HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

マエストロ井上復活!!/読響マーラー2番を振る

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【日時】2023年11月18日 (土)14:00 〜

【会場】池袋・東京藝術劇場コンサートホール 

【管弦楽】読売日本交響楽団

【指揮】井上道義

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 〈Profile 〉
 1946年東京生まれ。桐朋学園大学卒業。ニュージーランド国立交響楽団首席客演指揮者、新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督、京都市交響楽団音楽監督兼常任指揮者、大阪フィルハーモニー交響楽団首席指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任。2007年ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクトを企画立案。2014年4月に病に倒れるが、同年10月に復帰を遂げる。近年では、全国共同制作オペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』、大阪国際フェスティバル『バーンスタイン:ミサ』、『井上道義:A Way from Surrender ~降福からの道~』等を、いずれも総監督として既成概念にとらわれない唯一無二の舞台を作り上げている。2018年「大阪府文化賞」「大阪文化祭賞」「音楽クリティック・クラブ賞」、2019年NHK交響楽団より「有馬賞」、2023年「第54回サントリー音楽賞」を受賞。オーケストラ・アンサンブル金沢桂冠指揮者。2024年12月をもって指揮活動からの引退を公表している。

【独奏】髙橋絵里(S.)林眞暎(M-s.)

【合唱】新国立劇場合唱団

【合唱指揮】三沢洋史

【曲目】マーラー『交響曲第2番 ハ短調〈復活〉』

(曲について)

 交響曲第2番ハ短調は、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲。「復活」(Auferstehung)というタイトルが付されるのが一般的であるが、これは第5楽章で歌われるフリードリヒ・クロプシュトックの歌詞による賛歌「復活」(マーラー加筆)からとられたもので、マーラーがこの題名を正式に用いたことはない。 

 1888年から1894年にかけて作曲された。オルガンやバンダ(舞台外の楽隊)を含む大編成の管弦楽に加え、第4楽章と第5楽章に声楽を導入しており、立体的かつスペクタクル的な効果を発揮する。このため、純粋に演奏上の指示とは別に、別働隊の配置場所や独唱者をいつの時点でステージに招き入れるか、合唱隊をいつ起立させるかなどの演出的な要素についても指揮者の考え方が問われる。

第4楽章では、マーラーが1892年に完成した歌曲集『子供の不思議な角笛』の歌詞を採用している。つづく交響曲第3番、交響曲第4番も『子供の不思議な角笛』の歌詞を使っていることから、これらを「角笛」3部作として括ることがある。演奏時間約80分。

【演奏の模様】

 井上さんは今年病気のため入院、退院後も一時体調不良説が流れ、予定していた演奏会が、中止になるのではないかと心配する向きもありました。自分としても11月18日(今日)の公演のチケットを買うか買うまいか迷ったのですが、結局後向きの説の尻馬に乗って、丁=中止、半=実施のうちの丁にかけたのでした(あくまで、心の中の賭けです)。しかし前月末の群響定演東京公演を無事実施したという報道を受けて慌ててチケットを購入しようと思ったら、既に完売でした。「"HUKKATS"を名乗る者が、マエストロ井上の"復活"の演奏を聞かなくて如何せん。」と思い、日にちが余りなかったのですが、色々当ってみて何んとかチケットをゲット出来ました。

 2番<復活>の演奏は、このところ暫く聴いていなくて、今年3月の大野・都響以来です。参考までその時の記録を文末の再掲しました。多くはそれと同じですので今回は詳細は割愛しますが一番記録に残したいことは、次の事です。

 井上さんは指揮台の上で、全く健康人でと同じ様に見えました。腕の振りはいいし体をしなやかに揺すって合図を送る楽器群を盛んに駆り立てたり宥めたり、以前ほどのダンシングとまではいかないですが、体の動きとオケから引き出す音の様子から見ると、将に❝マエストロ井上復活❞を宣言しているかの様に思えました。読響の奏者達も井上さんの再起したオーケストラの響き造りに忠実に従って、その復活を祝うが様に、皆渾身の力と集中力を込めて演奏している風でした。当然ながら今日の2番<復活>は素晴らしい、国内オケとしては近年まれにみる名演奏だったと言えるでしょう。

