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綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『都響944回定期演奏会(大野+小林(愛))』を聴く

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【日時】2022.2.28(月)19:00~

【会場】東京文化会館

【管弦楽】東京都交響楽団

【指揮】大野和士

【独奏】小林愛実(ピアノ)

【Profile】

<大野和士> 

  都響およびバルセロナ響の音楽監督、新国立劇場オペラ芸術監督。2022年9月、ブリュッセル・フィルハーモニック音楽監督に就任予定。1987年トスカニーニ国際指揮者コンクール優勝。これまでに、ザグレブ・フィル音楽監督、都響指揮者、東京フィル常任指揮者(現・桂冠指揮者)、カールスルーエ・バーデン州立劇場音楽総監督、モネ劇場(ベルギー王立歌劇場)音楽監督、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィル首席客演指揮者、フランス国立リヨン歌劇場首席指揮者を歴任。フランス批評家大賞、朝日賞など受賞多数。文化功労者。2026年3月まで3年間、都響音楽監督の任期が再延長された。2017年5月、大野和士が9年間率いたリヨン歌劇場は、インターナショナル・オペラ・アワードで「最優秀オペラハウス2017」を獲得。自身は2017年6月、フランス政府より芸術文化勲章「オフィシエ」を受章、またリヨン市からリヨン市特別メダルを授与された。2019年7~8月、大野和士が発案した国際的なオペラ・プロジェクト「オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World」の第1弾として『トゥーランドット』を上演。国内3都市の計11公演を自ら指揮して成功に導いた。

<小林愛実>

2021年10月「第18回ショパン国際ピアノコンクール」 第4位入賞。
1995年山口県宇部市出身。3歳からピアノを始め、7歳でオーケストラと共演、9歳で国際デビューを果たす。
これまでに、スピヴァコフ指揮モスクワ・ヴィルトゥオーゾ、ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ、ジャッド指揮ブラジル響、ポスカ指揮チューリッヒ・トーンハレ管など国内外における多数のオーケストラと共演している。
2010年14歳でEMI ClassicsよりCDデビュー。サントリーホールで日本人最年少となる発売記念リサイタルを開催した。
翌2011年にはセカンドアルバム「熱情」をリリース。
2015年10月「第17回ショパン国際ピアノコンクール」ファイナリストとなった。
2018年4月、 ワーナークラシックスよりCD「ニュー・ステージ~リスト&ショパンを弾く」をリリース。同年8月には、ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノ音楽祭に出演し好評を得た。
2021年8月 ワーナークラシックスより最新CD「ショパン:前奏曲集 他」をリリース。

【曲目】

①ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58』

②ショスタコーヴィッチ『交響曲第10番ホ短調Op.93』

 

【曲目解説(Program noteより)】

①Beetvn『Pf con.4』

 この協奏曲は1803年頃からスケッチがなされ、1805年から翌年にかけて作曲されたもので、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の中期の“傑作の森”と呼ばれる作品群中の1曲である。この協奏曲の作曲中には、1804年の交響曲第3番《英雄》やピアノ・ソナタ《ワルトシュタイン》、1805年のピアノ・ソナタ《熱情》、1806年のヴァイオリン協奏曲や3曲セットの弦楽四重奏曲《ラズモフスキー》などの大作が次々と生み出される一方で、交響曲第5番《運命》や第6番《田園》のスケッチや作曲も進められていた。ベートーヴェンはこれらの創作を通して、1曲ごとに従来の古典的な様式を超えた新しい表現を開拓している。
 このピアノ協奏曲第4番も、従来の協奏曲にはない新しい試み―例えば第1楽章がいきなり独奏ピアノで開始される点や第2楽章と終楽章を連続させている点など―が随所に窺われる意欲作である。全体にリリカルな性格を持っている点は、前作の劇的緊張に満ちたピアノ協奏曲第3番とは対照的だ。
 非公開の初演は1807年3月にウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で行われたと考えられている。また1808年12月22日ウィーンで、交響曲第5番や第6番の初演とともに彼自身の独奏で演奏されたという記録が残されているが、それ以前にすでに公開初演がなされていたかは明らかではない。
 第1楽章 アレグロ・モデラート ト長調 

