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綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『カントロフ・ピアノリサイタル』鑑賞

【日時】2022.6.30.19:00~

【会場】東京オペラシティ・タケミツホール

【出演】アレクサンドロフ・カントロフ(ピアノ)

   アレクサンドル・カントロフ

<Profile>

22歳で挑んだ2019年チャイコフスキー国際コンクールにおいて、フランスのピアニストとして初めて優勝。16歳で、ナントとワルシャワのラ・フォル・ジュルネ音楽祭から招かれシンフォニア・ヴァルソヴィアと共演して以来、数多くのオーケストラからソリストとして招かれ、とりわけゲルギエフ指揮/マリインスキー劇場管弦楽団とは定期的に共演を重ねている。これまでに、ピエール=アラン・ヴォロンダ、イーゴリ・ラシコ、フランク・ブラレイ、レナ・シェレシェフスカヤらに師事。
アムステルダムのコンセルトヘボウ、ベルリンのコンツェルトハウス、フィラルモニー・ド・パリ、ブリュッセルのボザールなどの一流ホールで演奏を披露し、ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノ音楽祭、ジャコバン国際ピアノ音楽祭、ハイデルベルク春の音楽祭などの著名な国際音楽祭にも出演している。
録音では、デビュー・アルバム「À la russe」(BIS)が、クラシカ誌の年間最優秀ショク賞に輝き、ディアパゾン誌、ピアノニュース誌の特薦盤に選ばれるなど、広く注目され高い評価を得る。BISレーベルからは、「リスト:ピアノ協奏曲集」、「サン=サーンス:ピアノ協奏曲第3・4・5番」(ディアパゾン・ドールと年間最優秀ショク賞2019を受賞)、「ブラームス、バルトーク、リスト」(ディアパゾン・ドールと年間最優秀ショク賞2020を受賞)がリリースされている。
2019年、フランス批評家協会賞の年間最優秀新人音楽家部門を受賞。20年には、先述のサン=サーンスの協奏曲アルバムで、フランスの最も権威ある音楽賞「ヴィクトワール・ド・ラ・ミュジク・クラシック」の2部門(年間最優秀録音部門/年間最優秀器楽ソリスト部門)を同時受賞するという快挙を成し遂げた。
サフラン財団賞およびバンク・ポピュレール財団賞を授けられ、助成を受けている。

 

【曲目】
①リスト『J.S.バッハのカンタータ「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」BWV12による前奏曲 S.179』

②シューマン『ピアノ・ソナタ第1番 嬰へ短調 op.11』

③リスト『巡礼の年第2年「イタリア」から ペトラルカのソネット第104番』

④リスト『別れ(ロシア民謡)』

⑤リス『悲しみのゴンドラ II』

⑥スクリャービン『詩曲「焔に向かって」』

⑦リスト『巡礼の年第2年「イタリア」から ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」』

 

【演奏の模様】
 今日のカントロフの演奏を聴き終わって先ず思ったことは、岡本太郎ではないですが、”音楽は爆発だ!!”ということ。カントロロフの演奏は将に若さが炸裂したエネルギーの発散がありました。しかもその勢いは尋常でないメガトンクラスのもの。
 演奏曲目には、シューマンとスクリャービンが入ってはいますが、ほとんどリストです。オールリストプログラムに近い。何も勘繰る訳では無いのですが、こうした時期にフランスのピアニストがリサイタルで選曲したプログラムは、非常に興味深いことです。彼は、2014年第16回チャイコフスキーコンクールピアノ部門の覇者です。そう日本の藤田真央君が二位になった時です。コンクール後来日公演があるだろうと思っていましたが、一向に現れず、真央君のみが国内演奏会で活躍が目立っていました。そうこうしているうちにコロナが広がってしまい自分の中では、最近まで忘れていたピアニストでした。今回が初来日かと思ったら、昨年一度来日公演した模様、知らなかった。調べると、トッパンホールで、ブラームスやリストを弾いた様です。ブラームスの曲は今回は入っていませんが、聴いてみたかったです。
 カントロフが今回リストの曲を多く選んだことは、同じピアニストとしてリストに一目置いている証しではないかと思う。カントロロフは、かってパリでショパンが世に出る助けをし、自らもパリ等で大活躍したリストの名声を知っているに違いない。如何にリストが素晴らしいピアニストだったかは世に知られたことですが、参考までリストの生涯を文末に掲載しておきました。
カントロロフは若しかしてリストみたいなピアニストになりたいと考えているのかも知れない。