 演奏が終わって帰路につく人達が ❝こんな井上さんを見たこと無い、こんなマーラー2番を聴いたことない。良かったね❞等と仲間達と話しながらホールを去る姿を見ました。

 演奏が終わるや超満員の会場は大きな拍手に包まれ、歓声は彼方此方を駆け巡り、いつまでも鳴りやまぬ芸術劇場大ホールでした。何回も舞台と袖とを往復した井上さんは、余裕を持って各パートを順次起立させ労ったり、自らは指揮台の手摺りにつかまって、筋トレ風に体を曲げ伸ばしして会場の笑いを誘っていました。❝もうこれだけ元気になったよ!❞と言いたげに。

 最近結構病気で亡くなられる指揮者や演奏中止になる指揮者が相次いでいましたが、今日はそうした風潮を払しょくする久し振りの朗報だと思いました。

 

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(2023.3.17.HUKKATS Roc. 再掲)大野 都響第970回定演/マーラー2番〈復活〉を聴く )

【日時】2023.3.16.(木)19:00~

【会場】サントリーホール

【管弦楽】東京都交響楽団

【指揮】大野和士

【出演】ソプラノ/中村恵理 メゾソプラノ/藤村実穂子

【合唱】新国立劇場合唱団

【合唱指揮】冨平恭平
【曲目】マーラー『交響曲第2番〈復活〉』

(曲について)H.P.より

神なき時代に神を希求する法悦の儀式

 グスタフ・マーラー(1860~1911)の第2交響曲《復活》を、「人がマーラーを好きになる最初の作品」であると同時に、「終楽章の単調さゆえにすぐに色褪せる」と述べたのはテオドール・アドルノ(哲学者、音楽評論家/1903~69)である。
 「すぐ色褪せる」かどうかはともかく、この第2交響曲が極めて効果的に作られていることは間違いない。例えば「死(第1楽章)から再生(第5楽章)へ」という構成。これがベートーヴェン(1770~1827)的な「闇から光へ」の交響曲作法を踏襲していることはいうまでもないが、ベートーヴェンのフィナーレにおける勝利(例えば「第5」や「第9」)がどちらかといえば社会的な熱狂を含意しているとすれば、マーラーはそこに個人の死生観の問題を重ね合わせる。つまり「第9」的な合唱交響曲がシンフォニーとミサの総合であるとするなら、マーラーはより後者の宗教的な法悦の比重を拡大する。巨大合唱とオルガンまで投入される終楽章は、神なき時代に神を希求する法悦の儀式となるのだ。
 実際この第2交響曲は、作曲者の存命中から大成功をおさめた、マーラーのほとんど唯一の交響曲であって、特に1907年11月24日、ニューヨークへ去ることになったマーラーのためにウィーン楽友協会が催した告別コンサートにおける演奏は記念碑的な反響を呼んだといわれる。

