HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ワーグナー『パルジファル』初日鑑賞Ⅰ.(第一幕)

【演目】舞台神聖祝典劇『パルジファル』(Bühnenweihfestspiel 「Parsifal" 」)

 

【登場人物】
・パルジファル(テノール) 無垢で愚かな若者として登場           

・グルネマンツ(バス) モンサルヴァート城の老騎士。のちに隠者。
・アン(アム)フォルタス(バリトン)  モンサルヴァート城の王。聖杯を守る。
・クンドリ(ソプラノ) 呪われた妖女。クリングゾルの手先となる。
・クリングゾル(バリトン) 魔術師。
・ティトゥレル(バス) アムフォルタスの父。先王。
・聖杯守護の騎士2人(テノール、バス)
・小姓4人(ソプラノ2、テノール2)
・花の乙女たち6人(ソプラノ、アルト)

【上演】東京二期会

【会場】東京文化会館

【上演日】2022.7/13.7/14.7/16.7/17(4日間)

【鑑賞日時】2022.7.13.(水)17:00~21:30(予定)

【上演時間】第1幕(90分)休(25分)第2幕(60分)休(25分)第3幕(70分)

【キャスト】四日間の会期をダブルキャストで上演。初日のキャストは以下の通り。

〇アムフォルタス:黒田 博(バリトン)

〇ティトゥレル:大塚 博 (バス)

〇グルネマンツ:加藤宏隆(バス)

〇パルジファル:福井 敬(テノール)

〇クリングゾル:門間信樹(バリトン)

〇クンドリ  :田崎尚美(ソプラノ)

〇第1の聖杯の騎士:西岡慎介(テノール)

〇第2の聖杯の騎士:杉浦隆大(バス)

〇4人の小姓:清野友香莉、郷家暁子、櫻井 淳、伊藤 潤 

〇花の乙女たち:清野友香莉、梶田真未、鈴木麻里子、斉藤園子、郷家暁子、増田弥生

〇天上からの声:増田弥生

⚫(演技)少年:福長里恩

⚫(演技)母:白木原しのぶ

【主配役のProfile】

〇福井敬(パルジファル役) 

   

1962年岩手県生まれ。国立音楽大学及び同大学院修了。文化庁在外派遣等により渡伊。イタリア声楽コンコルソミラノ大賞(第1位)、芸術選奨文部大臣賞新人賞、五島記念文化賞オペラ新人賞、ジロー・オペラ新人賞及びオペラ賞、出光音楽賞、エクソンモービル音楽賞本賞、等受賞多数。

 2015年には二期会「ドン・カルロ」の優れた演唱等により"第65回芸術選奨文部科学大臣賞"を受賞。二期会「ラ・ボエーム」ロドルフォ役での鮮烈デビュー以来、数々のオペラに主演。

 古典から現代、日本の創作物まで、手掛けたオペラは60を数え、新国立劇場「ローエングリン」「トスカ」「罪と罰」等、びわ湖ホール「ドン・カルロ」「スティッフェーリオ」「こびと」等、藤沢市民オペラ「道化師」「魔笛」等、二期会「カルメン」「蝶々夫人」「ファウストの劫罰」等大役を次々と演じる。特に「トゥーランドット」カラフ役は様々なプロダクションで絶大な称賛を得ている。

 近年では二期会「オテロ」「パルジファル」「ホフマン物語」「ダナエの愛」、びわ湖&神奈川県民ホール「アイーダ」「タンホイザー」「椿姫」「ワルキューレ」「リゴレット」「オテロ」「さまよえるオランダ人」、兵庫県立芸術文化センター「トスカ」等で、英雄的かつノーブルな存在感、深い苦悩の表現で観客を魅了。各々の異なる様式感を的確に表現し切り、プロダクションの全てを高いレベルで成功に導いた。2016年9月には東京二期会ワーグナー「トリスタンとイゾルテ」に出演、題名役トリスタンを演じた。「第九」や宗教曲のソリストとしてもN響を始め主要楽団と共演。2016年10月にはズービン・メータ指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と「第九」のソリストとして共演。またオリジナリティ溢れるリサイタルにおいても彼の世界観に多くの人が共感し続けている。国立音楽大学教授。

