《Ⅰ.テューダー朝②》
前回ヘンリー6世からテューダー朝の創始者ヘンリー7世及びその次男ヘンリー8世までをその肖像画などを見ながら王朝設立の歴史的背景を簡単に記しました。今回はヘンリー8世を取り囲む女性群にスポットを投じて見てみましょう。その前に誤解があると困るので、若干補足説明して置きますと、英国史ではテューダー朝が初めての王朝では有りません。それ以前にも多くの王朝が興亡を繰返しており、ばら戦争下では赤薔薇派のランカスター朝がヘンリー4世、ヘンリー5世、ヘンリー6世と1399年~1461年まで続き、その後白薔薇派が赤薔薇派を圧倒してヨーク朝が1461年~1485年まで、エドワード4世、リチャード3世と続きました。源平の紅白戦さながらですね。そして前回説明した様にリチャード3世を倒してヘンリー7世がテューダー朝を開いたわけです。
更に遡れば『プランタジネット朝』『ノルマン朝』『デンマーク系王家』『アングロサクソン系』と829年、エグバート王が7王国を統一した時まで遡れるのです。それでも皇統継続期間は1200年程です。クロムウェルが実権を握っても、王に即位しなかったのは、王統を断絶させ簒奪者と呼ばれることを恐れたことも一因ではないでしょうか?(尤も王朝系統の女性と結婚すればその恐れはなかったのでしょうけれど)
でも日本の天皇家が2000年近く続いて居るのに比すれば半分を超えた程度です。
テューダー朝のヘンリー8世(1491~1547)は、1509年ヘンリー7世の死去により王位に就きました。ヘンリー7世の死因は結核だと謂われます。ヘンリー8世は次男ですから、兄が生きていれば当然王座は回ってこなかったのですが、運が強いというか体が強かったのでしょうね。兄の王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)アーサーは1502年にスペインとの政略結婚でスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しましたが、その数か月後に当時イングランドで大流行していた「ぞくりゅう熱」にかかり弱冠16歳で急死してしまったのです。この伝染病の感染力、破壊力は今の新型コロナに比肩するかも知れない。1517年の第3波流行では、オックスフォード、ケンブリッジなどの大都市を除いた他の町の人口の1/2が死亡したとも謂われます。コレラ以外にも突然得体の知れない伝染病が大流行する例が歴史上あったのですね。アーサーが死んだため次男のヘンリーは同年王太子に即位、スペインとの政略同盟を維持するため、法王の特別許可を取り、亡きアーサーの妻キャサリン・オブ・アラゴンと結婚を前提とした婚約をさせられるのでした。
兄の妻と結婚することは、当時のカソリック教では禁じられていたのです。まだ10歳だと言いますから小学4年生ですね。そしてヘンリーが8世として18歳で王位についた2か月後にキャサリンとの結婚式を挙げました。
結婚当初は仲睦まじくキャサリン王妃も何回か妊娠した様です。しかし無事に生んだのは女児一人でした。ところが男児は中々生まれませんでした。この辺りからヘンリー8世の女性関係が歴史上類を見ない程の変容を辿るのです。
先ずキャサリン王妃の侍女アン・ブーリンとの結婚です。王というものはどこの国でもいつの時代でも、後継ぎの男の子が生まれるのを心待ちにするのでしょう。キャサリンは女児一人(後に女王即位)を設けましたが、王位継承のできる男児は生まれなかった。そのせいかどうか分かりませんが、ヘンリー8世は、次々と王妃の侍女に手を付けて行くのです。エリザベス・ブラント、メアリー・ブーリン、その妹アン・ブーリンなど。所謂お手付きですね。イングランド王家には李氏朝鮮やフランス王家の様な側室制度や公妾制度が無かったので、彼女達は身分はあくまで王の愛人にとどまっていました。
ところがアン・ブーリンはヘンリ8世に強く結婚を願い、男子を生んで王位継承嫡男としたいという気持ちが強かったのです。しかし王妃キャサリンと結婚しているため王妃を離婚しアン・ブーリンと結婚することは、カトリックの世界では認められる筈がなかったのです。そこでヘンリーはローマ法王のカトリック教会のくびきを脱するため、独自の英国国教会のもとを設立してまで、アン・ブーリンとの結婚を強行するのでした。