一つの演奏会を構成するメタ交響曲

 とはいえ第2交響曲《復活》は、作曲しているうちに構想がどんどん肥大していって、接木に接木を足すようなことになりがちなマーラーの性癖が、最も極端な形で出ている作品の一つでもある。そもそもマーラーは第1楽章を、《葬送》と題された単一楽章の交響詩として構想した(1888年)。だがやがてそれに飽き足らなくなり、1888年から93年にかけて第2楽章から第4楽章が、さらに1894年にハンブルクで行われた大指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830~94)の葬儀において、少年合唱団によって歌われたフリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(詩人/1724~1803)の復活の賛歌に感銘を受けたことがきっかけとなり、第5楽章が書かれた。
 《復活》の各楽章(特に第1および第5楽章)は、一つの作品の中の「部分」というには、あまりにも大きい。この作品はまず1895年3月4日ベルリンで、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)の指揮により、最初の3つの楽章だけが初演されている。そして同年12月13日に全曲が初演された後もマーラーは、翌1896年3月16日に第1楽章だけを単独で指揮した(いずれもベルリン)。
 極端に言えば《復活》は、各楽章が充分に一つの独立した「曲」として演奏できるような、尋常ではない規模を持っている。別の言い方をすれば、あまりにも大きな5つの楽章ブロックを積み重ねているせいで、全体がその陰になってよく見渡せない巨大建築のような作品が、マーラーの第2交響曲である。
 次のような比喩も可能だろう。言うまでもなく通常の演奏会では、複数の作曲家による、複数の作品が演奏される。だがマーラーは一つの演奏会に必要とされるメニューをすべて一人で書き、それらを一つのメタ交響曲にしようとした。
 第1楽章をプログラム前半に置かれた葬送の交響詩のようなものと考えてみよう。実際マーラーは、第1楽章を演奏した後に、最低でも5分の休憩をするように指示している。
 対するに第2楽章は素朴なレントラーであり、通常の演奏会になぞらえるなら、プログラム後半がモーツァルトの《ドイツ舞曲》で始まるような感覚だろう。
 続いて演奏されるのは2曲のリート。すなわち第3楽章は、同時期に作曲された《少年の不思議な角笛》の中の「魚に説法するパドヴァの聖アントニウス」のメロディを、ほぼそのまま転用したもの。第4楽章も詩集『少年の不思議な角笛』に含まれるテクストによる。実際マーラーの時代には、リートやアリアなどがプログラム途中にはさまれることがよくあった。
 そしてプログラムのフィナーレとして置かれるのが、壮大なオラトリオのような第5楽章だ。各楽章はまるで一つの演奏会プログラムのように配置されていることが分かるはずである。

巨大ホールを鳴り響かせる新時代の交響曲

 《復活》が作曲された世紀転換期、ヨーロッパの主要都市では次々に巨大コンサートホールが建設されていた。2200人収容のベルリンの旧フィルハーモニーは、1882年に巨大なスケートリンクを改築して作られた(《復活》もここで初演されている)。2037人を収容することが可能なアムステルダムのコンセルトヘボウが建てられるのは、1888年である(このホールも生前からマーラーの交響曲をよく演奏した)。また1910年にミュンヘン・フィルによるマーラー「第8交響曲」の初演が行われた新音楽祝祭ホールは、3000人を収容することができた。
 マーラーの《復活》はいわば、巨大ホールという楽器を目一杯に鳴り響かせるべくマーラーが20世紀へ向けて送り出した、新時代のための交響曲であった。
(岡田暁生)

 

【演奏の模様】

<楽器編成>

フルート4(ピッコロ持ち替え),オーボエ4(イングリッシュホルン持ち替え),クラリネット3(バスクラリネット持ち替え),小クラリネット2,ファゴット4(コントラファゴット持ち替え),ホルン6,トランペット6,トロンボーン4,テューバ,ティンパニ2,大太鼓,小太鼓,シンバル,トライアングル,タムタム,グロッケンシュピール,鐘,むち,オルガン,ハープ,4管編成 弦楽5部16型。

 

 マーラーは,非常に長大な交響曲を10曲ほど書いていますが,その中でも特に大規模で劇的な迫力を持っているのがこの2番の交響曲「復活」です。「復活」というのは,ドイツ語では”Auferstehung"。これは「死者のよみがえり」という宗教的な意味を持っています。欧米ではキリスト教の影響が大きく、今でも ❝ 復活祭(hukkats注1)❞は大きな年間行事の一つとなっています

 復活祭(hukkats注1)

 イエス・キリストは十字架にかけられ磔刑死するわけですが、その時「自分は死んで生き返るであろう」という予言を残した。その言葉通り死後三日目に生き返り、これを❝復活❞と呼ぶのです。キリスト教ではこの日は目出度い日として大昔(恐らくローマ時代)から各国、各地で色々な様式で行われてきた祝祭なのです。325年の第1回ニカイア公会議で復活祭は日曜日に行うことが決定された。春分後の最初の満月のあとの日曜日(イースター・サンデー)に祝うのです。今年2023年は4月9日の日曜日。

