくばくの齟齬も違和感もない、最終楽章としての風格を感じる曲でありました。これを補遺・補筆した人々の苦労と工夫は将にブルックナーが作曲に際して生みの苦しみを味わったのと同じ様なものではなかったでしょうか。
何れにしても今回のPMFオーケストラという常設ではないですが、その素晴らしい伝統を引き継いで来て、又今後も引き継いで行くであろう楽団の、素晴らしい技量と若さ溢れる勢い、さらにはそれを現実の音として発現させたトーマス・ダウスゴーという指揮者に脱帽です。