〇加藤宏隆(グルネマンツ役)

   

静岡県袋井市出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。2004年、第5回浜松市民オペラ「魔笛」パパゲーノでオペラデビューし、その後アメリカに留学。ジョンズ・ホプキンス大学ピーボディ音楽院修士課程修了。インディアナ大学ジェイコブス音楽院ディプロマ課程修了。
アメリカでは、ジョン・シャーリー=カーク、ベニータ・ヴァレンテ、ケヴィン・ランガン、ヴィンソン・コール、キャロル・ヴァネス、アンドレアス・プリメノス等、世界的な演奏家諸氏のもと研鑽を積んだ。
イタリア・フィレンツェへの短期留学も経験する。

アメリカ国内では「ファルスタッフ」ピストーラ、「フィガロの結婚」フィガロ、バルトロ、「ホフマン物語」リンドルフ、ミラクル博士、「魔笛」パパゲーノ、弁者、「利口な女狐の物語」ハラシタ、「セビリアの理髪師」バジリオ、「愛の妙薬」ドゥルカマーラ、「蝶々夫人」シャープレス、「ジャンニ・スキッキ」シモーネ、「ドン・パスクアーレ」ドン・パスクアーレ等で多くのオペラにソリストとして出演、新聞各紙上で好評を博した。
 2011年にはバーナード・ランズ作曲、オペラ「ヴィンセント」世界初演、ゴーギャン役に抜擢される。また米国アスペン音楽祭へ2年連続で参加し、ブリテン「真夏の夜の夢」シーシアスでの出演等、多くの舞台を経験。
 日本帰国後は東京を拠点に、オペラでは静岡県民オペラ「夕鶴」惣ど、東京・春・音楽祭「ファルスタッフ」ピストーラ、東京二期会「ドン・カルロ」宗教裁判長、「魔笛」武士2、「魔弾の射手」カスパール、日生劇場「アイナダマール」ホセ・トリパルディ、「後宮からの逃走」オスミン、「ルサルカ」森番、第7回浜松市民オペラ、宮川彬良作曲「ブラック・ジャック」(世界初演)猪一等に出演している。
オペラ以外にも、バッハ・コレギウム・ジャパン声楽メンバーとして、演奏会や録音に参加するなど、宗教音楽の分野でも活躍。コンサートソリストとしては、ヘンデル「メサイア」、フォーレ「レクイエム」、モーツァルト「レクイエム」「大ミサ曲ハ短調」、バッハ「マニフィカト」「ロ短調ミサ曲」「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」、ベートーヴェン「第九」などで出演多数。2021年4月、「リッカルド•ムーティ、イタリアオペラアカデミーin東京」に、「マクベス」バンコで参加。二期会会員。

〇田崎尚美(クンドリ役) 

 

会津若松市出身。福島県立会津女子高等学校卒業。東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。卒業時にアカンサス音楽賞及び同声会賞を受賞。同大学院修士課程オペラ科修了。二期会オペラスタジオ第53期マスタークラス修了。修了時に優秀賞を受賞。第55回全日本学生音楽コンクール(高校の部)東京大会第2位。第八回藤沢オペラコンクール奨励賞。
オペラはこれまでに、『魔笛』侍女Ⅰ、『ファルスタッフ』アリーチェ、『ラ・ボエーム』ミミ。『蝶々夫人』『アイーダ』『カルメン』(抜粋)タイトルロールで出演。コンサートでは「第九」や「マーラーの四番」などに出演。
ソリストとして東京交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団などのオーケストラと共演している。二期会公演『サロメ』タイトルロール、びわ湖/神奈川県民ホール『タンホイザー』エリーザベト、『ワルキューレ』ブリュンヒルデのカヴァーキャストを務め、舞台へ貢献した。
2012年『パルジファル』(飯守泰次郎指揮、クラウスグート演出)クンドリで二期会デビュー。堂々たる歌唱で聴衆を魅了した。2013年には『ワルキューレ』ゲルヒルデで出演。本年9月、二期会公演『イドメネオ』エレットラにて出演、好評を博した。技巧と強い声を併せ持つソプラノ。二期会会員。