 さて演奏の方は、すたすたと速足で登壇したカントロフはあごひげ(無精ひげかな?)を蓄えた細身の背高の若者でした。ピアノまで10歩で到達していた。ピアノの前に座ったピアニストはしばし精神を統一してから弾き始めました。
①リスト『J.S.バッハのカンタータ「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」BWV12による前奏曲 S.179』
 この曲は、リストが1859年に作曲し、1863年に出版されました。バッハのカンタータをもとにしています。
バッハの原曲は、1714年 4月22日、復活節後第3日曜日に初演さ れた作品で、ワイマール宮廷楽師長就任第2作です。曲はオーボエの印象的な、悲嘆のシンフォニアから始まります。本当 に、このシンフォニアはバッハそのままという曲で、単独でも良く 演奏されます。BWV21のシンフォニアなどと並ぶ傑作と言えるでしょう。
第2曲の合唱が、何と言ってもこのリストの曲の目玉です。「泣き、歎き、憂い、 怯え」("Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen")と、類語を畳みかけるように歌う歌 詞も良いが、これは、ミサ曲ロ短調の「十字架に架けられ」("Crucifix") と同じ曲なのです。正確に言うと、この曲がミサ曲ロ短調に転用さまし た。この曲の旋律は「不協和音」の美の極致のようなもので、悲痛なうなり声が聞こえるが如きなのですが、ピアノによるカントロロフの表現は、将に ”悲痛なもの ”でした。演奏時間は、5分程度の短い曲。
続いて、直ちに次曲に移りました。
②シューマン『ピアノ・ソナタ第1番 嬰へ短調 op.11』
です。
 この曲は、1832年から1835年にかけての作で、1836年に出版されました。幻想曲や変奏曲といった小品に取り組んできた作者の初めてのソナタ形式の大作でクララに捧げられました。四楽章構成。約30分の大曲です。
〇第1楽章 Introduktion:un poco Adagio-Allegro vivace
〇第2楽章 Aria:Senza passione, ma espressivo
〇第3楽章 Scherzo e Intermezzo:Allegrissimo
〇第4楽章 Finale:Allegro un poco maestoso
 

この曲は多くの先人ピアニスト達が演奏し、録音として残っています。

カントロフの演奏は、そういったものの中で最右翼に出る硬派演奏と言えるでしょう。

冒頭のシューマンらしいすぐそれと分かる特徴ある旋律がやや分かりずらい気がしました。すぐに速い軽快なリズムの音が迸り、カントロフはそのまま疾走しました。続く

一楽章中程のゆったりしたメロディは綺麗に表現、こうした美しい旋律はその他2楽章の最初のロマンティックな調べ等で見られましたが、しかしカントロフはこうした歌う箇所よりも強打鍵で激しく力演する箇所の表現が得意かな?とこの時は思う程の強さでピアノを叩いていました。

4楽章の不協的響きの速いテンポのパッセージ後の相当速いテンポで続く何回か低速になって息を継ぐと思いきや再度猛ピードでFinaleに突入して曲を終えた瞬間、カントロフは、心なしかホッとした表情を見せたように思えました。

