<ミラノ十月二十八日>
この日の小見出しには“午前五時、舞踏会から出て”とあり、スタンダールは夜通しサンパオロ通りのカジノ(集会所)で催された舞踏会に参加していたのでしょう。この日は “僕は四時間後にデジオに向けて出発する” と書いています。このデジオは<九月二十六日>の記事にも記載があり、そこでは、スカラ座の劇場内の構造を褒め称えているのですが、文頭に “夏に逆戻りした。~デジオに行ってきた” という不可解な文が存在するのです(hukkats2020.4.15付「スタンダール『イタリア旅日記』散読(続き)」参照)。
ところが、デジオについては一言も説明していない。上記のスカラ座を褒め称える文章は『イタリア紀行(1817年版)』では<ミラノ十一月十日>の記事で同じ趣旨を書いているのですが、ここでもやはりデジオについては一言も触れていません。従ってデジオには一体いつ行ったのかという疑問と、本当に四時に舞踏会を出て九時に(ほとんど睡眠をとらないで)デジオに行ったのかという疑問が残ります。その辺りはいくら詮索しても分からないので、兎に角デジオというミラノ北方十マイルにある英国式庭園に行って来たことは本当なのでしょう。
そこにはネオ・クラシックなヴィッラ(館)と壮麗な庭園があったそうなので、見てきて色々感想がある筈なのに書かない。何故だろうと色々考え合わせると、これは書かないのではなくて書けなかったのではなかろうかと思うのです。即ちこの日の記事で “~デジオに向けて出発する。そこをゆっくり見なおしたいと思う。今書かなければあとでも書かないだろう。僕は平静になって三日後には滑稽に思えるような褒め歌を書かないように努める。僕の原稿はオーストリア警察に没収されるかもしれないから、~” と言っており、何らかの理由で書けなかったのでしょう。もう一つの可能性としては、庭園を描写すれば、その季節感を抜きには書けないでしょうから、(いい加減な)日付けと書いた季節の乖離がどうしても生じたのではないでしょうか?話の筋道が通らなくなってしまう。因みに1817年版でも、1827年版でも、読み進んだ処まででは、季節感が分かる記述はどこにも出て来ません。恐らくスタンダールは、[季節が分かる=日付が妥当か分かる] 表現は避けたか、カットした可能性があるのです。
従ってこの日の記述は、デジオについてでなくて、舞踏会に参加した人々の男女の美しさや舞踏会での振る舞い、風俗・習慣について6ページに渡って長々と書いているのです。
ところで、今日のコロナ関係ニュースによると、北九州地区が感染の第二波に見舞われつつあることや、東京、北海道もその危険があるという報道がなされていました。第二波が急拡大して、これまでの国民の努力が元の木阿弥になってしまったらどうするのでしょう。5月末までの緊急事態宣言が一週間早く解除されて、ほんとに大丈夫なのだろうか?と心配していましたが、やはりという感がします。解除時に “第2波は必ずやってくる” などと何回も言っていた大臣もいましたが、やってくることが分かっていて解除したのならこれは『確信犯』ですね。多くの医療専門家が “コロナの収束は、ワクチンが開発されて使用可能となった時に初めて終息できる” と言っていたにもかかわらず、“経済を立て直ししなければ” とか “コロナとの共存” 等々の掛け声のもと、人々が街に出て行って感染経路が分からない市中感染により二次感染、三次感染、四次感染が指数関数的に広がったら一体誰が責任を取るのでしょう?泣きを見るのは一般国民です。特に弱者です。以前も書きましたが、コロナとの戦いは真剣勝負です。殺るか殺られるか。中間などあり得ない。肉を切らせて骨を断つ。これしかないと思います。あの戦争に食べる物もろくに食べられず、着るものも着られず、血の滲む様な忍耐で耐え忍んだ日本人ですから、(戦後生まれの自分ではありますが、先人からの話やもろもろの情報から戦争の苦しさはよく分かっているつもりです)必ずや苦しみを耐え忍び、最終勝利を手にすることは可能だと思います。