〇黒田博

  

1963年京都府生まれ。1981年(昭和56年)京都府立朱雀高等学校卒業。1985年(昭和60年)京都市立芸術大学卒業蔵田裕行佐々木成子に師事。1988年(昭和63年)東京芸術大学大学院オペラ科修了。中山悌一原田茂生に師事。

1989年(平成元年)より2年間イタリアScuola Musicale di Milanoへ留学[1][7]ロゼッタ・エリーカルロ・メリチャーニアルド・プロッティに師事。

数多くのオペラに出演実績があり、昭和音楽大学オペラ情報センターだけでも86件の出演歴がある。モーツァルトを得意とし、『フィガロの結婚』フィガロ、アルマヴィーヴァ伯爵、『魔笛』パパゲーノ、『ドン・ジョヴァンニ』タイトルロールなどは自身の“陣地”だという[8]。他にもレパートリーは現代作品やミュージカルまで幅広く、2021年(令和3年)7月にはテアトロ・レアルベルギー王立モネ劇場フランス国立ボルドー歌劇場との共同制作公演 東京二期会オペラ劇場ヴェルディファルスタッフ』タイトルロールに出演予定である。

オペラだけでなくコンサートにおいてもバロックから現代ミュージカルまで幅広く出演しており、ソロリサイタルにも取り組んでいる。また、オペラ歌手による男声クラシカル・クロスオーバーユニット「THE JADE(ザ・ジェイド)」のメンバーとしても活動している。

音楽教育者として後進の育成にも注力している[7][12]。2004年(平成16年) - 2008年(平成18年)国立音楽大学非常勤講師。2007年(平成19年) - 2009年(平成21年)東京学芸大学准教授。2009年(平成21年) - 2016年(平成28年)国立音楽大学准教授。2020年(令和2年)現在国立音楽大学教授、後身の育成・指導にも尽力。

 

【管弦楽】読売日本交響楽団       

【指揮】セバスティアン・ヴァイグレ
【合唱】二期会合唱団

【合唱指導】三澤洋史

【演出】宮本亞門

【演出助手】三浦安浩、澤田康子

【装置】ボリス・クドルチカ
【衣裳】カスパー・グラーナー
【照明】フェリース・ロス
【映像】バルテック・マシス
【舞台監督】幸泉浩司
【公演監督】佐々木典子
【公演監督補】大野徹也 

 

【粗筋】

〈第1幕〉
前奏曲。グルネマンツと小姓たちが傷の治療のために湖へ向かう王を待っているところへ、クンドリが現れ、アムフォルタス王の薬を託す。かつてアムフォルタスはクンドリに誘惑され、聖槍を奪われて傷つけられていた。癒えない傷口からは、絶えず血が流れ出し、罪の意識を伴ってアムフォルタスを苦しめた。グルネマンツは魔法使いクリングゾルの邪悪と、王を救うための神託について語る。神託とは、「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」というものであった。そこへ、湖の白鳥を射落とした若者が引っ立てられてくる。グルネマンツはこの若者こそ神託の顕現ではないかと期待し、若者を連れて城へ向かう。城内の礼拝堂で、聖杯の儀式が執り行われる。しかし、傷ついているアンフォルタスにとって、儀式は苦悩を増すものでしかない。官能への憧れと罪への苦痛、死への願望がアムフォルタスを襲う。先王ティトゥレルの促しによって、聖杯が開帳される。しかし、若者は茫然として立ちつくすばかり。グルネマンツは失望して若者を追い立てる。

 

