HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

塩野七生著『コンスタンティノープルの陥落』散読(続き2)

Ⅲ.攻防戦
  

 戦力では、明らかに劣勢であるConstan側はトルコ海軍の金角湾への侵入を防ぐべく、狭い湾の入り口の水面下に、いかだにぶら下げた頑丈な金属の鎖を対岸から対岸へと敷設し湾口を封鎖したのです。敷設は、ヴェネツィアの提督の提案でなされたのですが、塩野さんは“大の男の二の腕もある太さの鉄の棒であまれた鎖”と書いています。そんなに太い鉄を加工して鎖を作る技術が当時のヴェネツィア若しくはその関係国にはあったのですね。驚きです。もっとも、防衛軍の戦士はミラノ製の甲冑を皆纏っていたそうですから、優秀な金属加工技術はイタリアかその周辺にあったのでしょう。
 さて金角湾の制海権は重要です。過去の歴史でもConstanが包囲されたことは何回もあったのですが、一度の例外を除いて攻略、陥落したことはありませんでした。その一度の例外が、1204年第4次十字軍によるもので、この金角湾内から上陸攻撃を許したことによるものだったからです。前回書いた様に、Constanは三重に廻らせた鉄壁の城壁に守られている、と言ってもそれは周囲すべてではなく、主に西の陸側の防衛壁であって(何故なら陸続きに敵が攻めてくることが多かったから)、北側のこの金角湾の南に面した城壁は一重であり、金角湾を守り抜くことが生命線だったのです。守りの艦戦隊はジェノヴァ大型帆船5隻、クレタ船3隻、アンコーナ船1隻、ビザンチン船1隻、計10隻。加えるに船着き場に待機するヴェネツィのガレー軍船2隻、同国の商用大型ガレー船3隻、ビザンチンのガレー船5隻、その他の6隻。ガレー船は、主として人力でオールを漕いで進む軍艦で、帆船より動く自由度が高く機敏な動作が可能です(帆船は大型化出来る一方で風向き次第なので、動きに制約がある)。
 1453年4月12日の陸上側のトルコ軍の攻撃開始に合わせた様に、金角湾入口に集結したトルコ海軍は防鎖突破をはかって来る。トルコ艦隊は、ガレー船12隻、大型船70~80隻、輸送船20~25隻、残りの小型船を含め計145隻の大艦隊です。しかし海戦の結果は数ではありませんでした。海戦に慣れていてトルコ船を手玉に取った海洋国家編成艦隊の勝利に終わります。
 一方陸側でも4月12日朝、トルコ軍が砲撃を開始し、戦闘が始まりました。トルコ軍勢は15~16万。30~40万とみなす者もいました。
トルコ軍の開発した巨大な大砲ばかりでなく、通常の大砲も火を噴きます。大きな石の砲弾は城壁に当たり次第に壁を崩していきます。Constan側は夜になるとその被害のあった城壁を急ぎ修復する作業に大わらわ。そんな状態が数日続き、4月18日、総攻撃をかけて来たトルコ軍は約10万、しかし防衛側は的確に城壁の上から矢などで敵を倒し、二時間後に撤退したのはトルコの軍勢でした。これでConstan側は、これまでの絶望的な悲観論が一歩後退し、ひょっとしたら守り抜けるのでは?という希望が湧いて来ます。この期待は、4月20日、4隻のローマ法王の派遣した大型帆船が金角湾に近づきトルコ海軍と戦闘で、百隻のトルコ船隊を敗って湾内に入ってきたことで、ますます大きく膨らむのです。
 しかしトルコの若いスルタンはなかなかの戦略家でした。失敗してもめげず、知恵を絞り挽回を企かります。何と艦船を、金角湾の北側の陸上を運び湾内入れようとする戦術なのです。木製の軌道の上を車輪付きの二台に乗せた船を、上りは牛で引っ張り上げ、湾内までの下りは軌道上を一気に滑り落としたのでした。これで湾内のキリスト教国家混成艦隊も安泰ではなくなり、打開策として、夜襲をかけるもトルコ艦隊の前に敗退して、被害も被ったのでした。しかしトルコもそれ以上は動けず両者にらみ合ったままの膠着状態。