 マーラーがクロプシュトックの書いた「生きるために死ぬ」という内容を持つ「復活」という詩に感銘を受け、これを第5楽章のテキストとして使ったため,この標題がつきました。

 またこの交響曲は,クロプシュトックの「復活」の詩とは別に,交響曲第3,4番とともに歌曲集「子供の不思議な角笛」との関連の深い曲となっています(この第2~4番の3作は「角笛交響曲」と呼ばれている)。  特に第3楽章では,「子供の不思議な角笛」の中の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」と同じ素材が使われています。

 第4楽章「原光」の歌詩もこの詩集の中のものです。

第1楽章 アレグロ・マエストーソ 真摯に、荘厳な表情で
第2楽章 アンダンテ・モデラート きわめてのどかに
第3楽章 おだやかに流れるような動きで
第4楽章 「原光」 きわめて荘厳に、しかし素朴に
第5楽章 スケルツォのテンポで、荒々しく始めて~アレグロ・エネルジーコ ~ゆっくりと、神秘的に

 

    この曲はある英雄(第1番「巨人」で描かれている)の死を弔う葬送行進曲で楽章が始まります。弦楽のトレモロで始まる中,低音弦の不気味な響きがかなりの強さで出てきます。するとCl.のこれもやや沈んだ表情の音が鳴らされ、高音弦のアンサンブルに引継ぎがれていかれました。

 この辺は将に葬送行進曲。その後,金管楽器やシンバルが加わり激しく盛り上がります。Timp.も大きく貢献している。

Fl.の音が止むと、静謐なVn.アンサンブルが美しく奏でられ始めました。結構美しいメロディ。

 結果的には、この様なVn.の美奏アンサンブルはその後も各楽章の各処に出て来て、以前何かの演奏会で都響を聞いた時に感じた、都響Vn.アンサンブルの典雅な流麗さを再認識しました。この曲では、例えば、その後の第2楽章冒頭、ティンパニの「ダダン」という印象的な音で始まります。その他の打楽器も加わった後,ヴァイオリンに流れるような滑らかな主題がVnアンサンブルでゆっくりと演奏された箇所、管音や速い弦楽パッセッジの後の中盤での緩やかなVn.群の調べ、pizzicatoのあと最後の高音域での牧歌的な調べ等夢見心地になったし、次楽章では、管・打楽器またそれと共に軽快な弦アンサンブルの合いの手がひとしきり響いた後、急激な強奏に変わるインパクト奏が何回か出て管の響きの後の(短いですが)Fl.とTrmp.の誘いによるVn,旋律など。第4楽章では、アルトのソロに合わせる(アンサンブルではないですが)Vn.コンマスのソロ音などなど。勿論これらがマーラーがこうした素晴らしい曲を書いているのが根本ですが、それを十二分に発揮出来る技量を有している奏者団なのでしょう。

 しかしながら、このVn.パート集団の演ずる強奏箇所、力演パッセッジにおける響きは、何か分厚さがいま一つという印象を受けました。特に低音演奏の箇所で。勿論こうした時には(管・打は勿論の事)他の低音弦も強奏・力奏で合わせる又は合の手で合わせることが多いのですが、低音弦の響きはずっしりとお腹に響く時も多かったが、高音弦アンサンブルは少し劣勢であった時が散見されました。