〈第2幕〉
短い前奏曲。クリングゾルの魔の城。クリングゾルの呼びかけに応じてクンドリが目覚める。クリングゾルはクンドリに、魔の城に侵入した若者を誘惑し堕落させるように命じる。クンドリは抵抗するが、結局言いなりになるしかない。若者は襲いかかってくる兵士たちをなぎ倒して進むうち、クリングゾルの魔法によって、あたりは花園になる。花の乙女たちが無邪気に舞いながら若者を誘う。やがてクンドリが「パルジファル!」と呼びかけ、初めて若者の名が明かされる。クンドリはパルジファルの母親の愛を語り、接吻する。ところが、この接吻によって、パルジファルは知を得て、アムフォルタスの苦悩を自分のものとする。なおもクンドリはパルジファルに迫り、クンドリの呪われた過去も明らかになる。しかし、パルジファルはこれを退ける。誘惑に失敗したと悟ったクリングゾルが現れ、聖槍をパルジファルめがけて投げつける。聖槍はパルジファルの頭上で静止し、パルジファルがそれをつかんで十字を切ると、魔法が解け、城は崩壊して花園は荒野と化す。

 

〈第3幕〉
前奏曲は、パルジファルの彷徨・遍歴を示す。第1幕と同じ場所で、隠者となったグルネマンツは倒れているクンドリを見つける。そこに武装した騎士が現れる。騎士はパルジファルだった。いまやアムフォルタスは聖杯の儀式を拒否し、先王ティトゥレルも失意のうちに没し、聖杯の騎士団は崩壊の危機に瀕していた。クンドリが水を汲んできて、パルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水をかける洗礼の儀式。パルジファルもまたクンドリを浄める。泣くクンドリ。ここから聖金曜日の音楽となる。3人は城に向かう。城では、騎士たちの要請によって、ティトゥレルの葬儀のための儀式が、これを最後に始まろうとしていた。アムフォルタスは苦悩の頂点に達し、「我に死を」と叫ぶ。そのとき、パルジファルが進み出て、聖槍を王の傷口にあてると、たちまち傷が癒えた。パルジファルは新しい王となることを宣言、聖杯を高く掲げる。合唱が「救済者に救済を!」と歌う。聖杯は灼熱の輝きを放ち、丸天井から一羽の白鳩が舞い降りて、パルジファルの頭上で羽ばたく。クンドリは呪いから解放されてその場で息絶える。

【解釈について】
『パルジファル』の題材となった聖杯伝説は、キリスト教に基づく伝説である。だが、『パルジファル』は、誘惑に負けたアムフォルタスの救済が、単に純潔というだけでは達成されず、共に苦しんで知を得る愚者によってなされる、という「神託」の実現が物語の中核をなしており、キリスト教的というより、むしろ独自の宗教色を示しているといえる。

本作に登場する聖杯騎士団やクンドリやクリングゾル、聖杯(グラール)と聖槍(ロンギヌスの槍)など各モチーフについても、多義的な象徴性を持っていて、さまざまな解釈がある。とくに、最後を締めくくる「救済者に救済を!」という言葉は逆説的で、議論・研究の的ともなってきた。具体的には、本作で救済されるのは、アムフォルタスとクンドリ、それに聖騎士団ということになろうが、アムフォルタスらは聖杯の「守護者」ではあっても「救済者」とはいえない。では「救済者」とは、彼らを救済したパルジファルのことであろうか、それとも、イエスその人であろうか、はたまた作曲者のワーグナー自身であろうか、といった様々な解釈が考えられる。また、「救済」そのものについても、各種の説がある。例えば、救済ですべてが解決するのではなく、救済者もまたいずれ救済を必要とするようになるという「運命論」的考え方もある。

ワーグナーは、キリスト教の起源はインドにあり、この純粋な「共苦」(Mitleid)の宗教をユダヤ教が「接ぎ木」をして歪めたという問題意識を持っていた。 後にハルムート・ツェリンスキーは制作当時の彼の書簡や日記を丹念に分析し、この「救済者」とはキリスト(教)のことであり、救済とはキリスト教に加味された不純なユダヤ的要素を祓い清めることを意味していた、と結論づけた。 いずれにせよ、音楽、文学、神話、宗教、哲学、民族などについての幅広いワーグナーの思索活動が、広範で多層的な解釈を呼び起こしているのです。