 やはり勝負の決着は陸上戦でした。ここで、塩野さんは面白いことを言っています。“幸福も人々の心を開くのに役立つが、不幸もまた同じ役目をすることがある。”どういうことかと言いますと、今回の戦いで、キリスト教国としてConstan側にたってトルコと戦っている、ヴェネツィア勢とジェノヴァ勢は、互いに仲の悪い海洋商業国家で、ここビザンチン帝国内でも競い合って自分の権益を守ろうとしており、防衛戦のさなかでも対立することがたびたびあったのですが、上記夜襲の失敗により、Constanはさらに大きな困難に向き合うことが両陣営とも分かったので、これまでのいさかい、反目を互いに止めて協力し合う様になったという意味です。成程、身の回りの生活でもそういうことはありますね。
 さて状況が益々厳しくなるConstan側は、皇帝名でヴェネツィア本国に援軍を要請する使者を送り、ヴェネツィアも急遽援助艦隊を編成して派遣することにしたのですが、進軍が予定より遅れて、トルコの総攻撃(トルコは、5月26日のトルコ作戦会議で29日総攻撃を決定していた)には間に合わなかったのです。これが戦況を大きく左右したと思います。トルコの総攻撃の前に陸がエアの堅牢な城壁も破られ、城門は突破されてトルコ兵が場内に雪崩れ込み、ついにConstanは陥落したのでした。ここでもトルコのスルタンの攻撃戦術には目を見張ります。編成部隊に「波状攻撃」をさせるのです。即ち最初に5万の不正規軍団に攻撃させ防御側を疲れさせ、間髪入れず5万の正規軍団で第二波攻撃、続いて1万5千の近衛部隊ともいえる精鋭を送り込んで防御網を破ったのです。このスルタンの優秀さは、前回書いた大砲技術者の採用だけでなく、前記の艦船の陸上搬送などなど、多くのケースで発揮され、このスルタンだからこそ難攻不落のConstanを落とせたと言えると思いました。もちろんその背景には家臣を絶対服従させることが出来る恐怖の絶対王権の存在があるわけですが。むしろ、Constan の皇帝コンスタンティノス11世の方が、人格的魅力を感じる様に塩野さんは記述しています。偉ら振らず、部下にもきさくに優しい思いやりの声を掛ける、人徳と崇高さを兼ね備えていた皇帝として描いている。この東ローマ帝国最後の皇帝は、なだれ込んだ敵兵のまっただ中に剣を抜いて立ち向かい姿を消すのでした。中国や韓国のテレビドラマなど見ていると、敵軍が押し寄せ皇宮が危なくなると‘陛下、とりあえず逃げて下さい。生き延びてこそ反抗の機会もありますから’と部下が、退路を護衛案内するケースも結構あるのですが。また“虞や虞や汝を如何せん?”の楚王項羽の様に自刃する場合もあります。この皇帝の様に敵に単身切り向かっていく例は少ないのでは?昔、中国、北宋だったかな?南宗だったかな?いやべつの時代だったかな?反乱軍の多勢に対し、無勢で部下の肩車に乗って剣を持ち立ち向かって行き殺された皇帝がいた様な気がします。はっきり覚えていませんが何かで読んだ気がします。Constanを失う皇帝の気持ちは、再興の望みなどこれっぽちも無いことを自覚していたのでしょう、きっと。
 塩野さんによると、占領されたConstanの死者は隋分少なく、多くが生かされて奴隷市場に連れて行かれたとあります。それがトルコ風のやり方だと。これに比べるとさらに歴史を遡る事、紀元前146年、700年間に渡る繁栄を築いた地中海世界の覇者カルタゴの滅亡は悲惨を極めます。ローマにより攻撃され、壮絶な戦いの後殲滅されて、首都は壊滅的な破壊と殺戮にあい、炎は17日間消えず、1メートル以上の杯が積もったといいますから。冷酷そうに見えるトルコの若いスルタンは意外と慈悲の心も持っていたのかな?