    協奏風ソナタ形式をとっているが、管弦楽提示部の冒頭にまずピアノが第1主題を示す点が新機軸である。全体の流動的ともいえる調的な扱いも大胆で、それによって独特の叙情的な色合いが生み出されている。

   第2楽章 アンダンテ・コン・モート ホ短調 

   通常の歌謡的な緩徐楽章とは趣が異なり、鋭い付点リズムを特徴とする叙唱風の劇的な弦合奏と瞑想的なピアノとが交互に対話風に現れるという、意味ありげな間奏曲風の音楽で、短いながらも緊張感に満ちている。そのまま次の楽章に続く。

 第3楽章 ロンド/ヴィヴァーチェト長調 行進曲風の主題によって晴れやかな展開が繰り広げられていくロンド・フィナーレである。(寺西基之)

【楽器編成】              

 独奏ピアノ、フルート1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦5部

〈追加解説〉

ベートーヴェンが、この4番の曲を書いたのは、『ピアノ協奏曲第3番ハ短調』を完全な形で書き上げられてから、最初に演奏された翌年にあたり、またベートーヴェン唯一のオペラ作品『フィデリオ』の元となった作品『レオノーレ』初稿の初演が行われた年でもある。1805年に作曲に着手、翌1806年に完成させている。                                       オーケストラを従えてピアノ等の独奏楽器が華々しく活躍する協奏曲はピアニスト等の独奏楽器を奏でるプロ演奏家にとって自身の腕前を披露するのに適したものとされていたこともあり、従来の協奏曲ではオーケストラは伴奏役に徹するのが常で、実際の作品では、例えば冒頭部分に於いて、オーケストラが前座宜しく先にメロディを奏でていると後から独奏楽器が、まるで花道上に現れ歩みを進める主役の如く、やおら登場し華々しく歌い上げることが多いのであるが、進取の気風に満ちていたベートーヴェンは当楽曲でいきなり独奏ピアノによる弱く柔らかな音で始めるという手法を採り入れた。これは聴衆の意表を突く画期的なものとされ、驚きと感動をもたらしたと伝えられている。

更にベートーヴェンは伴奏役に徹しがちなオーケストラとピアノという独奏楽器を“対話”させるかのように曲を作るという手法も採り入れている。作曲当時使われていたピアノは現在流通しているものと比べて音量が小さく、それでいてオーケストラと対等に渡り合えるようにすべく、独奏ピアノの側にあっては分散和音やトレモロを駆使して音響効果を上げる一方、オーケストラの側にあっては楽章により登場楽器を限定したりしている《第1楽章ではティンパニーとトランペットを参加させず、第2楽章は弦楽合奏のみに限定》

当楽曲は完成の翌年・1807年の3月に先ずウィーンのロプロコヴィッツ公爵邸の大広間にて小規模オーケストラを使って非公開ながら初演され、翌1808年の12月22日に同じくウィーンに所在するアン・デア・ウィーン劇場に於いて公開による初演を行っている。何れもベートーヴェン自身がピアノ独奏を務めているが、かねてから自身の難聴が進行していたこともあり、当楽曲が自身のピアノ独奏により初演された最後のピアノ協奏曲となった。

なお当楽曲は、ベートーヴェンの最大のパトロンであり、また彼にピアノと作曲を学んだともいわれるルドルフ大公に献呈されている。

 