 

【楽器編成】
フルート3、オーボエ3、イングリッシュホルン、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ2人(2対)、ハープ2、弦5部(16型)

舞台裏に鐘6個、トランペット6、トロンボーン6、中太鼓、サンダーシート

『ニーベルングの指環』以来の4管編成の名残り有り。

【上演時間】
全曲約4時間半(各幕120分、70分、80分)。指揮者による変動が非常に大きく、3時間40分未満から4時間40分を遥かに超える指揮者までいろいろ。

 

【上演の模様】

 今回の演出は、2020年宮本亜門演出の仏、国立ラン歌劇場での公演と同じ設定とのことです。舞台は美術館の設定、演出家の言葉では、❝昔からの因習や戦争等で苦しんでいる人達の霊が浄化出来ずにたまっている場所=美術館でのドラマの展開❞だそうです。成る程、確かに歴史的なモチーフを題材とした絵画を多く収蔵している美術館は、欧米に沢山存在し、”霊が浄化されずにたまっている” かどうかはさて置き、キリスト教的内容が主となって構成されるオペラに於いては、美術館のキリスト教的絵画を多く観客の目に触れさせることは、時代設定の雰囲気を醸し出すには、好都合です。その点は一つのアイデアだと思う。しかも美術館の展示場をパーテッションで仕切ることは展覧会で目にするありふれた風景で、それを沢山しつらえて回り舞台で場面転換する演出はそう珍しいことではないものの、今回の演目では成功したと言えるでしょう。実際には、壁面の展示絵画の他に20枚弱の大小様々な絵を天井から釣るし、大きな背景バネルの様な役割をする絵画の殆んどが、キリスト教的事件の場面でした。確か十字架に掛けられたイエス・キリストの絵もあったと思います。その殆どは、何の場面かは明確ではなかったのですが。ある程度このオペラの歴史性とキリスト教的雰囲気を醸し出してはいた。長い前奏曲の演奏中にこの美術館への登場人物、オペラキャストではない母子の入館、エピソード、館内パーテーションの移動などが無言劇の様に進行して行きました。ここでの子供はパルジファルの分身とも見なせない訳では無いですが、先だってのオペラ「ペレアスとメリザンド」のメリザンドの分身のことを思い出し、オペラの進行過程でどの様な役回り効果を上げられるのか少し懐疑的な目で見ていました。

 

〈第一幕への前奏曲〉 

 前奏曲は、ワーグナーの他の前奏曲では見られない程の長い種々のライトモティーフが続き、あたかも時間感覚が曖昧にされている様な(極論すれば現代から中世にタイムスリップする様な)感覚に陥ります。ラートモティ-フは例えれば、建物を建てる際にあらかじめ工場で量産しておいた組み立て部材の様なもので、様々な形状、大きさの部材があり、大雑把に言うと、それを象嵌細工の様に建築物の各処にはめ込んで置き、歌・演技・オーケストラで構成される構造物の各処に於いて、その場の歌を支持増強したり、或いは歌では表せない内容を補充したりする役割をするのです。例えば、桂離宮の和室に座って日本式座敷を堪能していて、ふっと欄間を見上げたら「ルネッサンス様式の花鳥風月」文様が見える感じ(こんなことは絶対に有り得ませんが)。このオペラでは最初の前奏曲で、幾つか別の場面でもオペラを構築する素材となる重要ライトモティーフが10分以上も続きました。聖餐の動機、聖杯の動機(ドレスデンアーメン)、信仰の動機、等々。複数の楽器を同時に演奏させることにより(楽器が特定しにくい)響きや、柔らかな印象を与える変イ長調の使用などにより、ワーグナーは神秘的な雰囲気を出すのに成功しています。『ローエングリン』前奏曲がイ長調であるのに対し、『パルジファル』前奏曲がそれより半音低い変イ長調で書かれていることは、より柔らかい、くぐもったような雰囲気を表出することに役立っていると考えられます。曲は次第に重苦しくなっていき、やがて「聖杯の動機」が希望を示すかのように繰り返され、第一幕へとつながっていくのでした。         

