大晦日は何かにと忙しくて、お風呂に入ったのは除夜の鐘が鳴っている頃、風呂から上がったら翌日(翌年)になっていました。それから床についたので随分と遅くなってしまった。起床した時には日は高々と、燦燦と照る太陽光は眩しいばかりでした。所謂「日本晴れ」です。
雑煮を食しすぐに初詣でに出かけました。今年はオミクロン株の増加が懸念されている最中なので、都会の大神社には行けないし、かといって近くの小さい処では、元日参りの気分になれないので、何処にしようかと考えた末、神奈川県高座郡寒川町にある、「寒川神社」にしました。
ズーと昔、一度行った記憶があり、神奈川県でもかなり田舎の方で混んでいないかったことを思い出したからです。確か「一乃宮」と呼ばれる位ですから、由緒ある大きな神社だったのです。起源はその昔、奈良時代あたりでしょうか?いやもっと以前かも知れない、当時日本は地方地方に『国』があって、その国の鎮守社が「一之宮」と呼ばれたのです。例えば「武蔵国(むさしのくに)」(≒埼玉県)の一之宮は、埼玉県の大宮にある「氷川神社」、常陸国(ひたちのくに)(≒茨城県)の一之宮は「鹿島神宮」、下総国(しもうさのくに)の一乃宮は香取神宮等々。そして相模国(さがみのくに)(≒神奈川県)の一之宮が「寒川神社」なのです。 一乃宮の成立は南北朝時代ともさらに200年以上も遡るとも謂われる位で定説はないのです。国により異なった時代に成立したものが、室町時代には全国的に集大成されたと考えられます。寒川神社の起源は1600年前とも謂われます。寒川神社のある寒川町は、小田急線及び相鉄線及び相模線の「海老名駅」からバスで25分位、もしくは相模線の宮山駅から徒歩10分程の所にあります。次いでながら、内陸部なのに❛海老名❜という海を連想する名が付いた地名のいわれについて少し書きますと、これは恐らく当時、海がすぐ近くにあり、エビが取れた地域なので名付けられた地名なのでしょう。当時というのは、縄文海進の時代、7000年も前の地球の温暖化で海面が2~3mも高かった時代です。勿論当時は文字は無かったでしょうけれど、言葉は意思疎通に使っていた筈で、その地名の言葉は後世に言い伝えられ、文字が出来た時代に文字に落とされ表現されたと推測されます(自分の勝手な説です)。 ❛浦和❜や ❛鶯谷❜ 等も同類ではないかな?
行きはバス、帰りは電車にしました。神社に着いた広場には色んな飲食物売り場があり、結構な人が買い求め食べていましたが、くわばらくわばら、コロナが怖いので近づきませんでした。
参道口の鳥居には旗がたなびき結構な参拝者が集まりつつありました。
交通整理がなされていて、ある程度の参拝客が集まるまでロープで参道に入るのを止め、ある程度たまると参道を進むといった規制をしていました。参道を100m位進むと
「重層の門」がありました。
門の上部屋根の下にはいろいろ飾り立てがしてあります。
ここで又交通整理され、その先の本殿まで進むまで、少し待たされました。門をくぐると結構多くの参拝者が順番を待っています。本殿の前には大きい賽銭箱が用意され、参拝者がそれに向けて投げ錢をやっている人もいます。
10~15分して、やっと参拝が出来ました。参拝後はお御籤やお札などの申し受け所で若干のものを手に入れ、帰り時を急ぎました。もう15時を過ぎていました。(因みにお御籤は、何と大吉でした。これまでせいぜい中吉、悪い時は凶や大凶の時もあったのですから言う事無しです)
元日は天気が最高に良かったので、海老名駅からの途中の車窓からは西方向に、大山などの丹沢山系が良く空にくっきり見えました。
海老名から南方向にある寒川に向けて進むと、丹沢に隠れていた富士山も見えて来ました。
今年は行きませんでしたが、大山の上には「大山阿夫利神社」があり、江戸時代から大山に登って参拝する「大山詣で」が盛んに行なわれたそうです。江戸の民は、知り合いや同業者で『講』を組み、団体で参拝する風習があり、それを行うことが一人前として認められる条件の一つだったと言いますから、まさに❛所変われば(時代変われば)品代わる❜ ですね。
ついでの話しとして大山の山の上からは貝等の化石がよく見つかるのです。これは丹沢山系が火山系でなく海由来の山地だということを意味しています。現在有力な説は、その大昔の大昔、南のハワイ辺りにあった火山列島がプレートの動きにより北上して、現在の日本列島の基になった東西の大きな島の間隙にあった浅い海の部分に乗り上げるかぶつかって、さらに北に進み高さも次第に高くなって、現在の山地の形になったという説です。これも驚きですが現在の伊豆の山々も同様に南方から北上した火山列島が日本列島に衝突して出来たのであり、遠い未来には丹沢山系の後継者になるのではなかろうかと予測する向きもあるそうです。「事実は小説よりきなり」哉!