ここで感じたのは、旋律的謳う箇所と速いリズム中心の強い箇所の力の配分を最適に加減出来れば最高の演奏になるであろうということでした。

 ①と②の演奏で50分前後かかり、ここで20分の休憩に入りました。

 休憩にホワイエに行ってみると多くの客で一杯でした。女性客が多い、7~8割もいたのではないでしょうか。演奏が始まる前ホールを振り返ってみたら超満員でした。今日はカメラが入っていて、館内放送は無かったのですがどうもNHKが入っていた模様です。何れの日にか放送するのでしょう、きっと。
後半の曲は次の③~⑦の五曲でしたが、カントロフは何とこれを休みなしに、一気通貫で演奏したのです。時々これをやるピアニストがいますね(最近聴いた、指揮者の上岡さんのピアノリサイタルの時もそうでした)。多分時間の関係も有り、又演奏者の力を休憩で損なわない様にする場合もあるのでしょう。でも聴く方としては(少なくとも自分の場合は)、せめて同じ作曲者の範囲に留めて欲しい、今度は別の作曲者だなと気持ちをチェンジする数分の間が欲しい、気がしました。特にスクリャービンの演奏は別ということを明確にして欲しかった。リストの演奏に埋没していました。


③リスト『巡礼の年第2年「イタリア」から ペトラルカのソネット第104番』

④リスト『別れ(ロシア民謡)』
⑤リスト『悲しみのゴンドラ II』
⑥スクリャービン『詩曲「焔に向かって」』
⑦リスト『巡礼の年第2年「イタリア」から ソナタ風幻想曲<ダンテを読んで>』

『巡礼の年』はリストの20代から60代マで二断続的に作曲したものを集合したピアノ独奏曲集です。「第1年スイス」「第2年イタリア」「第2年補遺:ヴェネツアとナポリ」「第3年」の4集から成り、作風の変遷もよくわかります。「泉のほとりで」、「ダンテを読んで」、「エステ荘の噴水」などが特に有名。今日の最後に、この「ダンテを読んで」が演奏されたのでした。

この中でやはり最後の⑦の曲が聴いていて自分としては一番気に入りました。リストは文末掲載の資料にもある様に、ウクライナの富豪夫人ウィックと恋仲になり法王に離婚を求めてローマ入りしたカトリック教徒のウィック夫人の後を追ってローマに定住したのです。恋の道ははるかなるかな!盲目かな!ですね。その時僧籍を得たリストは、
この曲は1840年代には既に出来ていたと思われ、定住前に何回かイタリアに行ったことのあるリストはダンテの「神曲」は読んだことがあったのでしょう(「神曲」は当時の欧州に於いては、バイブルの次という位置づけがなされ、一般教養として広く知られていたのです)。

カントロフの演奏は、時に肩、背を丸め、頭を鍵盤上に落とし、丹念に鍵盤をなぞったかと思うと、激しく打鍵して、一気呵成に鍵盤上を指が行き交い、迫力満点の演奏の箇所が大部分でした。指使いもその時々により自由自在に変化させ、ある時は指を丸めて旋律を紡ぎ出しある時は指を立てて手、腕の力を指に移してフォルテシモをはじき出し、至る所で腕を交差して左手の跳躍音、或いは両手での交差演奏等聴くだけでなく鍵盤上を指を動かす演奏の様子も、良く見える座席だったので堪能出来ました。勿論強奏だけでなく高音域を指でなでるようにして柔らかいピアニッシモの音を出していたし、美しく綺麗な音をたてて、ピアノを歌わせる個所も少なくなかった。

技巧的にも音楽性の表現も、カントロフはかなりの高味に到達していると思われた一日でした。
 鳴りやまぬ拍手に対してすたすたと出て来たカントロフはおもむろにピアノに向かいアンコール曲を弾き始めました。先月観に行ったばかりのグルックの①オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』から<精霊の踊り(ズガンバーティ編)>でした。この曲は元々はフルートの曲ですが、ピアノの演奏もいいですね。精霊(役のダンサー)が曲に乗ってバレエを踊るには、ぴったりのピアノ曲でした。その他続いて5曲、都合6曲もの曲がアンコールで演奏されました。これは出血サービスとも言えますね。聴く方としては皆大喜び。
 ②ストラビンスキー(アゴスティ編)『バレエ火の鳥より<フィナーレ>』
 ③ヴェチェイ(シフラ編)『悲しきワルツ』
 ④ブラームス『4つのバラードOp.10から第2曲』

