<ミラノ十一月六日>
この日の記事は、スカラ座の近傍の通りに面した主だった建物の見どころ、及び近かくの広場に纏わる惨殺の悲劇について記しています。
“スカラ座の方からやってくると気付くサン・フェーデレ教会の側面はとても美しいが、ギリシャ的美の種類に属する。これは陽気で気高く、恐怖を与えるものがない。”“サン・ジュゼッペ通り、スカラ座、サン・フェデーレ教会、ベルジョイヨーゾ館、デリ・オメノーニ邸、これはみな隣接している。今日では薄のろどもで一杯の税関の大ホールは、十六世紀のサロンに設置された装飾の耐久性の敬意を表している。チュイルリー宮のディアーヌの回廊は比較すると貧弱だ。”
ここで、税関の建物とは、現在、スカラ座の対面の市庁舎の事で、
またパリ、チュイルリー宮殿は、かの有名なカトリーヌ・ド・メディシスにより1563年、建造命令が出て100年かかり完成。1683年に王宮がベルサイユに移されるまで使われたものです。フランス革命の1789年に、マリーアントワネットとルイ16世がベルサイユから逃れて再び王宮とされ、後に革命政権の拠点として使用されたものですが、パリコンミューン鎮圧時の1871年に放火で焼失してしまって現在は広場・公園となっています。
続いてサン・フェーデレ広場に関して、この広場はナポレオン政権(イタリア王国)が崩壊した1814年に、反ナポレオンのオーストリアの支持者と暗殺者によって、惨殺された、ナポレオン政権下で大蔵大臣だったプリーナ伯爵の館を、解体して出来た広場であることを述べている。
フランス革命下でもそうですが、如何なる強権政権でも瓦解した後は、正義の名のもとに悲劇が演じられることは、世界の歴史が示していることです。