《Ⅰ.テューダー朝③/ヘンリー8世の6人の王妃たち》
前回、ヘンリー8世は、独自の英国国教会を設立してまで、アン・ブーリンとの結婚を強行するのでした。と書きましたが、その辺りをもう少し詳しく説明しますと、
兄アーサーの急死により回って来た「プリンス・オブ・ウェールズ(王太子)」の座を、父王ヘンリー7世が薨御するまで無事努め、新王ヘンリー8世として即位すると、王太子時代にローマ法王の特許状により婚約していた兄の寡婦キャサリン・オブ・アラゴンと、結婚式を挙げたのでした。王妃キャサリンの誕生です。従って、その後愛人アン・ブーリンと結婚するためには、キャサリンと離婚する必要があったのですが、原則カトリック信徒は離婚が出来ません。離婚するためには「婚姻無効性」を教会が審査し、認めて貰わない限り出来ないのです。ヘンリー8世は1527年~1529年に亘ってローマカトリック本山に「婚姻無効性」を申し出たのですが、当然認められませんでした。‘無理に結婚させられたので無効’などと主張しても、キャサリンとの結婚のためにローマ法王ユリウス2世の特別な許可を受けて結婚した訳ですから、そんな主張は認められる訳がありません。そこでヘンリーは“国王がイングランドの教会のトップであり、ローマ教皇がトップではない”という政策を推進し、ローマ教皇から聖職者の裁判権を奪い、財産も奪える様な法律を施行したのです。そして1533年、カンタベリー大司教に離婚無効を認めさせ、直ちにアン・ブーリンと結婚したのでした。 ローマ教皇はヘンリーのこうしたカトリック教会をないがしろにする無法行為を罰するため、ヘンリーを破門処分としたのです。このローマ教皇による王の「破門」はめったになされるものではなく、過去には教皇の権威を誇示する物凄い威力を発揮したのです。その例が「カノッサの屈辱」です。これはドイツの神聖ローマ皇帝「ハインリッヒ4世」が、1077年聖職売買の罪でローマ教皇グレゴリウス7世により破門されてしまい、皇帝が破門の解除を求めてカノッサ城の前で雪の中を教皇に許しを請うた事件でした。
しかしヘンリーは「破門」等どこ吹く風、直後に「英国国王至上法」を公布、イングランド教会に君臨してローマ教皇と決別したのです。これは後にエリザベスⅠ世により強化されたのでした。
さてアン・ブーリンと結婚はしたものの嫡男男子は生まれず(女児は生誕)次第にヘンリーの心は次第にアン・ブーリンから離れて行き、1534年大臣ジョン・シーモアの娘ジェーン・シーモアを愛する様になるのです。
そして1536年ヘンリーはアン・ブーリンを姦通罪の咎で処刑したのでした。これは新しい愛人との関係上邪魔になったからアンを抹殺したのか、アンが本当にそうした罪を犯したから怒って断罪したのかは分かりません。しかし結婚から処刑までたったの3年です。ジェーンとの関係もアンを処刑した直後(11日後)に結婚したものの、1537年にジェーンの出産後の産褥合併症による死去により、これもたった3年間だけの関係でした。でも男の子を無事出産したのですから、ジェーンの死をヘンリーは残念がったことでしょう。
続く4回目の結婚は、ジェーンの死後の2年後、ドイツの君主ヨハネ3世の娘、アン・オブ・クレーヴズとの1539年の結婚でした。
これにはプロテスタント勢力の歓心を買うためだったとする見方があります。しかしヘンリーは効果的な結婚生活が出来なかったと謂われます。
そうしているうちにアンの侍女キャサリン・ハワードとヘンリーは浮気をはじめ、アンがうざったくなったのでしょうか、教会にアンとの結婚無効審理をさせて無効としたうえで離婚し、1540年キャサリンと結婚したのでした。
でもそれもつかの間、たった一年でこの新しい王妃も、反逆罪で斬首の刑に処されてしまったのです。以前の男性関係と別な不倫の疑いで。何というヘンリーの天を恐れぬ残虐な振る舞いなのでしょう!現代でも時々連続殺人事件が起きて、世間を驚かせますが、殺人者の心理はタガが外れてしまうと、一人でも何人でも同じになってしまうのでしょうか?まして絶対王朝が築かれ始めた王権至上の時代ですから、牽制する勢力は無く、ヘンリーのやり放題だったのでしょう。そしてヘンリー最後の王妃となったのは、かって娘のメアリー王女の侍女をしたこともある、キャサリン・パーでした。
このキャサリンは相当の教養人で稀に見る読書家だったそうです。また王たちの子息子女に対しても親身になって母として接する一方、病弱になっていたヘンリー8世を自ら献身的に治療して世話をしたので、王の信頼は非常に厚かったと謂われています。
この頃のヘンリー8世の表情には若い頃の面影はすっかりなくなり、暴虐の限りを尽くして死期を待つ、デモニッシュな表情もかいま見られます。
その後王の病気(足の腫瘍、肥満症、ひどい頭痛他)は悪化の一途をたどり、遂に1547年に55歳で亡くなると、キャサリン王妃は、王の遺言で、王妃として摂政となり息子の王政を輔弼する様にとの意向に従わず、王宮を直ちに去って、以前王のために別れさせられた恋人、海軍司令長官トマス・シーモアと再婚したのでした。王存命中は、その様な考えや素振りは微塵も見せることが無かったのでしょう。下手したら死罪に処せられてしまいますから。“秘めたる恋は永遠なり”でしょうか?
こうしてヘンリー8世は38年間の在位期間中に6人の妻を娶り、一人の息子と二人の娘を残したのでした(その他私生児有)。その後その嫡子たちは、何れも王位に就き、テューダー王朝の次の担い手になっていくのです。
尚、英国の有名ミュージシャン(作曲家、キーボード演奏者)であるリック・ウェイクマン(1949年生まれ)がヘンリー8世をテーマにしたアルバム『ヘンリー八世の6人の妻 』をリリース、かっての王の居城「ハンプトン・コート宮殿」でライヴ演奏を行っています。