 若しこれが先日来日したボストン響やロンドン響、パリ管弦の演奏だったらとついその時のアンサンブルを想い出してしまう。ボストンはマーラー6番を演奏した日もあった様ですが聴けませんでした。 実はロンドン交響楽団は2020年の10月に来日公演を予定していた時、ラトルの指揮でこのマーラーの「復活」を演奏する筈だったのです。しかしコロナ禍で中止・払い戻しになってしまいました。いいチャンスを聴き逃してしまった。その後昨年、ラトルで来日公演が実現したものの、曲目はベルリオーズ、ドビュッシー、ラヴェル、ブルックナー、ワーグナー、R.シュトラウスしか聴けませんでした。しかし、この時聴いたラトルロンドン響の演奏は、とてつもないアンサンブルを響かせて呉れて(特にブルックナーなど)、そのVn.アンサンブルに限ってみても、その分厚さには驚愕したものでした。今日の大野都響も随分健闘したと思います。これまでの都響演奏のVn.アンサンブルは素晴らしいと感じた時は沢山ありますし、今回はそれらを越えた素晴らしさがありました。ただ上記した様に低音旋律におけるアンサンブルに物足りなさ感は残りました。それで失礼ながら海外オケの例を出したのです。色々海外オケの録画を聴いても(生ではなくとも)、そのアンサンブルの迫力には圧倒されます。例えば、ロイヤルコンセルトヘボー(1888年建造)、ここでは生前のマーラーも指揮をしています。このホールのオーケストラ「ロイヤルコンセルトヘボー管弦楽団」をハイティンクが指揮したものを見ると、管の響きは言うまでもなく弦楽の部厚さ特に低音アンサンブルがズッシリと体にビリビリと響いてくるのです。話はそれますが、この管弦楽団は秋に来日予定がある様です。マーラーをやって呉れないかな。勿論管弦の規模も今回の都響どころでなく、一回りも大きい(いやそれを越えている?)様に見えますが。又ハイティンクは譜面台に何か小さくて薄いノート状のものを置いているのですが、全然見ることは無く、度々目をつぶって指揮していました。全部暗譜なのでしょう。今回の大野さんも指揮する姿は将に獅子奮迅の様子で、速いパッセージ等では、総譜を右から左にページを引っ剥がす様な勢いで必死にめくって指揮していました。暗譜することがどうのこうの言うつもりは有りませんが、それだけ違っているという事です。

第2楽章について、マーラーは「英雄の過去の幸福な瞬間,青春,失われた純粋への悲しげな回想」と書いています。上記したVn.アンサンブルの美しさの他にも、チェロの対旋律演奏は美しかった。最後に主要主題がピツィカートで再現されたのも面白い。ハープの響きに続く上記した弦楽器の牧歌的カンタービレの後,木管がメロディを受け取り,最後は消え入るように終わりました。

 第2楽章の終了後に、サントリーホールのパイプオルガンの直下の席(P席)に合唱団(女声43人+男声30人)とソリスト二人(Alt. Sop.)が入場しました。

 第3楽章に関して、マーラーは「第2楽章の夢から覚め,再び人生の喧騒の流れに戻る」と書いています。この楽章は前述した様に、歌曲集「子供の不思議な角笛(hukkats注2)」の中の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」のメロディに基づいています。前楽章同様な3拍子ですが,もっと活発な動きが多い。
 ティンパニの「ダダン」という開始音が印象的。その他の打楽器も加わった後,ヴァイオリンに流れるような滑らかな主題が出てきます。この楽章ではドラも使われるのでした。その後静まり第4楽章に移って行くのです。

(hukkats注2)

『少年の魔法の角笛』(しょうねんのまほうのつのぶえ、ドイツ語:Des Knaben Wunderhorn)は、ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが収集したドイツの民衆歌謡の詩集で、ドイツのマザー・グースとも呼ばれている[1]。3巻からなり、1806年から1808年に出版された。『少年の不思議な角笛』『子供の魔法の角笛』『子供の不思議な角笛』(こどものふしぎなつのぶえ)とも訳される。

