今年は暖冬なのでしょうか?まだ1月だというのに、生垣の新芽が伸びてフレッシュな葉をつけ始めています。そう言えば数日前の暖かい天気のいい日に、いわし雲(通常は秋の雲)の様な雲が送電線上にかかっているのが見えました。横浜は暖かいですね。
ところで、一昨日ベルリオーズの『幻想交響曲』を聴いて来たのですけれど、“幻想”と名の付くクラシック曲は、これ以外にも随分と沢山ありますね。思いつくだけでも、シューベルト作曲『ピアノソナタト長調調D894幻想』『さすらい人幻想曲』。ショパンには『Fantaisie Impromptu(幻想即興曲)』が4曲あり、中でも『嬰ハ短調Op.66』は有名。一方『幻想曲ヘ短調作品49』には「雪の降る街」のメロディが入ってます。モーツアルトにも、シューマンにもブラームスにも“幻想”の付いた曲は皆あります。作曲の作業は精神的な創造行為、曲を作りながら或いは作る以前に頭に何らかのイメージやストーリが想起される筈です。何も頭の中になく、無心で空(くう)の境地で、ペンを持った手だけが五線紙の上を走ることは、絶対ないとは言い切れませんが、滅多に無いことでしょう。その頭に浮かんだものも“幻想”と呼ぶとすると、本来音楽は幻想の産物だとも言えます。そして又その音楽曲を聴く人も幻想を再生産している。上記の『D894幻想』をアラウの録音で聴きながら、暑い夏、涼しい木陰でハンモックにでも揺られながら、とりとめない幻想に浸っていたら、さぞかし充実した老後のひと時になるだろうな、等と若い時には考えたものです。Ombra mai fu!
[プラタナスの木陰(新宿御苑)]
ウィーンフィルのニューイアーコンサートの演奏に合わせて、バレーダンサーが踊る場面を放送していましたが、あの踊りにはストーリの示唆が垣間見受けられます。
ショパンの『幻想即興曲』でも聴きながら、現代ダンスでも見れば、自分の幻
想ストーリが二つ三つと思い浮かぶかも知れません。
一方、文学にも『幻想文学』と呼ばれるものがあって例えば、上田秋成、泉鏡花、三島由紀夫、澁澤龍彦、山尾悠子、笙野頼子などがあげられます。山尾作『飛ぶ孔雀』の朗読でも聴きながら、ストラビンスキー「火の鳥」でも聴いたらどんな幻想が浮かぶのでしょうか?
西洋絵画にも幻想的な絵を描く画家がいますね。アンリ・ルソー、ゴッホ、ムンク、マティス、シャガール、キリコ、ダリなど、など。絵画とコンサートのドッキングは今日珍しくありません。昨年は印象派絵画とクラシック音楽とを関係付けた音楽会を横浜美術館で鑑賞しました。
[アンリ・ルソーの絵]
ネットを見ていたら、『銀座の飛翔、はごろも』という、クラシック音楽と能を関係付けた音楽会が、昨年7月に行われた模様です。知っていたら聴きに行きたかった。クラシック演奏はマロさんこと篠崎史紀さんのヴァイオリン、ソプラノ森谷真理さんの歌で、シテ(天女)武田宗典さんで演奏したみたい。残念でした。
日本の能楽には「夢幻能」というのがあって、幻想的な物語を演じます。昨年10月には『能とクラシック音楽の幻想』という音楽会もあった様です。もう一度そういう機会があるといいな!