Shostako『Symfo10』

ソ連で活躍したドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)は、政府に批判された交響曲第9番(1945)以降、8年もの間、交響曲を発表していなかった。しかし、1953年3月に最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)が世を去ると、その年の暮れ、ショスタコーヴィチは、待っていたかのように交響曲第10番を発表した。初演後、ソ連ではこの交響曲の評価について議論が巻き起こったが、やがてこの曲はショスタコーヴィチの代表作となり、現在では第5番に次いでよく演奏される交響曲のひとつとなっている。
 しかし、この交響曲のテーマが何かということは、今も解明されてはいない。ただ、この曲を理解する上で、次の3つの音型がキーとなるであろうことは確実だ。
 1番目は、冒頭の「ミ―ファ♯―ソ」の3音だ。リストの《ファウスト交響曲》との類似が指摘されることもあるが、第1~3楽章はすべてこの音型(音高は異なるが全音~半音で上昇する)で始まる。
 2番目は、第3楽章と第4楽章に出てくる、「D−S−C−H」、すなわち「レ―ミ♭―ド―シ」の音型だ。これは、ショスタコーヴィチの名前をドイツ語で表記した D. Schostakowitsch の最初の4文字を音名として読んだもの(SはEs=ミ♭と読み替える)だ。名前を音名に置き換えるのは、バッハ、シューマンも用いた伝統ある方法だが、ショスタコーヴィチはこの「D―S―C―H」を自分の署名としてこれ以後愛用し、多くの作品に使っている。ちなみに、第1の音型を含む全曲の最初の4音「ミ―ファ♯―ソ―レ♯」を3度下げて並べ替えればこの音型になるので、第1の音型も作曲者自身の別の顔なのかもしれない。
 そして3番目は、第3楽章にだけホルンで登場する「E―A―E―D―A」、すなわち「ミ―ラ―ミ―レ―ラ」の音型だ。ほとんど変形も展開もされないのが特徴だが、これは、エルミーラ・ナジーロヴァ(1928~2014)という女性を表している。「E―A―E―D―A」の2番目のAをla、Eをmi、Dをreと読めば、「E―l(a) ―mi―r(e) ―A」、つまりエルミーラの名前になるというのだ。こじつけ臭いが、これは、エルミーラ宛の手紙に作曲者自身が書いていることなのだ(この音型はマーラー《大地の歌》の冒頭モティーフとも類似しているが、この類似について作曲者は、後になって気づいて驚いたと書いている。これを信じるならば、作曲時は意識していなかったということになる)。
 エルミーラはアゼルバイジャン出身のピアニスト・作曲家で、モスクワでショスタコーヴィチにしばらく師事した。しかし、師弟の本格的な交流が始まったのは1953年4月、彼女が結婚して故郷に帰ったあとだった。1953年7月25日の手紙で、ショスタコーヴィチは彼女との出会いを「生涯でもっとも大切な出来事」と書いたが、この手紙でショスタコーヴィチは交響曲第10番の作曲に着手したことを記している。
 この頃から2人の関係は親密さを増し、6月25日から10月30日の間に、エルミーラは18通もの手紙を受け取った。これらの手紙の中でショスタコーヴィチは交響曲の進行状況を逐一報告しており、8月21日の手紙では、エルミーラの名前を表す「E―A―E―D―A」の動機が第3楽章に使われることを書いている。「結果的にこうなりましたが、もしこういう結果にならなくても、私はあなたのことをずっと考えていたでしょう。この事実が私のくだらない原稿に記録されていようといまいと」
 作品が出来上がると、ショスタコーヴィチはこの曲のモスクワ初演にエルミーラを招待し、献辞を添えた楽譜を贈ったが、以後2人の交流は急速に疎遠になる。1956年9月13日の手紙で、ショスタコーヴィチはマルガリータ・カイノヴァ(2度目の夫人)との結婚を報告し、これをもって2人のやりとりは終わる。(増田良介)

 

【演奏の模様】

①ピアノ協奏曲4番

 ここ最近はベートーヴェンのピアノコンチェルトの中では4番が一番気にいっているのですが(5番の凄さはその後再確認中)、あのお洒落なスタート時の響きを、3楽章の軽快なリズムを、聴いてパリの幻想、ウィーン王宮広場での白馬にまたがる騎士が、跳んだり跳ねたり小回りをしたり自由自在に馬をコントロールしている幻想が頭に浮かびます。

 やはり4番は冒頭のチラつかせの技法や、キラキラと音を煌めかす調べや、5番程ではないですがダイナミックな動きなど、全体的に非常にあか抜けした、お洒落なコンチェルトだと思います。             

