今日は、24節季の一つ夏至です。歴書によれば、「旧暦五月午の月の中気で、新暦六月二十一日頃です。この日、北半球では昼が最も長くなり、反対に夜が最も短くなります。夏至は夏季の真ん中で、梅雨しきりといったところで、農家は田植えに繁忙を極める季節です。」とあります。
この時期の風景を清少納言は『枕草子』で、いろいろと描写しています。
(226段*注)
*注 幾つかの系統諸本によって段数がズレて異なる。本稿は「岩波文庫」からの引用で、その基としているのは、三巻本系統に属する柳原紀光自筆本です。
「賀茂へ参る道に、田植うとて、女のあたらしき折敷(をしき)のやうなるものを笠に着て、いとおほう立ちて歌をうたうふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす、おれ、かやつよ。おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とはいえけん。仲忠が童(わらわ)生ひいひおとす人と、ほととぎす、鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。」
当時も田植え風景は現在とそう違わなかった様です。頭に日よけの笠(折敷*注2の様)を被って、田植え歌をうたいながら。
*注 2 折敷は次のお盆の様な物、竹などで丸く編んで隙間から空気が出入りできるものを伏せて頭に被ったのでしょう。田植え歌を歌いながらというのも現代に伝わっているのですね。
田植えの動きは現代と同じ様に体を前に折って苗を田に差し込み、後ろ向きで進むのです。
また同草子では、五月(現在の新暦では六月)の風景を、次に様にも記しています。
(223段)
「五月ばかり、山里にありく、いみじくをかし。澤水も實にただいと青く見えわたるに、うへはつれなく草生ひ茂りたるを、ながながとただざまに行けば、下はえならざりける水の、深うはあらねど、人の歩むにつけて、とばしりあげたるいとをかし。
左右にある垣の枝などのかかりて、車のやかたに入るも、急ぎてとらへて折らんと思ふに、ふとはづれて過ぎぬるも口惜し。蓬の車に押しひしがれたるが、輪のまひたちたるに、近うかがへたる香もいとをかし。」
(224段)
「いみじう暑きころ、夕すずみといふ程の、物のさまなどおぼめかしきに、男車のさきおふはいふべき事にもあらず、ただの人も、後の簾あげて、二人も一人も乘りて、走らせて行くこそ、いと涼しげなれ。まして琵琶ひきならし、笛の音聞ゆるは、過ぎていぬるも口惜しくさやうなるほどに、牛の鞦の香の、怪しうかぎ知らぬさまなれど、うち嗅がれたるが、をかしきこそ物ぐるほしけれ。
いと暗闇なるに、さきにともしたる松の煙の、かの車にかかれるもいとをかし。」
(230段)
「五日の菖蒲の、秋冬過ぐるまであるが、いみじう白み枯れて怪しきを、引き折りあげたるに、その折の香殘りて、かがへたるもいみじうをかし。」
(231段)
「よくたきしめたる薫物の、昨日、一昨日、今日などはうち忘れたるに、衣を引きかづきたる中に、煙の殘りたるは、今のよりもめでたし。」
(232段)
「月のいとあかきに川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水のちりたるこそをかしけれ。」
(202段)
「五月の長雨のころ、上の御局の小戸の簾に、斎信の中将の寄りゐ給へりし香は、まことにをかしうもありしかな。その物の香ともおぼえず、おほかた雨にもしめりて、えんなるけしきの、めずらしげなきことなれど、いかでかいわではあらん。またの日まで、御簾にしみかへりたりしを、わかき人などの世にしらず思へる、ことわりなりや。」
『枕草紙』の絵画的描写の素晴らしさは、冒頭の(1段)「春はあけぼの・・・・」で証明済みですが、上記(223段)の ❝とばしり❞で水しぶきや(232段)で、牛車で川を渡る際の水しぶきが月明かりに映えて ❝水晶などのわれたるやう❞と表現した処、その他の段でも多くの視覚的描写で発揮されています。
またその嗅覚が鋭い。一般的に発酵食品を古来から好む日本人は、納豆や漬物の臭さも気にせぬ人が多くいるにも関わらず、芳香に対しては、鋭い嗅覚を古代から有している様です。(香道がその代表例か?)清少納言も例に漏れず、嗅覚の鋭さを表現しています。
上記(223段)の近うかがへたる香 や(202段)で斎信中将の着物に炊き込んだお香の残香が、次の日まで御簾から匂うといった描写、さらに驚異的なのは、(230段)での菖蒲が枯れた状態で折ったらその香りが漂ったという超嗅覚。菖蒲湯という風習があり、我が家でも5月5日(新暦でやります)には男子である小生一人のために菖蒲の束をお風呂の湯に浮かべて入ります。確かに僅かにさわやかな香りがする様な気がしますが、しかしはっきりとしたものではなく、菖蒲の根元の赤い部分を折るとその匂いかなとやっと分かる程度の弱い香りなのです。それが白く立ち枯れした菖蒲の茎を折って感じる香りとは、一体どれ程の濃度の香りなのでしょうか。現代のガスクロマトグラフという分析機械を使えば濃い、薄いが分かるかも知れない。
確かに調香師など嗅覚一つで香水の香りを作り出すくらいですから、清少納言は調香師級の嗅覚を持った女性だったのでしょう、きっと。
ついでながら、梅雨の湿度が高い時には、人の嗅覚は一段と鋭くなります。悪臭対策は色々なされていますね。
更に彼女は音に対しても敏感だった様です。(224段)の まして琵琶ひきならし、笛の音聞ゆるは、過ぎていぬるも口惜しく
の箇所のみならず、割愛しますが多くの段に鳥や自然の音や楽器等聴覚が鋭いことが分かる記載があります。
こうしてみると、音楽好きから見ると、耳がいいということは、音楽演奏をしてもきっと一流の音楽家になっていたかも知れないと憶測が広がる夏至の夜でした。