この詩集には、多くの作曲家によって曲が付けられた。恐らくもっとも注目すべきものは、グスタフ・マーラーによるものである。これはオーケストラ伴奏の歌曲集で、1899年に初版が出版された。また、マーラーの交響曲第2番、第3番、第4番のいくつかの楽章にも、この詩集の詩が使われている(このことから、これら3作の交響曲を「角笛交響曲」と呼ぶことがある)。さらに、ピアノ伴奏の多くの歌曲をこの詩集から作曲している。この詩集を用いたその他の作曲家には、メンデルスゾーン、シューマン、カール・レーヴェ、ブラームス、ツェムリンスキー、ユリウス・ヴァイスマンがある。



第4楽章では初めてアルト独唱が入りました。歌手は藤村実穂子さん。もともとメゾソプラノですから、ここのパートは少し低いので歌いずらいかも知れませんが見事な歌唱でした。N響で聴いた時にも出演していましたが、その時は(座席の位置にもよるかと思いましたが)独語の発音が不明瞭に聞こえる箇所が有りましたが、今回はしっかりと歯切れ良い独語が伝わって来ました。特に「原光(hukkats注3)」の詩の中で、

❝ Ach nein ! Ich lies~ ❞ の「Ach」の部分と、❝ Der liebe Gott~❞の「Got」の部分を強烈な発音をしていたことが印象的でした。

 

原光(hukkats注3)

 原光という日本語の当て字は独語では「Urlicht」もともと日本語には無い概念。「人類に神から与えられた原始の光」の意味です。これもキリスト教から出て来ている言葉。現代の科学的に考えると、何百億光年の昔、ダークエネルギーの他は何も存在しなかった暗黒宇宙に、コンマ何秒の間に急激なインフレーションが起こって光と物質(素粒子)が満ち満ちた、その光に例えることが出来るかも知れない。それは神が与えて呉れたと宗教的に考えれば。尚以下に「原光」に関する詩を引用して置きます。

ALT SOLO

O Röschen rot!
Der Mensch liegt in größter Not!
Der Mensch liegt in größter Pein!
Je lieber möcht' ich im Himmel sein,
Je lieber möcht' ich im Himmel sein!

Da kam ich auf einen breiten Weg;
da kam ein Engelein und wollt' mich abweisen!
Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen!
Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen:
Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!
Der liebe Gott, 
Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,
wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!

 Aus(Das Knaben Wunderhorn)

 

 マーラーはこの楽章について「私は神からきて,神のもとへともどってゆくだろう」と書いています。苦しみの中にいる英雄の天国への憧れを描いているのです。この曲の歌詞は,「子供の不思議な角笛」の中の「原光(Urlicht)」によります。もとはこの歌曲集にも入っていたのですが,後でこの歌曲集からは削除されました。

藤村さんがアカペラで「O Röschen rot! おお紅いバラよ」と歌い出した後、舞台裏からバンダのトランペットによるコラール風のメロディが響いてきます。とても静かで美しい曲です。この日のバンダ演奏は Hrn.3+Trump.3だそうです。ステージに戻ったのがちらりと見えました。最後の方に出てくるメロディは第5楽章にも登場します。独奏ヴァイオリンも活躍します(上記参照)。その後,最初のメロディが戻ってきます。アルト独唱の歌が終わった後,ハープの弱音などを交えた後奏となり,静かに終わりました。

これでマーラーの全曲構図の意図が初めて明らかになりました。
第1楽章:悲劇的な人生

第2楽章:解放された素朴さの中の人生,

第3楽章:衝動的な混乱の中の人生。

第4楽章それらを克服したあと,人間には死への憧憬が迫る要するに神で生き返るのですから。そしてその意味が次の第5楽章で一艘詳しく展開されていくのです。

第5楽章
人生の終末のあと最後の審判を受けた英雄がやがて永遠に復活するまでを描いた音楽です。全曲の2/5を占める長大な音楽で,管弦楽の編成も非常に大きなものとなっています。解説書によれば以下の3つの部分から成っています。