①ー1、Allegro moderato

 冒頭にピアノが主題のメロディをチラッと思わせぶりに流し、引き継いだオケが静かにアンサンブルを奏で始めます。次第にクレッシェンドされる高音弦、Vn,Vaの音にObが割り込み、低音弦は、Cb6 Vc8 Va10の大編成弦から成る迫力ある重厚なアンサンブル、特にピッツィカートで重々しく全体を引き締めています。立ち上がりとしては十分な大野都響の順調な滑り出しです。暫しオケの演奏を待って小林ピアノがアンサンブルに挑み始めました。しなやかな指使いでしかも力の籠った音を紡ぎ出し始める。再開時もそうでしたが、小林さんは時々指揮者の方を見つめるものの、それを大野さんは一瞥もせず、オケの指示に没頭しています。ソリスト演奏はオケに合わせてくれると安心して、任せ切っているのでしょうか。小林さんも大したものオケに些かの齟齬なくピッタリ付けています。初盤の小林さんの演奏は、思っていた通り立派なものでしたが、敢えて言えばやや平坦だったかな?もう少しメリハリがあって欲しいなと思っていたら、演奏が進むにつれその将に「メリハリの効いた」素晴らしい演奏を披露してくれたのです。オケとPfが交互に対話する如き演奏のやり取り、Obの調べに合わせて上行するピアノ、二回繰り返した後の高音部でのppの速度変化と、この辺りは変げ自在、表情豊かな演奏になっていました。後半のカデンツア部に至って小林さんは一層力を込めて華麗と言って良い程の音を繰り出していました。バックハウスの録音など聴くとこの辺りは割りと軽やかに弾いているのですが、小林さんはオケのアンサンブルに一歩も引けを取らない強い表現で変奏を繰り返しました。欲を言えば、最後高音部でテーマを弱音で繰り返した後、右手のみ、或いはクロスして演奏などの箇所を通過点として最後オケが入った終焉部はオケ全奏の音に負けないはっきりと聞こえる音を出していましたが、どうでしょう?小林さんなら出来そうだと思うのですが、最後のパッセッジをピアノが壊れる位の強打でオケを圧倒しては? 後半のピアノとのやり取りではObの音が良く響いていたのに対しFtが時として聞こえない位あまり存在感が無かった。

①ー2、Andante con moto Rondo.Vivace

 冒頭のオケのアンサンブルの導入部迫力がありました。今日の大野都響は指揮者との一体感が強く感じられる。オケに続き、小林さんはゆっくりとしっとりと弾き始めました。かなりスローなテンポだと思いました。でも曲想は良く掴んで表現していました。この様な表現(cantabile、molt espressivo)が出来る箇所でも小林さんは力を発揮するピアニストなのですね。前章と同様にカデンツァでも、しっかりと音を出していましたが、ゆっくり過ぎの箇所もあり少し気になりました。余りに緩徐の差が大き過ぎていいものとは一概に言いません。全体としてこの楽章もやや平坦感があったかな? 最後間髪を置かず、アタッカ的に次楽章に進みました。

 

①ー3、Rondo Vivace

 速いテンポのリズミカルで軽快な調べが迸り始めます。小林さんは体格がそれ程大きくなく細腕の女性に見えますが、余程腕と手の骨格ががっしりしているのでしょう、この楽章では腕と指の他に体も使って軽やかだけれど歯切れの良い強い音を繰り出していました。カデンツァでの小林さんの疲れを知らない若々しい力強さ、強打には目を見張るものがありました。弦楽も同じ主題を一分の隙も無い揃ったアンサンブルで、かなりの強奏をしていました。終わった瞬間大きな拍手が会場(東京文化会館)の大ホール一杯に鳴り響き、自分も我を忘れて大きく強く手を叩いていました。

小林さんのショパン演奏はコンクール後何回か聴きましたが、こんなに力強いベートーヴェンが弾けるなんて、彼女の新しい側面を知って聴きに来た甲斐がありました。 大野さんの指揮もこれまでオペラ等何回も聴きましたが、今日ほど力の籠った指揮は見たことが無い。彼にとっても渾身の演奏で、満足のいくベートーヴェンだったのではなかろうかと思いました。

 聴き終わって小林さんは、お若いのに20年ものステージ経験があるのですね。そうした背景をもととした堂々とした演奏でした。この4番に関しては最近の生演奏は、 

令3 ACO(スダーン)+オピッツ

令2 東響(井上道)+北村(幹) 

