HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『音と言葉(フルトベングラー著、芳賀檀訳)』散読

 枕元の小箱に積読の本が雑に積んであります。読み掛けの本もあれば手の付けていない本もある。『音と言葉(フルトベングラー著、芳賀檀訳)新潮文庫』は読み掛けの本で、厚くない本なので今夜(2020.2.5.水)から就眠前に布団の中で、少しずつ読み足そうと思います。(読んでいるうちにすぐ眠くなってしまい仲々読み終わらない。)と言いますのも、例の横浜港のクルーズ船のコロナウイルス感染騒ぎで、今週末に横浜みなとみらいホールで井上道義指揮、神奈フィルの公開リハーサル(ショスタコービッチの交響曲14番とビゼーのカルメン組曲)を見に行く予定にしていて、若し聴いて魅力を感じたら翌土曜日の本演のチケットをその場で買おうかと思っていたのでしたが、家人に‘横浜港界隈に近づくのは当分厳禁’と強く言い渡され、‘音楽ホールは大丈夫だよ’と反論しかけて、ぐっと言葉を飲み込みました。大丈夫かどうかの保証はない。肺炎発症者はふ頭からバスで病院に搬送された様ですが、その際の接触者が菌を貰っていないとは断言できないし接触者が家に帰って家族にうつし、その家族が音楽を聴きに来ない保証は無い、と考えたからです。素直に音楽会を諦めたのでした。 それで積読本に少し目を通そうかと考えたのですが、上記の本は、フルトベングラーの評論を幾つか集めたもので、その評論の一つに、「ヴィーン・フィルハーモ-ニーについて」の一文がありました(ヴィーンフィル百年祝典記念講演1942年)。その中でフルトベングラーは、①ヴィーン・フィルハーモ-ニーの独特な輝かしい、軽く漂う美妙な弦楽器の音は、使っている楽器が良いからだ。②ヴィーンフィルのメンバーは一部を除き皆生粋のヴィーンっ児で、ヴィーンで生まれ育った人たちであり、独特の温かみ、あのふっくらした柔らかみのある豊かな音、そして音の同家族性はヴィーンの自然がもたらしたもの といった趣旨のことを述べています。①に関しては楽器演奏特に弦楽器を聴く時、たびたび私の頭にも浮かぶ疑問でした。確かにストバリの演奏音を聴くと他とは明確に違う良い音がするし、スタンウェイ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファのピアノを聴くとありふれたピアノとは違っていい音が響く、やはり楽器かな?と思うことはたびたび。でもフルトベングラーはそうではないということをエヴィダンスを示して説明していました。即ち“ヴィーンフィルはヴァイオリン製作者レームベックの造った弦楽器を弾いていました。そこで私もレームベック氏に近づきになりました。レームベック氏は私の「音の芸術家」たちのためによろこんでヴィーンフィルの楽器のクインテットをゆずり渡してくれました。さて私は私のオーケストラにあの有名なヴィーンフィルと同じ様な美しい音を出させる可能性と希望とを手に入れた訳でした。ところが残念ながらこの投機は思惑外れだったことがわかってきました。私のオーケストラは、少しもヴィーンフィル的な美しい音を出してくれないばかりか、結局かちえた効果と言えば、ごく当たり前と言うよりも、弱々しい、つや消しなものになってしまいました。そこで私たちはやむをえず次の演奏会からはふたたびいつもの私たちの、古くから手慣れしている楽器を引っぱり出さねばならなくなった始末でした。まことに、音楽をつくりで出すものは楽器ではありません。”と言っています。やはりオーケストラの様なアンサンブルは個々の楽器の良し悪しでなく、違った次元で醸成されるものだということを確信しました。
一方②についてはさもありなんと思いました。ヴィーンで育った或いはヴィーンで修業した音楽家の言動からは、如何にヴィーンを愛しているか慈しんでいるかが伝わってきます。パリではそうはいかないでしょう。パリは大好きでも慈しむという感じは余り聞かない、どちらかというとドライな愛情かな?これを書いていて眠くなってしまいました。お休みなさい。