 ピットのオケは、ヴァイグレ読響。指揮台に昇り挨拶を終えるとすぐに弦楽アンサンブルを響かせ始めました。ゆったりと堂々と、でも少ーし早めのテンポかな?いい響き。管も入って、イングリッシュホルン、クラリネット、ファゴットが味付けをしています。次いでホルンの響きがファンファーレを鳴らしました。変奏して少しづつ調性を上げて三回鳴らし、弦楽のあとに続く管、それから弦のトレモロゆっくりゆっくり進みます。耳をこらして聞いていたら、最初のHR.の一つがファンファーレ斉奏から若干外れたり、Fl.ソロの音色が僅かに先鋭化されていない事が少し気になりましたが、概ね順調な出だしと言えるでしょう。

 舞台には老騎士グルネマンツが杖を携え登場、森番(従者?)の青年二人に、王が沐浴に来るので、お迎えせよと命じて歌うのでした。グルネマンツ役の加藤さんは、それ程見栄えのする深い声質では無いですが、若いのに如何にも老人が歌うと言った感じで、卒無く歌い始めました。グルネマンツはこの第一幕は出ずっぱりで、加藤さんは獅子奮迅といったところ、でも若さ故でしょうか、後半の幕でも全然疲れた感じはしませんでした。

 彼の前に走り出した女性がいました。それが、悪名高いクンドリです。彼女はビーストの様に地を這いずり回わり、伏せて眠りこけることも度々。悪魔に魅入られた魔術師クリングゾルの手先として動いていて、以前アムフォルタス王から聖槍を盗み出してそれで以て魔術師は王の脇腹を刺し、この聖杯の国を危うくさせた元凶でした。でもその後、魔術が切れるごとに反省して、王に薬草などを届けたりしていたのです。今回も何か手に持ったものをグルネマンツに渡しました。やはり治療のアラビアの薬の模様。クンドリの歌は短い会話程度でしたが、クンドリ役の田崎さんのソプラノの第一声は、綺麗な伸びやかな歌声でした。でも模範生の歌だったかな?欲を言えば悪女というか妖女というかもう少し毒を持った女の歌唱の味を出して欲しい気がしました。まー最初ちょっと聞いただけでの感じでしたが。        

 続いて担架に乗せられ、でなく現代的に車椅子に乗り騎士(ヘルパーさんかな?)に押されて登場した城の主(あるじ)アムフォルタス王はぐったりして、夜が眠れない程傷がいたむこと、アラビアの薬を届けてくれたクンドリに礼をいい薬を試めそうと去るのでした。

 この第一幕は一番長くて、物語の核心に触れる多くの内容を含みます。先ず①神聖王国の王者だった現王アムフォルタスが聖槍を失い傷つき、未だに癒えない状況に関して、②先の王ティトゥレルが神の信託を受けて、キリストの流血に関わる聖槍と聖杯を守る神聖王国をたてた経緯、③として、アンフォルタス王が熱烈に神に救いの印の到来を祈った処、①の状況を脱するのは「共に苦しみ悟りを得る❝清らかな愚者❞を選んだ。その到来を待つが良い」との神のお告げが、聖杯からのこぼれる光の文字として読めたこと等をグルネマンツ役の加藤さんは長々と歌うのでした。加藤さんは余程鍛えていたのでしょう。安定した歌唱で勢いを失うことなくこの幕では一番の大活躍ぶりでした。