第1部スケルツォのテンポ,

ソナタ形式の呈示部に当たる。「荒野に呼ぶ者」と呼ばれています。強烈な響きで始まります。Trmp.+Trmb.による第1主題。続く不気味な低弦の動き+ホルンの静かな第2主題。この主題は「慰めの主題」と呼ばれます。「荒野に呼ぶもの」の動機がホルンで奏され、ゆっくりと木管による第3主題が現出。前半は第1楽章に出てきた「怒りの日」のメロディ、後半はTrmb.による「復活の主題」。短い経過部の後,Vn,アンサンのトレモロが静かに奏され、木管楽器による第4の主題が出て来て次第に強烈に盛り上がる。第3主題などによる経過部の後,きらびやかで興奮が収まる様に第1部が終焉しました。

第2部は展開部にあたりますが簡単に記すると,二つの部分からなり一つは、第1主題と第3主題の様々な展開で,二つ目は第4主題が展開されます。金管楽器による「荒野に呼ぶ者」動機も絡んできます。第1主題も登場し大きく展開。
次に第3部。ここは「偉大なる呼び声」と呼ばれます。
そして合唱員達が待ちに待った四部合唱がクロプシュトックの「復活」の讃歌を神秘的な表情で歌い始めます。アカペラですメロディは先に出てきた「復活の主題」です。管弦楽は第2主題で応え,感動的をたたえた雰囲気になります。この辺りからは静かで室内楽的な雰囲気が続きます。独唱が第4楽章の主題を歌いハープのグリッサンドが出てきた後,再度,合唱が「復活の主題」を歌い始めます。弦楽器の音に続いて,アルト独唱とソプラノ独唱の二重唱が歌われました。ソプラノ独唱は中村恵理さん。関西画もともと地盤の方のようです。海外でも活躍され、昨年は英国ロイヤルオペラでも歌った模様。会場に良く通る仲々いい声でした。オラトリオ歌手の風格があります。その後,オルガンも加わるのですから豪壮なアンサンブルです。全管弦楽と合唱が「復活」の主題による力強いクライマックスを形づくり最高潮に盛り上がって終演でした。

 

【参考】マーラーによる第5楽章の標題的な説明

荒野に次のような声が響いてくる。

「あらゆる人生の終末はきた。」

……最後の審判の日が近づいている。大地は震え、墓は開き、死者が立ち上がり、行進は永久に進んでゆく。

この地上の権力者もつまらぬ者も、王も乞食も、進んでゆく。偉大なる声が響いてくる。啓示のトランペットが叫ぶ。

そして恐ろしい静寂のまっただ中で、地上の生活の最後のおののく姿を示すかのように、夜鶯を遠くの方で聴く。柔らかに、聖者たちと天上の者たちの合唱が次のように歌う。

「復活せよ。復活せよ。汝許されるであろう。」

そして、神の栄光が現れる。不思議な柔和な光がわれわれの心の奥底に透徹してくる。

……すべてが黙し、幸福である。そして、見よ。そこにはなんの裁判もなく、罪ある人も正しい人も、権力も卑屈もなく、罰も報いもない。

……愛の万能の感情がわれわれを至福なものへと浄化する。

 

【参考】歌詞の意味・日本語訳

Mit Flügeln,die ich mir errungen
Werde ich entschweben.
Sterben werd ich, um zu leben!
Auferstehn, ja auferstehn wirst du,
mein Herz, in einem Nu!
Was du geschlagen,
zu Gott wird es dich tragen!

私が勝ち得た翼を広げて
私は舞い上がろう
私は再び生きるために死ぬのだ
よみがえる、そう汝はよみがえるのだ
私の心よ、今ただちに
汝の高鳴ったその鼓動が
神のもとへと汝を運んでいくだろう

 

終演後は拍手の嵐で、マーラー2番「復活」を好演した都響オーケストラ、ソリスト、合唱団、そして何よりこの好演を引き出した指揮者の大野さんと、合唱指揮の冨平さん達を讃えていました。結構長くカーテンコールが続いた。というのも配布されたプログラムにも書いてありましたが、ヴィオラ奏者の堀江和生さんが、今日を最後に退団されるということで、花束贈呈などがあり、長年貢献された堀江さんにも大きな拍手が起きていました。