HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『幻想芸術の系譜Ⅱ』 

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 今年1月に、幻想芸術について、様々な分野、交響曲、ショパンのピアノ曲、バレー、文学、絵画、能楽などを挙げて論じましたが(文末の再掲記事参照)、重要な分野を忘れていました。それは『漫画』における幻想芸術です。漫画は昔は子供の見るもの、テレビが普及する以前は、映画では見られない映像に代わる手軽な絵付き物語と思われていました。そう言う自分も少年の頃雑誌を母親が買ってくれていて、毎月それがくるのを楽しみにしていたものです。それが成長と共に漫画は見なくなり、いつしか文学に移って行ったのですが、時たま列車の中やバスの中で、マンガ本を大人が読んでいる姿を見た時は、‘何だろう?’と違和感を感じたものでした。しかし時と共に公共輸送機関の中で「マンガ」を見る人々は増え続け、今では当たり前の光景となったのです。今では満員電車の中でスマホで「マンガ」を見ている人もかなりいます。謂わば、「マンガ」は大人の娯楽としての市民権を得たのでした。

 横道に逸れますがついでに関連として、もう一つ市民権を得た娯楽の一つに「パチンコ」があると思います。我々幼少のころは、「パチンコ」なぞまともな人間はするものではない、という風に大人から聞かされていました。それがどうしたことか、あれは大学が終わったか終わらないくらいの年頃だったでしょうか、自分でもパチンコ台の前に座っていた姿をはっきりと覚えています。忘れもしません、その時フッと横を見ると何台か先にこちらを見て笑っている大学の先輩の姿がありました。“君もやっているのか。仲々面白いだろう”といった目をして。 ところがその先輩はその年の暮れに、帰らぬ人となったのでした。多分胃がんだったと思います。まだ20歳台の若さで。見舞いに病室を訪れた時、丁度先輩が‘痛い痛い’と言ってナースコールを押していましたが、やって来たナースはおそらくモルヒネだと思います、注射をしながら先輩を、ものすごく残酷な目をして見たのです。‘どうせ、助からないのに’といった目つきで。その目を今でもはっきりと覚えています。都内でも有数の大学病院のナースでしたが、何と不適性な職業についている人なのでしょう。またあれはいつだったでしょう?社会人になってからのことです。兄に渋谷のパチンコ屋にいるからと呼び出されて、一緒に打った覚えもあります。彼も今となっては鬼籍に入ってしまっていますが。こうして自分でも「パチンコ」は時々軽い気持ちで、或いは時期によっては熱中してやるようになり、“自分もまともな人間ではないのだろうか?”などと思ったこともありました。でも今では、日本中どこにでもパチンコ店はありますし、そこに出入りするからどうのこうのという人は皆無に近いと思います。昔と比べたら本当に市民権を得ましたね。

 話を「マンガ本」に戻しますと、漫画家で幻想文学を表現している人がいるということを朝日の夕刊の記事(2018.8.2.)で知りました。波津彬子、この人は金沢生まれで幻想文学の源流とも言われる泉鏡花と同郷です。コロナのお陰で外出機会が減り、その分映画を見たり本を読んだり、今日は増えた時間で、波津彬子著①『幻想綺帖』、②『幻想綺帖二』を読みました。①は短編小説を漫画化した短編漫画集、②は岡本綺堂原作「玉藻の前」を漫画化した長編です。①には前述の新聞記事にも紹介されていた鏡花1897年の作「化鳥(けちょう)」も収録されている。「化鳥」は金沢市内を流れる浅野川を舞台に、明治時代、川に私道の橋を架け、橋銭をとっていた母子の生活の姿やエピソードを描いている作品です。波津はその雰囲気・光景を見事に視覚化しています。この漫画の表題に掲げられた“おもしろいな、おもしろいな、笠を着て 蓑を着て 雨の降るなかを 橋の上を渡っていくのは 猪だ”という文の下には、雨がザーザー降る中をいかにも蓑傘付けて、背を丸めて橋を渡るイノシシを、旅人を連想させるが如きタッチで描いています。こうした「マンガ」も間違いなく「幻想芸術の系譜」の一つと言えるでしょう。

   私事で恐縮ですが、むかし金沢に所用で行った時、天気の良い秋晴れの日で橋の上から川を覗いたら、小さなゴリが何十匹も泳いでいるのが見られました。翌日隣町にある「萬歳楽」という酒蔵元を見学し、そのあと料亭で食した地場産の御馳走は、パリの三ツ星レストランに勝るとも劣らない珍味で、金沢料理の粋を堪能した記憶が有ります。もちろんゴリも美味しかった。

