2011年の今日、都内にいたら、頑丈なビルでさえ崩れるのでは無かろうかという恐怖を感じる程のものすごい地震の揺れを感じ、周りの人共慌てて外に逃げました。近くの小公園は、そうした人々で一杯。コンクリート電柱が、嵐にあたった木々の様に揺れている。電線はブランコの如し。少し揺れが収まって建物に戻ると又かなりの揺れ、余震と雖もこれ程とは、相当に強い大地震、一体震源は何処だろう?最初に来たのは横揺れだったので、関東ではないだろうと思いながら、誰かがつけたテレビを見ると、福島県、それも海側だと言っています。しかも津波の恐れがあるので、急いで非難する様アナウンスしています。これは大変なことだと思って皆テレビを凝視していると、間もなく海の水位が上がって、波が横一線になって沖から進んで来るではないですか!やはり津波だ!でもその時はそれ程高くは見えなかったのですが、港に近づくにつれその大きさにびっくり、護岸を乗り越え、家々を、木々を、車を、人々を、あらゆるものを飲み込んで押し寄せている。もう皆見てて言葉がありませんでした。悪夢です。
あれから10年たったのですね。犠牲になられた方々、被害を受けられた方々には、あらためてお悔やみとお見舞いを申しあげます。
脳裏に浮かぶのは、震災前あの海岸沿いを電車に乗って見た景色。上野から常磐線特急に乗って水戸、いわきと進み、福島県に入ると右手の高台は、鉄条網で囲まれた一帯が現われてきて、高い煙突がかすかに見えたような気がする、きっと原発でしょう。さらに電車は、北上し、春は、田植えの済んだ緑一色の、秋には、稲穂がたわわと垂れ下がる黄金色の 田園地帯、今は再開した常磐線には新しい駅名が付いたのでしょうけれど、あの時は確か「小高」という駅があって、駅の目の前に稲穂がせまっていた記憶があります。そうしていると、右手には太平洋の緩やかにカーブした絵の様な海岸が見えてきました。海岸と線路の狭間を縫って国道が走り、多くの車が行き来しています。正直なところ、何回か、「こんなに海のそばを行き来する線路や幹線道路は、高潮時に水位が上がって、冠水することはないのかな?」と思ったことがありました。それが、高潮どころか津波という最悪の水害に見舞われたのですから、言葉がありません。
テレビをみていると、10年経っても復興はまだまだと報道されていますが、コロナ禍の時代でもあり、根気良く、粘り強く、コツコツと進める他無いですね。
それともう一つ心配なのは、原発です。汚水とかの問題も有りますが、やはり核燃料がまだあそこに多く残っている点が気がかりです。使用済み燃料棒は、今までより地震等により強い場所に移転したとは言え、まだ同じ原発の敷地内です。海の側です。それ以上に危険なのは、炉内で溶け崩れ落ちた核燃料のデブリが多く炉の底近傍にへばりついて残っていること。先月2月、マグニチュードの大きい余震が、十年経っても起きるということを目の当たりにしました。その時原子炉の冷却水の水位が下がって、炉内の底から数十センチになったため、冷却水の給水を増やすということが小さい記事で新聞に載っていました。余震で炉の亀裂が広がって冷却水の漏れが増えたため水位が下がったとのことでした。しかし実はこれは非常に大きな重大ニュースです。十年前原発事故で一番懸念されたことを思い起こせばすぐ分かります。あの時は、原子炉を冷却出来なくなって、核燃料が臨界点に達して(一種の原爆の様な状態になり)原子炉が爆発し、放射能が大量に漏れて広い地域が汚染される恐れがあったのです。実際にはかろうじて冷却が確保できて、爆発は発生した水素の爆発だったため、放射能汚染は懸念された程(関東地方など遠くの広い地域)には及びませんでしたが、それでも多くの住民が避難を余儀なくされたのでした。若し再び何らかの原因で、原子炉内のデブリが冷却されなくなれば、悪夢は再現されます。
東海村の臨界事故を思い出せば分かりますが、核燃料は冷却されなければ、バケツの中でも、自己発熱で温度が上昇し臨界点に達し核反応が起きてしまうのです。
一刻も早くデブリを取り出し、廃炉を何よりも優先して進めないと、将来何が起こるか分かりません。専門家がテレビで今後十年は大きな余震が再度起こることは十分あり得ると言っていました。(何らかの事故でデブリが臨界点に達すれば、関東地方も人が住めなくなるかも知れない)。憂いを後世に残してしまう。何十年かけて廃炉等とのんびり構えておれないと思います。