HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

2023年初詣で

 2023年の関東地方(少なくとも自分の居住する横浜)は、これ以上無いくらいの最高の快晴・無風の元日で始まりました。真白き富士は遠くに屹立、空に一筋の飛行雲、落花紛々の山茶花は、陽春の如し。暖かな日差しに誘われて初詣でと相成りました。

横浜平戸白幡神社

 さて何処に行こうか?と考えたのですが、相模一宮である寒川神社には昨年行ったし、大晦日にテレビで放送していた鎌倉の「鶴が岡八幡宮」は物凄い込み具合だろうし、何年か前にも行ったことがあるのですが、近場の源氏ゆかりの「白幡神社」に行くことに決めました。

 もよりの駅から10分もかからない近場です。境内の周りは鬱蒼とした木々で覆われ、タワマンが立ち並ぶビル街のそばだとは分からない程の静けさ。

 大きな木の根元には、どんぐりが一杯、スコップで掬くえる程落ちていました。大昔、縄文時代には、この実を食用にしていたという説もあります。一粒拾って殻の中の実を口に入れたら、渋いの何のってありません。縄文人はアク抜きの方法も知っていたに違いない。現代であれば色んなアク抜き法が有りますが、太古の時代には何回も茹でてアクを抜いていたのでしょうか?でもかなり手間暇と貴重な火力を要する作業です。何か現代人の知らないアク抜き物質(たとえば特殊なアルカリ土)に長期間晒しておくとか、現代であれば特許をとれるような方法を使っていたかも知れない。兎に角、貴重な食糧の一つだったのでしょう。今後、日本が食糧難で、ドングリを食べざるを得ない様な境遇に陥らないことを、祈ります。

 品濃・白幡神社

 この神社は、駅から近いという事もあってか、参拝客が参道から鳥居の外の道路にまで溢れ、何十mも行列を成していました。並んで待っていても参拝出来るまでには、何時間かかるか分からないので諦め、バスに乗って数10分先の地にある、別の「白幡神社」に行きました。

 平戸白旗神社

 駅から遠く駐車場もない神社なので、比較的空いていましたが、急な石段の参道を登りきると、狭い境内には数十人の参拝客が並んでいました。

平戸白幡神社

 確かに源氏の笹竜胆の紋が垂れ幕にも神社の賽銭箱にも書いてあります。

参拝後宮司さんにいろいろ尋ねたら、次の様な話をされていました.

 

~この神社は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮が、創建される以前神仏合祀だった時代に、八幡宮の場所にあった寺の住職が平戸の寺に移り住み、八幡宮創建の折に頼朝公の遺髪を貰い受け、寺で預かっていたが、それを収める社を隣に造って、「平戸白幡神社」としたらしい。~

 従って祀られている本尊は頼朝公であり、隣接する寺も現存します。9月18日の大祭にはみこしを担いで下方の国道1号線を練り歩くのです。

 元日の国道1号線路傍の立て看板には、明日2日、明後日3日午前中は、「大学箱根駅伝」で交通規制が敷かれる旨の注意が書いてありました。

 さらに宮司さんの話しでは、神社の境内に続く細い道に沿って行くと、上記の寺院に行けるとのこと。しかもその道は、旧東海道だというのです。早速行ってみました。道に沿って立派な長い白塀が、見えて来さました。随分敷地も広いし大きなお寺さんの様です。

 

正面の門柱が見えてきました。左右の門柱には、別々の仏門用語が刻まれていて、初めて見る漢字もあります。読み・意味不明。

  

 

 

 大きな本堂で、垂れ幕にやはり笹竜胆が印字されている。

 

来たついでにお札でも買おうと思って、左右をキヨロキヨロ見たのですが、それらしいところはなく、第一、人っ子一人いません。僧坊の玄関とおぼしき戸を開けて、「済みません」と大きな声を立てたのですが、暫くカタリとも音がせず、何回か叫んだら、一人の老師が出て来ました。お札を所望したら、”販売してません” とのこと。宮司さんに色々聞いたことを告げたら、  

❝そうなんです、この寺は、鎌倉の八幡宮が出来る前に、真言宗の寺だったものを、その後臨済宗円覚寺派に宗派替えして、この地に「東福寺」として建立、預かっていた頼朝公の遺髪を、隣地に開設させた「白幡神社」のご本尊として祀ったものです。❞と言う返答でした。

 お参りをした後は、家の墓参りをしました。掃除をして清めようと思ったのです。平戸から1時間もかからない市内にある墓地です。

 花に隠れて見えずらいですが、墓石に彫ってある家紋は笹竜胆です。源氏と言っても鎌倉系ではなく裏日本に散らばった源氏の末裔の模様。要するに頼朝側でなく義経が京から平泉に逃亡するのをスルーさせた裏日本系の源氏シンパだったかも知れない。何も記録が残っていないので、その内暇が出来たら新潟辺りのどのお寺かはっきりしないので、幾つかの過去帳を調べてみようかなという気も無きにしも非ずです。

 こうして令和五年の元旦は無事済みました。家に帰ったら、知り合いの家から頂いたというおせち料理を、家内がテーブルに広げていました。若い時の様に食べ物に固執することは、年々少なくなってきている今日この頃なので、ご馳走を見ても「うれしさも 半ば以下かな 貰い重」の心境で、むしろ夜NHKで放送した『ウィーンフィル ニューイヤーコンサート』を見れる方がずーっと嬉しいことでした。ほとんどの曲目が新登場という驚きのプログラムでした。