それからこの第一楽章の後半の大きな出来事として、白鳥を射落としてしまう愚かな行為をした少年が捕まり、グルネマンツの前に引き出されたことです。

グルネマンツは少年に❝GURNEMANZ聞いたこともない所業だ・・・!よくも殺せたものだな?・・・この神聖な森で、静かな安らぎがお前を包んでいたのに。神の森の獣達は人懐っこくお前に近づいて来なかったか?お前に善良で親しげな挨拶を送らなかったか?枝の合い間から小鳥達が歌わなかったか?この忠実な白鳥が何をしたと言うのだ?連れ合いの雌を追って飛び上がり、雌と一緒に、湖上に輪を描き、湖を清めて、水浴にふさわしい素晴らしい光景にしたのだ。お前は驚嘆の念を抱かなかったか?子供っぽい弓矢ごっこに誘われただけだったというのか?わしらの愛らしい白鳥・・・お前はどう感じたのだ?見るがいい・・・ここをお前は射抜いたのだ。まだ血がべったりとこびりつき、両の翼はだらんと垂れている。雪のような羽毛が、どす黒く、しみになっているぞ?眼の色は濁り・・・お前まともに見られるか?❞と決して怒らず諭すように歌うのでした。ゲルネマンツが、どこから来た?名前は?等いろいろ訊いても何も答えられない少年、さらにし知っていることを何でもいから教えて呉れと訊くと

❝自分には母さんがいる。弓は自分で作った、鷲を追うために❞等と返答すると、黙ってそれを聞いていたクンドリーが突然、叫んだのです。

❝お母さんは父無し子を産んだ。父親ガムレットが討ち死にした時に。息子が同じ目に遇わないように武器は与えず、人郷離れてバカな息子を育てたのだ。バカな女だ❞と乱暴に叫んで歌うのでした。家出してしまった息子を母親は心配していたこと、さらにその後母親は死んでしまったこと、その時息子に宜しく伝えておくれと頼んだことなどを見たことの様に歌います。実際クンドリは見ていたのですね。ここでの田崎さんは冒頭のおしとやかな歌い振りでなく、野性味たっぷりの歌い方をしていました。声に強さもありました。一方、この場で初登場のタイトルロールを歌い始めた福井さんは、最初からテノールの美声を張り上げていました。声量も声質も目を瞑って聴いて居れば申し分ないパルジファルです。唯問題なのは舞台に登場した時から、やっとパルジファルのお出ましだと分かりましたが、歌を聞いているのと舞台上で演ずる福井さんの姿には大きなギャップが感じられ、歌は上手でも何となく歌う言葉との間にしっくりしないのです。何故ならここに現れた白鳥殺しの少年は、歌でもグルネマンツは、❝Sag, Knab' – erkennst du deine grosse Schuld?❞と呼びかけ、クンドリーも Ja! Schächer und Riesen traf seine Kraft;den freislichen Knaben ürchten sie Alle.❞と言って、Knab即ち「男の子、少年、童、若者、若造」と言ってるのです。どう見ても福井さんは若者には見えません。いくら装束等で扮装しても無理です。それもそうですよ。テノールの大御所で還暦程の大家がいくら素晴らしい歌が歌えても、このタイトルロールを歌うのははっきり申し上げて大矛盾、これでは秦の趙高になってしまいます。最も今回の亜門演出では、美術館仕立て演出の他に、演技(と言ってもただ舞台を歩いたり走ったり、パルジファルに手を差し出したりする)のみの歌わないキャストを登場させていて、それがパジルファル登場場面では必ず、その他の場面でも出没させていました。先日見たオペラ『ペレアスとメリザンド』でのメリザンド双生とも思われる少女の存在にちょっと似た役割でしょうか?福井さんと同時出現する少年でパルジファルのイメージを目で見、歌は福井さんを聴けとの試みなのでしょうか?その様な器用なことは出来ない自分としては、チョロチョロ動き回って目障りだっただけです。そう思わない人もいることでしょうが。

また第一幕最後の圧巻な場面は、お城の場面となり、沐浴から戻ったアムフォルタス王が再び舞台に現れ、聖杯の儀(愛の聖餐)を執り行わんとする場面です。聖杯が置かれたテーブルの背後にはひときわ高い階段があってその上段に亡くなった先王(の亡霊?)が立って見守っています。騎士たちが聖なる儀式を求める歌を高らかに