 ②の長編マンガは、第一章凶宅、第二章再開、第三章雨乞い、第四章破門、最終章殺生石からなり、九尾の狐に憑かれた美少女と陰陽師の悲恋の物語を、やや硬いが雅なタッチで戯画化に成功しています。(この九尾の狐は栃木県那須にある殺生石で有名です。そのすぐそばにある那須湯元温泉の青みがかった乳白色の温泉は私のお気に入りの一つですけれど。)よく考えてみると、今まで気が付かなかったのですが、「マンガ」作家は、オペラに例えれば、原本から台本を作り、脚色し演出し、物語を紙上という舞台に生き生きと現出させる、いわば台本作家、脚色家、演出家すべてを一人でこなしている様なものではないかということです。ただ無いのはセリフ、ナレーションの音声。もちろん音楽の音も出ません。それがかえって、シンプルであるが故に読者の想像力を膨らませ、またセリフの語調が表現で来ていないが故の場面、場面での人物の語りのニュアンスを、いろいろと想像出来る幅が出て、かえって面白さを増しているのかも知れません。読者の想像を掻き立てます。幻想物語ではないですが、池田理代子さんの「ベルサイユのばら」などまさに想像をたくましくして、華やかな恋物語に読者は酔い痴れるのでしょう。ただ「マンガ」作者は表現力の限界を感じるでしょうね、きっと。それはやはり音が出せない、セリフを音で出せたら、雰囲気を音譜で描くのでなく音楽が鳴らせたらと思って書いているのではないでしょうか?これはあくまで想像ですが、池田さんは(色々動機はあったのでしょうが)「マンガ」の欠落した手段、渇望していた音声での表現を求めて、途中から声楽の道を追求されたのではないでしょうか?

今の時代、スマホであれば「マンガ」のセリフに音声を乗せることも音楽を流すことも可能となるでしょう。すると演劇やミュージカルやオペラをU-tubeで観るのに近くなっていき、線画での表現は具体的映像描写に対して不利となってしまう。従ってそうしたテリトリーと差別化するためには、現在の紙上ベースの「マンガ」表現が最適なのかも知れません。

 

 

≪再掲≫

2020-01-26

『幻想芸術の系譜』

 今年は暖冬なのでしょうか?まだ1月だというのに、生垣の新芽が伸びてフレッシュな葉をつけ始めています。そう言えば数日前の暖かい天気のいい日に、いわし雲(通常は秋の雲)の様な雲が送電線上にかかっているのが見えました。横浜は暖かいですね。

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 ところで、一昨日ベルリオーズの『幻想交響曲』を聴いて来たのですけれど、“幻想”と名の付くクラシック曲は、これ以外にも随分と沢山ありますね。思いつくだけでも、シューベルト作曲『ピアノソナタト長調調D894幻想』『さすらい人幻想曲』。ショパンには『Fantaisie Impromptu(幻想即興曲)』が4曲あり、中でも『嬰ハ短調Op.66』は有名。一方『幻想曲ヘ短調作品49』には「雪の降る街」のメロディが入ってます。モーツアルトにも、シューマンにもブラームスにも“幻想”の付いた曲は皆あります。作曲の作業は精神的な創造行為、曲を作りながら或いは作る以前に頭に何らかのイメージやストーリが想起される筈です。何も頭の中になく、無心で空(くう)の境地で、ペンを持った手だけが五線紙の上を走ることは、絶対ないとは言い切れませんが、滅多に無いことでしょう。その頭に浮かんだものも“幻想”と呼ぶとすると、本来音楽は幻想の産物だとも言えます。そして又その音楽曲を聴く人も幻想を再生産している。上記の『D894幻想』をアラウの録音で聴きながら、暑い夏、涼しい木陰でハンモックにでも揺られながら、とりとめない幻想に浸っていたら、さぞかし充実した老後のひと時になるだろうな、等と若い時には考えたものです。Ombra mai fu!

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[プラタナスの木陰(新宿御苑)]

 ウィーンフィルのニューイアーコンサートの演奏に合わせて、バレーダンサーが踊る場面を放送していましたが、あの踊りにはストーリの示唆が垣間見受けられます。

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 ショパンの『幻想即興曲』でも聴きながら、現代ダンスでも見れば、自分の幻想ストーリが二つ三つと思い浮かぶかも知れません。 一方、文学にも『幻想文学』と呼ばれるものがあって例えば、上田秋成、泉鏡花、三島由紀夫、澁澤龍彦、山尾悠子、笙野頼子などがあげられます。山尾作『飛ぶ孔雀』の朗読でも聴きながら、ストラビンスキー「火の鳥」でも聴いたらどんな幻想が浮かぶのでしょうか?

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 西洋絵画にも幻想的な絵を描く画家がいますね。アンリ・ルソー、ゴッホ、ムンク、マティス、シャガール、キリコ、ダリなど、など。絵画とコンサートのドッキングは今日珍しくありません。昨年は印象派絵画とクラシック音楽とを関係付けた音楽会を横浜美術館で鑑賞しました。

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[アンリ・ルソーの絵]

 ネットを見ていたら、『銀座の飛翔、はごろも』という、クラシック音楽と能を関係付けた音楽会が、昨年7月に行われた模様です。知っていたら聴きに行きたかった。クラシック演奏はマロさんこと篠崎史紀さんのヴァイオリン、ソプラノ森谷真理さんの歌で、シテ(天女)武田宗典さんで演奏したみたい。残念でした。

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 日本の能楽には「夢幻能」というのがあって、幻想的な物語を演じます。昨年10月には『能とクラシック音楽の幻想』という音楽会もあった様です。もう一度そういう機会があるといいな!

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