 ⑤モンポウ『歌と踊り』Op.47-6

 ⑥ブラームス『4つのバラードOp.10』から第1曲


尚参考まで、一昨日、カントロフは大阪で同じプログラムでリサイタルを行いましたが、その時のアンコール曲は、以下の通りでした。
 <6/28(火)19時 大阪 ザ・シンフォニーホール>
ヴェチェイ(シフラ編):悲しきワルツ
ストラヴィンスキー(アゴスティ編):バレエ「火の鳥」から フィナーレ
グルック(ズガンバーティ編):精霊の踊り
ブラームス:4つのバラード

 

(参考)///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

《リストの生涯》

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年ウィーンに移住し、ウィーン音楽院カール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年にはオペラ『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。

1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。その時の石版画1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(ただし無署名である)。

1827年には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。

ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト

1831年ニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズフレデリック・ショパンロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年ドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年スイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた[3]。再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。

ヴァイマール時代

以前から、リストとヴァイマール宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位にあったが、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任した[4]。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマールで作曲に専念した。以後も機会があればコンサートでピアノを弾くことはそれなりにあったし小さなサロンではよく弾いたが[注 2]、これを機にリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになった。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、ヴァイマール時代である。

リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演したが、地方の一小都市に過ぎず、また保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられなかった[5]。実際、リストが指揮するコンサートはガラガラだったという[5]。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、1851年の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものだった。リストはヨアヒムコンサートマスターとして招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力したが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができずコンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実らなかった。

それにもかかわらず、リストはこの地でワーグナーの歌劇『タンホイザー』のヴァイマール初演 (1849年2月中旬)、歌劇『さまよえるオランダ人』のヴァイマール初演、歌劇『ローエングリン』の世界初演 (1850年8月28日)、シューマンの劇音楽『マンフレッド』の世界初演 (1852年)、歌劇『ゲノヴェーヴァ』(1855年)、ベルリオーズの歌劇『ベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、マイアベーアヴェルディの歌劇など多くの大規模作品を演奏している。

特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになった。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発だった。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになった、

一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料として作用した。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもあった。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていた。

1958年には、弟子のペーター・コルネ―リウスによる歌劇『バグダッドの理髪師英語版)』で聴衆から激しいブーイングを受ける事件が起こり、これが原因で翌年には音楽長の職を辞すことにした。カール・アレクザンダー大公は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みたが、リストの意思は固く復職することはなかった。辞職を翻意しなかった理由は複雑であまり明瞭ではないが、やはり侯爵夫人との結婚問題が大きな要因であったことは否定しがたいようである。

離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚をローマ法王ピウス9世に許可してもらうためローマに1人で出かけていった。それが1860年5月のことである。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘で1人で自由な生活を送っていたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日にヴァイマールを後にした。途中、ベルリンパリを経由し、10月21日にローマに到着[、以降はローマに定住するようになった。

リストがローマに行った理由は、資料によって説明がばらついていてはっきりしない。ローマに行ったカロリーネを追いかけて行ったという説明もあれば、1859年にリストがドイツで会ったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿がリストの教会音楽改革計画に賛同し、後にリスト宛てにローマから手紙を書いて、リストのローマ定住を希望したからだと書くものもある。

ローマ定住以後

リストが1861年にはローマに移住した後、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っている。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると言われている。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いている。「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアン移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。

リストは晩年、虚血性心疾患慢性気管支炎鬱病白内障に苦しめられた。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーはリストを「確実にアルコール依存症」と証言していた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。

1886年バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。