歌い、先王もあたかも墓の中からの歌声を発てているように、❝我が息子アンフォルタスよ、勤めは果たしているか?❞、❝救世主の恩寵により、私は墓の中で生きている。お仕えするには、私はあまりに弱り切っている。お前が奉仕して罪を償うのだ!
聖杯の覆いを取れ!❞ としきりにせかすのですが、アムフォルタス王は死に瀕した体調なので期待に応えられず長大な歌を歌うのでした。

❝(少年たちに向かって身を起こしながら)やめろ!覆いを取ってはならん!・・・ああ!誰にも分かってもらえぬとは!皆の者に喜びを もたらす光景は、私には苦悩を呼び覚ますのだ!この傷、この猛威を振るう痛みすら、何であろう!この務めを果たせと強いられる苦しみ、この地獄の責め苦に比べれば!私が受け継いだ悲しい務め・・・それは、皆のうちにあってただ一人の罪びとである私が、至高の祭儀を司り、清らかな者達のために、恩寵を請い願うこと!ああ、罰を!最高の罰を!
ああ、辱めを受けし恩寵の主・・・!あのお方を、あのお方の聖なるまなざしを
私は憧れ求めずにはいられない。魂の奥底から、救いを求めて悔い改め、あの方にたどりつこうとせずにはいられない。その時が近づく・・・一条の光が、神器の上に落ちる・・・覆いが取られる。(凍りついたように虚空をじっと見つめながら)
聖なる器の神々しい神体が激しい光とともに赤々と輝きはじめると、我が体は、至福の悦楽の痛みに貫かれ、心には至聖の血潮が注ぎ込まれるのを感じる・・・だがその時、私自身の罪深き血のざわめきが狂気のように逃げ惑いながら私に向かって逆流し始め、罪を求めてやまない世界に向けて、怖気を振るいつつも荒々しく流れ込んでいく。そして、その門を新たに突き破ると、そこから奔流のように流れ出て、あの方と同じこの傷口を通り抜けていく。そう、あの槍の一撃によって付けられた傷・・・
同じ槍が、救世主をも傷つけたのだ。しかし、あの神の人は、その傷を負いながらも、血の涙を流し、共に苦しむことをあこがれ、人類の恥辱のゆえに泣き給うた。
ところが、同じ聖なる傷口なのに、私はどうだ・・・最高の神器を所有し、救済の秘薬を守護する私の傷からは、熱く罪深い血がドクドクと湧き出して、あこがれの泉から永遠に甦り、いくら懺悔しても、ああ!・・・決して静められない!あわれみを!あわれみを!全世界を憐まれる方!ああ、憐みを!私が受け継いだ務めを取り去り、
この傷を閉じてください。私が安らかに死に、清らかな身となって御前で癒されるように!❞

 随分王たるものが情けないことを吐露するのですね。弱音も弱音、死んでしまいたいとは、キリスト教徒ならたとえそう思っても、口には出してはいけない事ではないのでしょうか?それだけ傷口等の病苦と責任を果たせないという苦悩に耐えきれない限度一杯の所に来ているのでしょうけれど。ここでのアムフォルタス役の黒田さんの歌唱は、さすがと思う程の歌い振りでした。病人の有りったけの声を張りあげ、天の神に叫び求めるバリトンの歌は、一幕の迫真の場面の一つと言えるでしょう。先王役の大塚さんも本来いい声をしていますが、何せ死者ですから抑制した歌う振りでした。

 ここでもう一つ見ものなのは、グルネマンツが例の白鳥殺傷少年を一緒に連れて来て、聖餐の儀にどんな反応を示すのか?試したことです。ひょっとして、神の啓示通りの「無垢な愚者」かも知れないという期待もありました。でも聖餐の儀を見てどう思った?見て分かったか?と少年に訊いても首を振る少年、グルネマンツは腹を立てて、矢張りただの馬鹿だったのだ、と思って少年を出て行け!と場外に突き飛ばしたのでした。

《続く》