令1 ジルヴェスタオケ(飯森)+仲道

などを聴いていますが、小林さんの演奏はオピッツの演奏に次ぐ力強さがありました。彼女にはショパニストの枠に留まらない大器の片鱗を感じます。

尚、ソリストアンコールがありました。

ショパン『24の前奏曲集』より第4番ホ短調Op.28-4

 淡々と静かに弾いていましたが、コンチェルトの4番と番号を揃えたところに茶目っ気を感じました。でも演奏は地味でその良さはこれだけでは伝わらないでしょう。前奏曲はセット演奏が良い。ショパンの理解をするにはアンコール向きとは言えないと思います。

 

②ショスタコ10番 

 ②のショスタコーヴィッチの10番のシンフォニーは、四楽章構成です。ここでは弦が増強され、管楽器もFt.Ob.Cl.Fg等々増強されて三管編成でした。イングリッシュホルン1、コントラファゴット、ピッコロ、テューバなどが追加、その他打楽器群、トライアングル、大太鼓、小太鼓、シロフォン、タムタム、シンバル、タンブリン、チェレスタなど多くの楽器が参加しました。本格的な大編成のオーケストラの構成です。 

 ショスタコーヴィッチの交響曲の生演奏は余り聞いていませんが、以前に6番7番などを聴いたことがあります。思っていたよりも随分洗練された先進的響きを感じ、かなり衝撃を受けた記憶があります。 

 楽章の詳細については、時間の関係もあり割愛し別の機会にと思いますが、以下にプログラムノートの解説を付記しておきます。

第1楽章 モデラート 

長大な楽章です。リストの《ファウスト交響曲》を思わせる序奏冒頭の動機と、クラリネットで提示される第1主題、フルートによる第2主題が様々に組み合わされ、展開される。 

第2楽章 アレグロ 

高速で駆け抜ける2拍子のスケルツォ。偽書であることがほぼ判明しているソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(1979)には、この楽章が「スターリンの肖像」であると書かれており、よく知られている。しかしこれを裏付ける証拠は他にないので、これはヴォルコフの解釈にすぎないと考えるべきであろう。
 

第3楽章 アレグレット 

緩徐楽章に相当する楽章だが、自分を表す「D―S―C―H」の動機とエルミーラを表す「E―A―E―D―A」の動機が、時には冗談ぽく、時には真剣に対話を交わす。

第4楽章 アンダンテ~アレグロ 

低弦の序奏のあと、オーボエが切々と歌いだす旋律を、フルートやファゴットが引き継いでしばらく進み、アレグロの主部に入る。この軽快な音楽はしかし、「D―S―C―H」動機の強奏によって勢いを止められる。序奏の遅い部分が復帰するが、しばらくすると今度は「D―S―C―H」動機も取り込んでアレグロが復帰し、自嘲ともとれるにぎやかさの中で終わる。

 全体としての演奏は、作曲者の天才性が感じられる、混沌の中の統一性、整合性が垣間見られる演奏でした。

 ここでも大野指揮・都響は各パートとも一丸となって指揮者の求心力に吸い寄せられるが如き一体感を感じさせる力演、好演でした。こんなに力一杯演奏できるなんて、演奏者冥利に尽きる曲なのでしょうね。聴く方も手に汗握る、時としてはあたかも頭をバーンと張り倒される程の衝撃を受け、聴いた後は暑いサウナを我慢して汗を流した後の様な、スッキリ感と疲れが残りました。帰りビールでも飲みたくなりますが、この時節柄どこの店も閉まっていました。

 

 しかしショスタコの曲をやるなら、欲を言えば、第二次大戦時ナチスの攻撃で包囲され、艱難辛苦の極みに陥っていたレニングラ-ド市民に生きる勇気を与えたという、ショスタコの7番を10番に代替して演奏して欲しかった気がします。交響曲第7番はショスタコーヴィッチが自分の古巣の街に捧げて作曲したものですが、ファシズムへの抵抗と勝利を表した交響曲として認知されるようになりました。作曲者は言います、“第7は、単にファシズムについてだけでなく、われわれの体制、あるいはあらゆる形態の全体主義体制についての(=反対する)作品である。”と。 都響も指揮者も練習していないからそれは無理筋だったでしょうけれど。若しそれが出来ていれば、ウクライナ・キエフの市民のみならず、今回の暴挙に反対する世界中の市民に大きな影響を日本音楽界から発信出来たことでしょう。勿論ロシアの市民の自制心に訴えることも。